「知られざる地政学」連載(68):「アジア」からの視角:2024年「ノーベル経済学賞」を批判する(上)
国際これまで生きてきたなかで、もっとも影響を受けた論文の一つに、柄谷行人が書いた論文「美術館としての歴史――岡倉天心とフェノロサ」がある。これは、『定本 柄谷行人集4』に所収されている。この論文のなかに、つぎのような記述がある(131~132頁)。
「東京美術学校の創設において伝統派が勝利したのは、それが伝統的だったからではなく、それが西洋画に評価され、且つ産業としても成立していたことにもよるのである。もちろん、東京美術学校は、設立後十年も立たぬうちに、岡倉を追いだした西洋派にとってかわられた。しかし、「西洋派」はそれ以後根本的な背理に苦しむことになるだろう。なぜなら、日本において先端的であり反伝統的と見える仕事は、西洋においてはたんなる模倣と見えてしまい、「伝統派」は回帰したほうがかえって先端的に見えるからである。この問題は、今日にいたるまで続いている。たとえば、日本において尊敬される「西洋派」は、西洋において何の価値も与えられていない。そして、何らかのかたちで西洋において評価されるアーティストは事実上、「伝統派」に回帰している。なぜなら、そのほうがかえって前衛的に見えるからである。」
この評価の問題は、「他の領域においても同じことがいえる」として、柄谷は文学を例示している。その延長線上に「社会科学」といった領域もある、と私は考えている。私の専門としてきた経済学なる分野でも、西洋派が圧倒的に優位に立ちつづけているだけでなく、日本画における伝統派に似た存在は明治以降、その姿を消してしまった。この結果、何が起きてきたかというと、西洋派の支配である。それは、いまでもつづいている。その結果、間違った見方や価値観が日本に跋扈する要因にもなっている。
西洋派への懐疑の芽
だが、いま世界を見渡すと、西洋派への鋭い懐疑が提起されている。これは、いわば「アジア派」の台頭を意味している。ここで、柄谷の別の指摘を紹介しておきたい。この問題が「ヘゲモニー」という世界支配の問題に深く関係していることをわかってほしいからだ。
「岡倉が美術館を重視したのは、美術館における評価と配列が、ニュートラルな美術の問題ではなくヘゲモニーの問題であることを直観していたからである。ヘーゲルの「美学」を日本に伝えたのは、フェノロサである。しかし、フェノロサにはヘーゲルのような西洋中心主義はなかった。彼にとってヘーゲルのいう「世界精神」は、文字通りコスモポリタンでなければならなかった。たとえば、主著『東亜美術史綱』で、彼は日本美術を広く古代ギリシャ・太平洋美術に通じるものとして扱っている。フェノロサにとって、古代日本の美術にギリシャの痕跡が見いだされることは、大きな喜びであっただろう。しかし、おそらく岡倉にとって、フェノロサのコスモポリタニズムには形を変えた西洋中心主義がひそんでいると見えたはずである。彼は「東洋」を一つの自律的世界と見なさなければならなかった。しかも、それは美術においてのみ可能であった。」
この美術においてのみ可能であったという視角を、別の分野にも適用できるのではないかと悪戦苦闘してきたのが私である。拙著『復讐としてのウクライナ戦争 政治哲学:それぞれの正義と復讐・報復・制裁』は、キリスト教神学批判として書かれた画期的な著作であると自負している。
論文「2024年のノーベル賞受賞者は中国だけでなく欧米についても間違っている」
2024年度「岡倉天心記念賞」の受賞が決まった本年12月、私は、ここで紹介した岡倉の視点を経済学に適用できると確信した論文に出合った。論文のタイトルは、「2024年のノーベル賞受賞者は中国だけでなく欧米についても間違っている」(The 2024 Nobel laureates are not only wrong about China, but also about the West)というものである。書いたのは、ユエン・ユエン・アン(Yuen Yuen Ang)ジョンズ・ホプキンス大学アルフレッド・チャンドラー政治経済学教授(下の写真)である。論文は、オープンソサイエティ財団のプロジェクトである『The Ideas Letter』で最初に発表され、その後、「ThinkChina」のサイトでも読めるようになっている。ほぼ同じ内容になっている。
Yuen Yuen Ang
(出所)https://politicalscience.jhu.edu/directory/yuen-yuen-ang/
AJRの業績
なぜ私がこの論文を高く評価するかを説明する前にしなければならないことがある。スウェーデン王立科学アカデミーは2024年アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン中央銀行経済科学賞をダロン・アセモグル、サイモン・ジョンソン、ジェイムズ・A・ロビンソン(以下、AJR)に授与すると発表したが、そんな彼らの業績の話を知らなければ、Yuen Yuen Angの彼らへの批判の理由を理解してもらえないだろう。
授賞理由の説明によると、AJRは、①ヨーロッパの植民地支配者が導入したさまざまな政治・経済制度を検証することで、制度と繁栄の関係を明らかにした、②制度の違いがなぜ持続するのか、制度はどのように変化しうるのかを説明できる理論的ツールを開発した――という2点を挙げている。
AJRの主張を簡単に説明したのが下図である。「運命の逆転」として、図の下段の変遷は、「もっとも貧しく人口密度の低い地域において、ヨーロッパの植民者は長期的な繁栄に貢献する社会制度を導入した」こと、および、「産業革命後、かつて最貧国であった旧植民地が最富裕国となった」ことまでを示している。これに対して、上段は、もっとも裕福で人口密度の高い植民地の例を示しており、その制度は収奪的であり、現地住民にとっては繁栄につながりにくいものであったというのだ。
AJRによれば、「大衆を搾取するために作られた制度は長期的な成長にとって有害であるが、一方で経済的な自由と法の支配を確立する制度は長期的な成長にとって有益である」。たとえ支配エリート層に短期的な利益をもたらすような収奪経済システムであっても、より包括的な制度の導入、収奪の縮小、法の支配により、誰もが長期的な利益を得ることができるという。それを示しているのが図の下段ということになる。
ここでの説明をもう少し理解してもらうために、AJRが2002年に公表した有名な論文「運命の逆転:現代世界の所得分配の形成における地理と制度」の記述を紹介しておこう。下図の下段から上段へと「逆転」現象が起きた理由について、つぎのように書かれている。
「私たちは、異なる環境における代替植民地化戦略の収益性の違いが、制度の逆転をもたらしたと主張した。ヨーロッパ人は、人口が密集し繁栄している地域では、すでに存在していた収奪的な制度を導入したり維持したりして、現地住民に鉱山や農園での労働を強制し、既存の税や貢納制度を乗っ取った。これとは対照的に、それまで人がまばらに住んでいた地域では、ヨーロッパ人が大勢で移住し、私有財産制度を確立した。これにより、社会の幅広い層に安全な財産権が与えられ、商業や工業が奨励された。この制度上の逆転が、相対的な所得における逆転の種を蒔いた。」
「しかし、おそらく、所得の逆転とその後の乖離の規模は、19世紀に工業化の機会が現れたことによるものである。抽出制度(権力と資源を少数のエリートや支配階級に集中させる経済的・政治的仕組み)をもつ社会や、極めて階層的な構造を持つ社会では、利用可能な農業技術を比較的効果的に利用することができたが、産業技術の普及には、小規模農家、中流階級、起業家など、社会の幅広い層が参加することが必要であった。したがって、産業化の時代は私有財産制度をもつ社会に大きな利点をもたらした。この見解に沿って、私たちは、これらの社会が産業化の機会をより有効に活用したことを立証した。」
植民地化の二つのタイプと産業革命後の推移
(出所)https://www.nobelprize.org/uploads/2024/10/popular-economicsciencesprize2024.pdf
やりきれない不誠実
他方で、アセモグルとロビンソン(以下、AR)は、2012年に発表した制度に関する研究の総括『なぜ国家は衰退するのか』のなかで、17世紀後半のイングランド、バルバドス、バージニアを例に挙げている。イングランドとバージニアは、財産権、立法議会、限定的ではあるが徐々に拡大する選挙権といった、包括的な制度となった。一方、バルバドスは、少数のエリート層が利益を得るために奴隷労働に依存する、収奪的な制度となった。
これは、事実だが、ARは重大な局面をまったく無視している。FTによれば、ARは、バージニア会社は採取モデル、つまり金鉱探しから始まり、1620年代にはバージニア州議会のような包括的な制度の開発に着手し、「米国における民主主義の始まり」となったと主張している。だが、ARが引用した書籍(エドマンド・モーガン著American Slavery, American Freedom)には、初期バージニアにおける民主主義と奴隷制度の制度は、同じ出来事をきっかけに同時に発展したと主張されている。バージニアがタバコ農園として発展した最初の約30年間、奴隷として強制労働に従事するアフリカ人と白人契約労働者は同様に軽蔑的な扱いを受け、一緒に畑で働かされ、しばしば共闘し、結婚さえした。しかし、白人バージニア人の契約労働者の寿命が延びると、彼らは反乱を起こし、大農園主の特権の制限を要求した。バージニア州では同じ時期に奴隷法が制定され、奴隷間の結婚が禁じられ、母親の地位が子供の地位に影響を与えるという「胎内法」が制定され、奴隷身分が永続的であることが確認され、白人女性が黒人男性との間に子供をもうけることを控えるよう勧告された。
モーガンは、世紀末までに、黒人奴隷制度という搾取的な制度は、より厳格で残忍なものへと変化し、ウィリアムズバーグの植民地における民主的な制度がより代表的なものになっていったと主張している。バージニア州の白人のための包括的な制度は、黒人奴隷制度という搾取的な制度があったからこそ可能になったというのである。
つまり、ARは、American Slavery, American Freedomという本を読み、アメリカの自由に関する部分は利用したが、奴隷制に関する部分は無視したことになる。ここに、ARの不誠実な態度がある。そして、そんな彼らにアルフレッド・ノーベル記念スウェーデン中央銀行経済科学賞を与えるというのだから、もう誠実さのかけらも見当たらない。
Yuen Yuen Angの批判
つぎに、Yuen Yuen Ang論文の中身、すなわちAJR批判についてみていこう。彼女は、AJRの主張の核心が「政治制度が開発にとって重要であり、それは地理的属性のような固定的属性よりも重要であるということだ」と書いている。具体的には、「包括的で非抽出的」な制度を持つ社会は繁栄しやすい、と彼らは考えていると指摘している。
そのうえで、彼女は、「私が疑問に思うのは、彼らが「良い」と分類する世界のどの地域がそれに該当するのか、そして、富と権力に貢献したのは、植民地支配などの他の明白な理由ではなく、そのような善良さと民主主義であるという主張である」、と記している。そして、AJRの主張は中国について間違っているだけでなく、西欧の繁栄を民主主義だけで説明しようとするのは間違っている、と明言している。
「知られざる地政学」連載(68):「アジア」からの視角:2024年「ノーベル経済学賞」を批判する(下)に続く
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1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。一連のウクライナ関連書籍によって2024年度「岡倉天心記念賞」を受賞。 著書:(2024年6月に社会評論社から『帝国主義アメリカの野望:リベラルデモクラシーの仮面を剥ぐ』を刊行) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。