【特集】日航機123便墜落事件

日航123便墜落事故:美谷島邦子氏が目撃したNHKのテロップについて

市民記者:小幡瞭介(おばた りょうすけ)

第一弾、第二弾の記事では、海外紙が報道した記事や柳澤秀夫氏に関する情報などを紹介した。
今回の記事では、8・12連絡会事務局長を務めている美谷島邦子氏が目撃したNHKのテロップについて解説する。

123便の遺族の1人である美谷島邦子氏の著書の1冊に『御巣鷹山と生きる』という本がある。

この本は、123便の謎や矛盾点などを長く調査しているワタナベケンタロウ氏のYouTube動画「【日航機墜落事故㊴】本当の事、話します。だから目は瞑れない。 」でも取り上げられたことがあるので、ご存知の方も多いだろう。

『御巣鷹山と生きる』には以下の通り書かれており、美谷島氏はNHKのテロップを見て事故を知ったことがわかる。(以下の箇所はKindle版のサンプルでも閲覧可能:https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B07KK93CH9/ref=tmm_kin_swatch_0?ie=UTF8&qid=&sr=)

≪午後6時12分に離陸した123便の機影を見えなくなるまで見送り、家に戻ったその途端、「JAL123便の機影が消えた」というテロップがNHKのテレビニュースで流れた。≫

しかし、上記の情報だけでは、美谷島氏がテロップを見た時刻・タイミングは推測できない。

実は、美谷島氏が目撃したテロップは、ニュース番組内で流れたテロップであったことがわかる資料があるので紹介する。

『幼児と保育』1986年9月号52〜55ページに、以下の通り書かれている。

≪健ちゃんごめんね
ママはこの事故を決して風化させない
日航ジャンボ機御巣鷹山墜落
事故被災者家族の会事務局長
美谷島邦子さん
悲しみの遺体確認から一年
「……健の手が確認されたのが17日でした。イボがあったので、すぐ健の手だとわかりました。私がその手にさわったときは、まだなまあたたかったんです……」
 わが子の遺体確認の様子を話す美谷島邦子さん(39歳)の声は、消え入りそうになった。顔は蒼ざめている。いくら取材とはいえ、それ以上思い出させることはつらい。
(中略)
 善昭さんの運転した車が自宅に着いたのは午後7時少し前。家族はすでに夕飯のテーブルについていた。善昭さんと邦子さんは少し遅れてテーブルについた。
 テレビのニュースで午後7時がまわったのを知った。突然、アナウンサーの声が途切れて画面に『羽田発大阪行きの日航ジャンボ機123便が消息を絶った』というテロップが流れた。
「あっ、健の乗ったジャンボ機だわ!」
 邦子さんは絶句した。血の気がみるまにひいていく。
「落ちつけ! ジャンボ機が落ちるわけはないだろう。なにかのまちがいだよ」
 おじいさんは邦子さんの気を鎮めるようにいった。≫

上記の情報と『御巣鷹山と生きる』に記載されている情報を総合すると、美谷島氏はNHKの「19時のニュース」内で流れたテロップを見て事故を知った、ということがわかる。

つまり、美谷島氏の体験からも、NHKは19時26分の松平定知アナの原稿読み上げよりも前にテロップを流していたことがわかるのである。

私は、第五弾目の記事「NHKの第一報について」のなかで、≪私は、小林氏の証言通り、NHKは18時台にテロップで第一報を流したのではないかと考えている。≫と述べた。(小林氏とは、小林宏之氏のことである)

NHKの第一報が18時台のテロップだったのであれば、「なぜ『幼児と保育』1986年9月号掲載の記事には、18時台のテロップについて書かれていないのか」という疑問も出てくるだろう。

私としては、その理由は、単純に美谷島氏が18時台に流れたテロップを見逃したからだろうと推測している。ただし、これは私の推測にすぎないので、「美谷島氏は18時台にNHKをしっかりと見ていたが、そのときテロップは流れなかった」という可能性もゼロではない。

しかし、いずれにせよ、NHKが19時26分の松平アナの原稿読み上げよりも前にテロップを流したことは間違いないだろう。

8・12連絡会事務局長を務めている美谷島邦子氏の記憶と、「NHKの第一報は松平アナの原稿読み上げだった」とする定説の矛盾点が社会に知れ渡り、真相解明への機運が高まることを願っている。

付記:関口保幸氏の貴重な証言について
実は、『映画テレビ技術』1985年10月号に、当時フジテレビ報道部に所属していた関口保幸氏の貴重な証言が記載されているので紹介する。

『映画テレビ技術』1985年10月号16ページには、以下の通り記載されている。

≪テレビニュースの現場から
スクープの蔭で〜日航機墜落現場取材記
関口保幸
 乗員乗客524人を乗せた,日本航空123便の機影がレーダーから消えたとの一報を受けたのは,私が羽田で,山下運輸大臣のインタビュー取材を終え,帰宅しようとした時であった。≫

上記の記述から、事故当日、関口氏は羽田空港にいたことがわかる。

ただし、関口氏が事故発生時に羽田空港にいたかどうかは不明である。

なぜなら、関口氏の証言は、「一報を受けたのは、羽田で取材を終え、(羽田から)帰宅しようとした時であった」とも解釈できるし、「一報を受けたのは、羽田で取材を終え、(会社に戻ったあと、会社から)帰宅しようとした時であった」とも解釈できるからである。

さて、私の第七弾目の記事「他社に先がけて第一報を流したのはフジテレビだった」で紹介した通り、 1985年8月20日付『電波タイムズ』5面には、事故当日のフジテレビについて≪他社に先がけて第一報のニュースを送り出した≫と書かれている。

仮に事故発生時、関口氏が羽田空港にいたのであれば、関口氏は迅速にフジテレビ報道部に連絡していたであろうから、≪他社に先がけて第一報のニュースを送り出した≫という情報の裏付けにもなり得る。

関口氏が事故当日の記憶を再発信してくださることを願っている。

【参考文献】
• “美谷島邦子”. Wikipedia. https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E8%B0%B7%E5%B3%B6%E9%82%A6%E5%AD%90 (参照 2025-01-18)

• ワタナベケンタロウ. “【日航機墜落事故㊴】本当の事、話します。だから目は瞑れない。”. YouTube. 投稿日:2021-10-22. https://m.youtube.com/watch?v=FlKO_FgUEvE (参照 2025-01-18)

• “Amazon.co.jp: 御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年― 電子書籍: 美谷島邦子: Kindleストア”. Amazon. https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B07KK93CH9/ref=tmm_kin_swatch_0?ie=UTF8&qid=&sr= (参照 2025-01-18)

• 美谷島邦子・大高ゆきお. 健ちゃんごめんね ママはこの事故を決して風化させない. 幼児と保育. 1986, 9月号, p.52-56.

• 東京ニュース通信社. レポートスペシャル テレビ各局が総力戦で臨んだ日航機墜落大惨事. 週刊TVガイド. 1985, 8月30日号, p.26-27.

• NHK. “7時のニュース・天気予報<ニュースのみ二ヶ国語放送>”. NHKクロニクル. https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A198508121900001300100 (参照 2025-01-18)

• 小幡瞭介. “日航123便墜落事故:NHKの第一 報について”. ISF独立言論フォーラム. 2024年6月21日公開. https://isfweb.org/post-38976/ (参照 2025-01-18)

• 小林宏之. 航空安全とパイロットの危機管理. 交通研究協会. 2016, p.98-99.

• 関口保幸. “テレビニュースの現場から スクープの蔭で〜日航機墜落現場取材記”. 映画テレビ技術. 1985, 10月号(No. 398), p.16. 国立国会図書館デジタルコレクション. https://dl.ndl.go.jp/pid/4433179/ (参照 2025-01-18)

• 小幡瞭介. “日航123便墜落事故:他社に先がけて第一報を流したのはフジテレビだった”. ISF独立言論フォーラム. 2024年8月1日公開. https://isfweb.org/post-40914/ (参照 2025-01-18)

• 劇的救出をスクープ 現地↓ヘリ中継で機先. 電波タイムズ. 1985-08-20. p.5.

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