「知られざる地政学」連載(64):「トランプノミクス」:関税は地経学の絶好のテーマ(下)
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思い出すべき歴史:NAFTAからUSMCAへの変化
すでに説明したように、関税引き上げの重要な目的の一つは米国内の雇用拡大である。この問題を理解するには、北米自由貿易協定(NAFTA)から米・メキシコ・カナダ協定(USMCA)への変化について知らなければならない。ここでは、トランプ新政権下で要職に就くことが確実なロバート・E・ライトハイザー(2017~2021年まで米国通商代表)が『フォーリン・アフェアーズ』で2023年9月に公表した論文「新しいアメリカ型貿易のあり方」を参考にしながら説明したい。
NAFTAは自由貿易体制を擁護する議員によって、1993年、下院で234対200というわずかな票差で可決された。NAFTAは一部の米国の生産者を助け、トウモロコシ、大豆、豚肉などの一部の農産物の輸出は拡大した。だが、「全体的には、この協定は米国の利益にはならず、米国の労働者にはまったく役立たなかった」、とライトハイザーは指摘している。
なぜか。NAFTAの下では、利益率の向上を狙う多国籍企業は、低コストの労働力とほぼ無法状態の規制基準を活用できるメキシコに工場を簡単に移転することができたからである。その結果、「NAFTAが可決された後の数年間で、米国では400万以上の製造業の雇用が失われた」という。「貿易調整支援プログラムが収集したデータによると、少なくとも95万人の米国労働者がカナダとメキシコからの輸入品によって職を失った」、とライトハイザーは記している。貿易収支も同様であり、1993年には、米国はメキシコとの商品およびサービス貿易で75億ドルの黒字を計上していたが、2017年には1194億ドルの赤字を計上するに至ったのである。
北米の11自動車工場のうちメキシコに9工場
トラブルの主な原因は自動車産業だった。 NAFTAの時代、国際的な自動車会社は米国で自動車を販売するためにメキシコで生産し、部品サプライヤーもそれに追随していた。 自動車会社はメキシコの労働法を利用し、労働者が本物の労働組合を組織することを妨げていた。 クリントン政権は、協定発効からわずか数年で両国の賃金は収束すると予測していたが、実際には、メキシコの反労働法とNAFTA締結直後に行われたペソの大幅切り下げのおかげで、逆のことが起きる。 2016年までには、メキシコの低賃金と米国の高賃金の差は、1993年当時よりもさらに大きくなる。トランプが米大統領に就任する頃には、北米で建設されていた11の自動車工場のうち9つがメキシコに立地していた。
NAFTAのお粗末な規定が自動車業界を助けた。たとえば、NAFTAは、1993年に自動車に搭載されていなかったが、その後一般に搭載されるようになった自動車部品をすべて北米で製造されたと「みなす」とした。その結果、多くの外国製部品が免税の対象となってしまったのである。それは、電子機器、GPS、先進安全システムなどの自動車にとって重要な部品・サービス供給の空洞化を促した。
こうしてNAFTAの問題点に気づいた、2008年の民主党大統領候補バラク・オバマとヒラリー・クリントンはNAFTAの再交渉もしくは廃止を公約に掲げた。だが、大統領となったオバマはNAFTAを見直すことはしなかった。この不満を勝利につなげたのが2016年に当選したトランプなのである。
新しい貿易哲学USMCA
2019年12月、下院は、385対41の賛成多数で米・メキシコ・カナダ協定(USMCA)を承認した。「70年間常識とされてきた野放図な自由貿易の理念を覆し、通商政策の流れを変えた」とライトハイザーは高く評価している。なぜかというと、NAFTAと異なって、民主党、共和党という党派性を超えて、両党の議員の90%以上がこの協定を支持したことがその後の米国の政治そのものを大きく変えたからである。
約1兆3000億ドルの商品とサービスを対象とする破綻した北米自由貿易協定を、製造業の国内回帰、米国人の雇用創出、メキシコにおける労働基準の実施、環境の質の支援、農業市場の開放、デジタル貿易に関する抜本的なルールの策定などを目的とした新しい種類の協定に置き換えるというUSMCAの制定は、とくに共和党と米国内労働者との関係を変えた。マルコ・ルビオ上院議員やジェイソン・スミス下院歳入委員長(通商交渉において「アメリカの労働者を第一に考える新たな道筋」を求めた)のような議員を筆頭に、労働者寄りの共和党の新しい世代の指導者たちが台頭しはじめることになったのである。
「ある意味では、USMCA交渉は、一部の共和党上院議員に貿易について異なる考えをもつよう促した」、とライトハイザーは的確に指摘している。自由貿易一辺倒という、それまでの共和党の政策を改める必要性に気づかせたのだ。同様に、自由貿易協定に長年反対してきた一部の民主党議員も、そのような協定が労働者を第一に考えられると確信するようになったのである。
別言すると、何十年もの間、貿易政策は主にグローバリゼーションを通じてより多くの利益を得ようとする大企業によって決定されてきた。自由貿易協定は、企業の利益を増大させ、消費者の価格を引き下げることを目的としてきた。それに対し、USMCAが先導した新しい貿易哲学は、アメリカの労働者の保護と米国の製造業セクターの拡大に重点を置いている。
この歴史的変質に気づいていない者が多すぎる。その結果、2019年からつづく米国政治の抜本的変化をうまく説明できない専門家や学者が大多数いる。地経学は地政学と直結しており、貿易や関税といった経済の問題を知らなければ、政治的変化も決して理解できまい。
USMCAの変更点
NAFTAの下では、関税撤廃の対象となる自動車の構成部品の調達割合は62.5%が域内調達されなければならないと定められていた。だが実際には、2016年までに、抜け穴やNAFTAが予期しなかった変更により、外国製の部品がほとんどの自動車でも対象となることができた。これに対処するため、USMCA交渉における米国側は域内調達率の最低基準を75%に引き上げるよう主張した。USMCAは、中国製を含む外国製部品を域内調達率としてカウントすることを認めていた「みなし原産地」の抜け穴を塞ぎ、この割合が公正に計算されるようルールを書き換えた。
さらに、USMCAは、自動車の部品の40%(トラックの場合は45%)を高賃金の工場で生産することを義務づけるという新しい規定を追加した。これは事実上、米国とカナダの工場を意味する。この「労働価値内容」ルールは初めてのものであり、すでに米国への製造業回帰に貢献している。USMCAでは、自動車に使用される鉄鋼およびアルミニウムの70%を北米から調達することも義務づけられており、エンジンやシャーシなどの特定の中核自動車部品については、域内原価評価要件を満たすことが義務づけられている。これらの変更は、電気自動車への移行傾向を考慮したものである。実際には、USMCAの域内原価および労働原価評価規定により、企業は電気自動車のバッテリーの大部分を米国で生産せざるをえなくなる。
USMCAの利点
NAFTAが不評となった理由のひとつは、メキシコの労働法が労働者に対して非常に不親切であったため、メキシコの賃金が低く停滞したままだったことである。この問題に対処するため、USMCAには貿易協定に盛り込まれた労働規定の中でもっとも包括的で高水準の規定が設けられている。この規定は、メキシコを含むすべての署名国に対して、労働者の代表、団体交渉、手続き上の公平性を保証することを求めている。これらの義務は協定に基づいて強制力を持つ。さらに、迅速対応メカニズムにより、米国政府による監視が提供され、メキシコにおける雇用主による不当な行為に異議を申し立て、迅速な解決または厳しい処罰を求めるための具体的な手続きが定められている。このような規定が盛り込まれた貿易協定はこれまでになかったことを考えると、USMCAの大きな成果だと言える。
USMCAには、船舶による汚染の制限、違法漁業対策、野生生物の密売阻止などの公約を含む、貿易協定の中で最も強力かつ包括的な環境保護義務が盛り込まれている。NAFTAとは異なり、USMCAではこうした義務が協定の中心に組み込まれ、紛争解決プロセスを通じて完全に執行可能となっている。NAFTAは数十年も前の協定であったため、現代のデジタル経済に関する義務は含まれていなかった。一方、USMCAにはデジタル貿易に関する画期的な章が設けられている。この章では、デジタル貿易への関税の適用を禁止し、データの国境を越えた移動を確保し、電子認証の採用を奨励し、サイバーセキュリティの協力を保証している。
USMCAは、企業が現地の法制度を回避し、代わりに仲裁で国を訴えることを認めることで、NAFTAを台無しにした「投資家対国家の紛争解決」要件を事実上排除している。この乱用により、選挙で選ばれていない外国の仲裁人が米国に新たな義務や責任を課す権限をもつことになった。また、メキシコの司法手続きの恣意性など、メキシコの法制度に一般的に伴うリスクを排除することで、米国の投資家が米国ではなくメキシコに投資することを不当に奨励することにもなった。
貿易協定において初めて、USMCAは中国のような非市場経済国の慣行に直接対処している。この協定は「国有企業」の定義を拡大し、外国の汚職と戦うための北米諸国間の協力を強化し、脱税に関するさらなる調整を求めている。そしてもっとも重要なのは、USMCAが、北米3カ国のいずれかが中国と自由貿易協定を締結した場合、他の2カ国はUSMCAから脱退できると規定していることだ。
また、USMCAは製造業にとどまらない。たとえば、この協定は米国の酪農家にとってカナダ市場への前例のないアクセスを必要とし、カナダの保護主義的慣行を、小麦を含む多くの農業分野で禁止し、テレビのストリーミング権や動物用飼料などの問題について、米国とカナダの貿易関係における長年のいくつかの不満を解消する。
最後に、USMCAはサンセット条項(失効条項)を含む初の主要貿易協定である。協定の条件は6年ごとに再検討されなければならない。米国が協定の運用に満足できない場合、変更を主張することができる。ワシントンが満足するような変更が行われない場合、見直しから10年後にこの協定は自動的に終了する。これにより、米国が2017年の状況に逆戻りすることはないだろう。つまり、抜け穴だらけで経済の変化に対応できず、米国の労働者にとってひどく不公平な貿易協定の下で苦しんだ23年間が繰り返されることはないのだ。
「トランプノミクス」では、現行USMCA規定を活用し、必要であれば新たな手段を講じて、メキシコ経由の中国製品の輸入を阻止しなければならないと考えている。近年、中国からメキシコへの輸入は増加しており、同国への中国からの投資も増加している(2022年、USMCAの紛争処理小委員会がカナダとメキシコの主張を認め、域内で製造された自動車部品の定義を柔軟化することを認めたことを米政府は問題視している)。こうした活動の多くは、米国市場への中国製品の輸出拡大を目的としている。その意味で、対メキシコ関係は、移民問題解決と合わせて、「トランプ2.0」にとってきわめて重要になっている。
メキシコとの関係
トランプは11月4日、ノースカロライナ州での集会で、大統領就任後、最初に電話をかける相手としてメキシコのクラウディア・シェインバウム大統領の名を挙げた。さらに、「就任初日か、それより早く、犯罪者と麻薬の流入を止めないなら、米国に送られるすべての品目に25%の関税を即座に課すと、彼女に伝えるつもりだ」と語った。
2023年、米国はメキシコから1520億ドルの商品を輸入し、中国以外の国に対して抱える最大の貿易赤字相手国となった。これを考えると、トランプの脅しは現実味を帯びている。トランプは2026年のUSMCA見直しを再交渉に変えたいとのべている。彼はメキシコから米国に流入する中国製部品を使った自動車を非難している(といっても、メキシコでは中国企業がまだ1台も自動車を生産していない)。
実は、トランプの1期目に中国に課された関税によりメキシコは恩恵を受けた。米企業は代替生産拠点としてメキシコに注目したからである。2021年にはメキシコが中国を追い抜き、米国最大の貿易相手国となった。
トランプにとって、メキシコは不法移民問題を解決するための最重要相手国である。このため、関税引き上げを脅しに使って、不法移民対策を有利に進めたいと考えているに違いない。2022年のアメリカン・コミュニティ・サーベイ(American Community Survey)に基づくピュー・リサーチ・センターの新しい推計によると、2022年のアメリカの無許可移民人口は1100万人に増加した。メキシコからの無許可移民の数は、2007年の690万人をピークに、2022年には400万人に減少したが、それでも断トツの1位である。
メキシコからみると、メキシコからの米国への輸入品課税で大打撃を受ける可能性が高い。なぜならメキシコの輸出の実に83%が米国向けであり、その額はGDPの約3分の1に相当するからだ。実は、トランプは1期目の大統領就任中、メキシコに対して、亡命申請の審査中は移民を自国側で拘束するよう強制するために、この脅威を利用した。メキシコは、北部国境に約1万5000人の軍を配備して移民の北上を阻止し、南部国境には6500人を配備した。
今回、トランプはメキシコに「安全な第三国」としての地位を認めさせ、メキシコ以外の移民は米国ではなくメキシコで亡命申請を行わなければならないようにしようとしている。メキシコはこれを「レッドライン」として断固拒否している。さらに、不法入国した後に米国で暮らすメキシコ人の一部をメキシコに送り返すことにもメキシコに協力するよう命じる可能性もある。
命にかかわるという点で、より重要なフェンタニル問題もある。近年、米国の法執行機関はメキシコの協力なしにメキシコの犯罪集団と戦うことが多くなっている。トランプの政権高官が共同行動に乗り出す可能性は低い。トランプはメキシコの犯罪集団を外国テロ組織に指定し、自らの政権が犯罪集団を追及する余地をさらに広げようとしている。メキシコにあるフェンタニルの製造拠点を空爆するという脅しも脅しでないかもしれない。
このようにみてくると、シェインバウム大統領はトランプとの駆け引きを余儀なくされ、関税を回避するのに十分魅力的な提案を提示しなければならないとみられている。「米国との国境を越える不法移民の数は、メキシコの取締強化により、2023年12月から今年8月までの間に77%減少した」(The Economistの情報)。つまり、彼女は、トランプの望み通り、移民対策にさらに多くの兵士を投入することもできるのだ。
「トランプ1.0」の時代
欧米や日本のマスメディアは、トランプを貶めるために、関税引き上げが経済混乱を引き起こすといった短絡的なディスインフォメーションを垂れ流しつづけてきた。それらの発信源は、ここで紹介したような関税関連のナラティヴ(物語)を知っているのだろうか。おそらく、皮相で浅薄な知識を駆使して騙そうとしているに違いない。
「トランプ1.0」の時代をみても、実際には、めちゃくちゃな関税政策をとったわけではない。しかも、ジョー・バイデン大統領はちゃっかりその関税策を維持してきた。たとえば、トランプ大統領は在任中、3600億ドル相当の中国からの輸入品に最大25%の関税を課したが、バイデン政権になると、これらの税金のほとんどが維持されただけでなく、中国製の電気自動車、コンピューターチップ、太陽電池には追加課税がなされたのである。
あるいは、中国で製造されているiPhoneのように、トランプ政権を説得して、アップルの販売するほとんどの製品に対する関税が免除されたという事実もある。
アップル社のティム・クック社長は当時、関税はスマートフォン、パソコン、タブレットの価格を上昇させ、アップルに打撃を与えるとのべ、関税免除に成功した(WPを参照)。バイデン政権もトランプ政権の関税策をほぼ維持したため、中国から輸入される自転車、スーツケース、洗濯機には関税が課されたが、中国の工場で組み立てられたiPhone、Macパソコン、iPadには課されていないという状況になっている。
ほかにも、トランプは、中国との最初の貿易戦争では玩具に課税しなかった。2019年12月にそうするつもりだったが、米国が中国と合意に達したため、課税は延期され、その後中止されたのである。
こう考えると、「トランプ2.0」においても、各国ごと、テック・ジャイアンツごとに、関税上の配慮ないし恣意性が働く可能性も残されている。要するに、トランプを満足させる「ディール」(取引)となるかどうかが試金石なのだ。
ここでの考察からわかるように、関税は地経学上の絶好のテーマと言える。どうか、ここで論じた視角から、関税問題について関心をもっていただきたい。
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1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。 著書:(2024年6月に社会評論社から『帝国主義アメリカの野望:リベラルデモクラシーの仮面を剥ぐ』を刊行) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。