【連載】今週の寺島メソッド翻訳NEWS

☆寺島メソッド翻訳NEWS(2024年6月28日):CIAとメディア(1)(初出:1977年10月20日)

寺島隆吉

※元岐阜大学教授寺島隆吉先生による記号づけ英語教育法に則って開発された翻訳技術。大手メディアに載らない海外記事を翻訳し、紹介します。

※なお、本稿は、☆寺島メソッド翻訳NEWS(2024年6月28日):CIAとメディア

http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-2537.html
からの転載であることをお断りします。

また英文原稿はこちらです。THE CIA AND THE MEDIA

筆者:カール・バーンスタイン(Carl Bernstein)
出典:Rolling Stone  1977年10月20日
https://www.carlbernstein.com/the-cia-and-the-media-rolling-stone-10-20-1977

1977年にワシントン・ポスト紙を退社したカール・バーンスタインは、冷戦時代のCIAと報道機関の関係を半年かけて調査した。1977年10月20日にローリング・ストーン誌に掲載された彼の25,000字に及ぶ特集記事を以下に転載する。

CIAとメディア

アメリカ最強のニュースメディアはいかに中央情報局(CIA)と手を携えていたか、そしてなぜチャーチ委員会*はそれを隠蔽したのか?
チャーチ委員会*・・・Church Committee、正式には「諜報活動に関する政府活動を調査する米国上院特別委員会」は、1975年に米国上院の特別委員会で、中央情報局(CIA)、国家安全保障局(NSA)、連邦捜査局(FBI)、内国歳入庁(IRS)による不正行為を調査した。アイダホ州選出のフランク・チャーチ上院議員(民主党)が委員長を務めたこの委員会は、「諜報の年」と呼ばれた1975年に、下院のパイク委員会や大統領主催のロックフェラー委員会など、諜報機関の不正を調査した一連の調査の一環であった。この委員会の努力は、常設の米上院情報特別委員会の設立につながった。(ウィキペディア)

カール・バーンスタイン

1953年、アメリカを代表する通信社連合専属のコラムニストであったジョセフ・オールソップは、選挙を取材するためにフィリピンへ赴いた。彼がそこへ行ったのは通信社連合から依頼されたからではない。また彼のコラムを掲載している各新聞から求められたからでもない。彼はCIAの依頼によって行ったのだ。

CIA本部に保管されている文書によれば、オールソップは過去25年間に中央情報局(CIA)ために秘密裏に任務を遂行した400人以上のアメリカ人ジャーナリストの一人である。これらのジャーナリストのCIAとの関係は、表面に出ないものもあれば、表面に出るものもあった。協力や調整、そしてその二つが重複するものもあった。ジャーナリストは、単純な情報収集から共産主義国のスパイとの仲介役まで、あらゆる秘密の仕事を行なった。記者は自分のノートをCIAと共有していた。編集者たちはスタッフを共有していた。ジャーナリストの中にはピューリッツァー賞を受賞した優秀な記者もいて、別に認証されているわけではないが、アメリカ大使を自認しているものもいた。大半の記者はそれほど高い地位に就いているわけではない:CIAとの関係が仕事に役立っていることを知った海外特派員;記事を提出するのと同しくらいスパイ業の大胆さに興味を持っている通信員やフリーランサー;そして、数は一番少ないが、海外でジャーナリストを自称するフルタイムのCIA職員。多くの場合、CIAの文書によると、ジャーナリストはアメリカの主要な報道機関の経営陣の同意を得て、CIAの任務を遂行していた。

CIAとアメリカの報道機関との関わりの歴史は、「曖昧にする」、「欺く」という公式政策があるためずっと覆い隠されている。その中心的な理由は以下:

■ジャーナリストたちの利用は、CIAが採用する情報収集手段の中で最も生産的なもののひとつである。1973年以来、CIAは(主にメディアからの圧力の結果)記者たちの利用を大幅に減らしているが、一部のジャーナリスト工作員はまだ海外に配置されている。

■CIA高官らの話によれば、この問題をさらに調査すれば、1950年代から1960年代にかけて、アメリカのジャーナリズム界で最も有力な組織や個人との一連の都合の悪い関係があったことが明らかになるのは必至だという。

CIAに協力した幹部には、コロンビア放送のウィリアーン・ペイリー、ティルン社のヘンリー・ルース、ニューヨーク・タイムズ紙のアーサー・ヘイズ・サルツバーガー、ルイヴィル・クーリエ・ジャーナル紙のバリー・ビンガム・シニア、コプリー・ニュース・サービス紙のジェームズ・コプリーなどがいる。CIAに協力したその他の組織には、アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)、ナショナル・ブロードキャスティング・カンパニー(NBC)、AP通信、ユナイテッド・プレス・インターナショナル、ロイター通信、ハースト新聞、スクリップス・ハワード、ニューズウィーク誌、ミューチュアル放送システム、マイアミ・ヘラルド、旧サタデーイブニングポストとニューヨーク・ヘラルド・トリビューンなどがある。

CIA高官らによれば、これらの中で最も価値があるのは、ニューヨーク・タイムズ紙、CBS、タイム社との連携だという。

CIAによる米国のニュースメディアの利用は、CIA高官たちが公に認めたり、議員との非公開会議で認めたりしたよりもはるかに広範囲に及んでいる。真相の概要ははっきりしている。しかしその具体的な内容を突き止めるのはそれほど簡単ではない。CIAの情報筋は、ある特定のジャーナリストがCIAのために東欧全域で不正取引をしていたことをほのめかしている;このジャーナリストは「違う、支局長と昼食をとっただけだ」と言っている。有名なABC特派員が1973年までCIAのために働いていたとCIA情報筋は断言している。が、それが誰なのかは明かそうとしない。すばらしい記憶力を持つCIA高官は、ニューヨーク・タイムズ紙が1950年から1966年の間に約10人のCIA工作員に「隠れ蓑」を提供したと言っている。しかし、その10人が誰だったのか、新聞社の経営陣の誰がお膳立てをしたのか、についてこの高官は知らない。

CIAは、いわゆる「大手」メディアとの特別な関係により、最も貴重な工作員の一部を20年以上にわたって、露見することなく、海外に配置することができた。ほとんどの場合、CIAの最高レベルの高官 (通常は局長か副局長) が、指定された協力報道機関の最高経営人のひとりひとりと個人的に対応したことを、CIAの書類は示している。提供された援助は、しばしば2つの形態をとる:外国の首都に赴任しようとしているCIA工作員のための仕事と資格証明(CIA用語で言えば「ジャーナリストとしての隠れ蓑」)を提供すること。そして、すでにメディアの職員になっているCIA工作員を記者として扱うこと。その中にはメディア界で超有名な特派員も含まれている。

現地では、ジャーナリストを使ってその国の人間を工作員として採用し、担当した;①情報を入手して評価し、②外国政府関係者に虚偽の情報を仕掛けること、がその役割だった。多くの人が秘密保持契約に署名し、CIAとの取引について何も漏らさないと誓った。雇用契約を結んだ者もいれば、作戦要員として割り当てられ、破格の敬意をもった待遇を受ける者もいた。また、同様の任務を遂行していたにもかかわらず、CIAとの関係があまりはっきりしていなかった者もいた。彼らは海外出張の前にCIA職員から説明を受け、その後結果報告をし、外国の諜報員との仲介役として利用された。CIAは、多くの協力ジャーナリストがCIAのために行なったことの大部分を「報道」と適切に表現している。「お願いがあるのですが」とCIAの上級高官が言った。「あなたはユーゴスラビアに行く予定だと聞いています。全ての通りが舗装されていますか?どこで航空機を見ましたか?軍事的動きの兆候はありますか?ソ連人を何名見ましたか?もしソ連人に出会うことができたなら、彼の名前を聞いてその正確なスペルを確認してください。・・・そのための会議を設定できますか?あるいはメッセージを伝えられますか?」多くのCIA関係者は、これらの協力的なジャーナリストを工作員と見なしていた。ジャーナリストたちは、自分たちをCIAの信頼できる友人と位置付けていた。彼らは時折CIAの利益につながることはするが、それもたいていは無報酬で、国益のためにやっていた。

「私はそれを頼まれたことを誇りに思いますし、それを成し遂げたことを誇りに思っています」と、ジョセフ・オールソップは語った。彼は、彼の弟だった今は亡きコラムニストのスチュワート・オールソップと同様、CIAの秘密任務に従事した。「新聞記者には国家への義務がないという考えは完全に的外れです」と彼は述べた。

CIAから見れば、そのような関係には何の不都合もなく、倫理的な問題はCIAではなく、ジャーナリズム側が解決すべき問題だ。元ロサンゼルス・タイムス紙の特派員であるスチュアート・ローリーがコロンビア・ジャーナリズム・レビューで書いている:「記者証を持つ海外在住のアメリカ人でCIAから報酬を受け取る情報提供者が一人でもいれば、その資格を持つ全てのアメリカ人は疑わしい存在となる・・・。ニュース業界と政府が直面している信頼の危機を克服するためには、ジャーナリストたちは、他者に執拗に注目するのと同じ視点を自らに向ける覚悟を持たなければならない」。しかし、ローリーも指摘しているように、「新聞社、テレビ局の記者たちがCIAの給与リストに掲載された」と報道された際、そのニュースで一時は騒然となったが、その後それは立ち消えになった」。

フランク・チャーチ上院議員が議長を務める上院情報委員会による1976年のCIAの調査で、CIAの報道機関への関与がどれほどだったか、委員会のメンバー数人と職員の二、三人の捜査官に明らかになった。しかし、ウィリアム・コルビー元長官やジョージ・ブッシュ元長官を含むCIAの高官は、委員会に対し、この問題に関する調査を制限し、最終報告書の中で活動の実際の範囲を意図的に歪曲するよう説得した。複数巻の報告書には、ジャーナリストの利用について、意図的に曖昧で、時には誤解を招くような言葉で議論されている9ページが含まれている。CIAのために秘密の任務を引き受けたジャーナリストの実際の数には言及していない。また、CIAと協力する上で新聞や放送の幹部が果たした役割を十分には説明していない。

「工作員」メディアの実際―CIA方式

大半のジャーナリスト工作員が果たす役割を理解するためには、アメリカ情報機関向けの内密の仕事に関するいくつかの神話を排除する必要がある。アメリカ人工作員で、一般の人々が考えているような「スパイ」はほとんどいない。「スパイ活動」(外国政府から秘密を入手する)は、ほぼ常にCIAによって採用され、その国でCIAの管理下にある外国人によって行なわれる。したがって、外国で内密に働くアメリカ人の主な役割は、しばしばアメリカの情報機関に届く秘密情報の入手経路である外国人の採用とその「スパイ活動」の支援だ。

多くのジャーナリストがこの手順を助けるためにCIAに利用され、彼らはこの分野で最も優秀であるという評判を得ていた。外国特派員という仕事の特異な性質は、このような仕事には理想的である。彼は相手国から異例の情報入手特権が与えられる。他のアメリカ人が立ち入ることのできない地域を旅行することを許され、政府や学術機関や軍事組織、そして科学界の情報源を開拓することにたっぷり時間を費やす。彼は、情報源と長期にわたる個人的な関係を築く機会があり、おそらく他のどんなアメリカ人工作員よりも、スパイとして採用する外国人がどれほどその話に乗ってくるか、どこまで利用できるかについて正しい判断を下せる立場にある。

「外国人が採用された後、作戦要員はしばしば背後にいなければなりません」とあるCIA高官は説明した。「そこで、両方の当事者との間でメッセージを伝えるためにジャーナリストを使うのです」。

現場のジャーナリストは、通常、他の潜入捜査官と同じ方法で任務を遂行した。例えば、ジャーナリストがオーストリアを拠点としていた場合、彼は通常、ウィーン支局長の一般的な指示の下にあり、作戦要員に報告する。一部、特に海外出張の多い海外特派員や米国を拠点とする記者は、バージニア州ラングレーのCIA職員に直接報告していた。

彼らが行なった任務の中には、CIAのための「目と耳」にすぎないものあれば、東ヨーロッパの工場で見たことや聞いたこと、ボンでの外交レセプションでの出来事、ポルトガルの軍事基地の周辺での出来事などを報告することもあった。また、巧妙に作り上げられたデマ情報を流すこと、アメリカの工作員と外国のスパイを引き合わせるためにパーティーやレセプションを主催すること、外国の上流ジャーナリストに「敵向け偽」宣伝文を昼食や夕食の席で提供すること、外国のスパイとやり取りされる極めて機密性の高い情報の中継地点としてホテルの部屋や事務所を提供すること、外国政府のCIA制御下のメンバーに指示を伝達したり、ドルを渡すことなど、彼らの任務は多岐にわたった。

多くの場合、CIAとジャーナリストとの関係は、昼食や一杯やったり、そして気軽な情報交換など、堅苦しくないところから始まる。その後、CIA職員は、例えば、普通では行けない国への旅行などの便宜を図ることがある。その見返りとして、彼はその記者に報告する機会を求めるだけだった。さらに数回昼食をとり、さらにいくつかの好意を伝え、そのときになって初めてきちんとした手筈を口にすることになる。「それは後になってからです」と、あるCIA高官は言った。「そのジャーナリストを思いどおりに操れるようになってからです」。

別の高官が、(CIAによって工作員として認証された)記者(CIAから報酬が出る場合もある、無報酬の場合もある)が、どのようにしてCIAによって利用されるか、典型的な例を説明した。「我々が情報を提供する見返りとして、ジャーナリストとしてぴったりのことを頼みます。それも我々が言わなければ、彼らにはわからないようなことを、です。たとえば、ウィーンの記者が我々の部下に、「私はチェコ大使館の面白い副官に会いました」と言ったとします。我々は言います、「彼と親しくなれますか?そして彼と親しくなった後、(その人物を)評価していただけますか?そして、彼を私たちと連絡させていただいてもよろしいですか?あなたのアパートを使用させていただいてもよろしいですか?」

記者の正式な採用は一般的に、記者の徹底的な身元調査を経た後に、上層部が行なった。実際に記者に接近するのは副部長や課長レベルだろう。場合にもよるが、記者が秘密保持の誓約書にサインするまで、記者がこの話し合いに入ることは一切なかった。

「秘密保持契約は、幕屋 [訳注:聖書 に登場する移動式の神殿] に入るための儀式のようなものでした。その後はルールに従って行動する必要があります」と、元CIA長官補佐官は語った。西半球の元秘密情報長官で、自身も元ジャーナリストのデイビッド・アツリー・フィリップスは、インタビューの中で、過去25年間に少なくとも200人のジャーナリストがCIAと秘密保持契約または雇用契約を結んだと推定した。1950年にCIAに採用された当時、チリのサンチャゴで小さな英字新聞を所有していたフィリップスは、その接近の仕方について語っている:「CIAの誰かが言います。『私を助けてほしい。私はあなたが信頼できるアメリカ人であることを知っています。あなたに事の次第を伝える前に、あなたには一枚の紙に署名してほしいのです』と。私は署名を躊躇しなかったし、多くの新聞記者もその後の20年にわたって私と同じように署名には何の躊躇もなかった」と説明した。

「記者を誘う際、私達が常に有利に進めていた点の一つは、彼らを本社でより優れた記者に見せることができたことです」と、記者たちとの一部の取り決めを調整したCIAの職員が述べた。「CIAとつながりのある在外特派員は、競争相手よりも良質の情報を手にする確率がはるかに高かったです」。

CIA内において、ジャーナリスト工作員たちは、高位のCIA職員たちと同じ経験を共有していることで、エリートの地位を与えられた。多くがCIA実力者たちと同じ学校に通い、同じ人脈を持ち、流行に沿ったリベラル派で、共産主義に反対する政治的価値観を共有し、戦後のアメリカのメディア、政治、学界の上層エリートを構成する「学閥OB会」に入っていた。その中でも最も価値のあるジャーナリストたちは、お金ではなく国のため、と心底思っていたのだ。

CIAは、欧州西部(「ここが大きな焦点でした。脅威があったからです」とひとりのCIA高官は語っている)やラテンアメリカ、そして極東でジャーナリストを秘密工作に最も広範囲に使っていた。 1950年代と1960年代には、ジャーナリストが仲介者として使われた。イタリアのキリスト教民主主義党とドイツの社会民主主義党のメンバーに対して、だれが標的かを伝え、支払いを行ない、指示を伝える役割を彼らは果たした。 この期間中、「東から誰が来て何をしているのかを把握し続けるために、ベルリンやウィーンのあちこちにジャーナリストが配置されました」とあるCIAが説明している。

60年代、CIAはチリのサルバドール・アジェンデに対する攻勢において、記者たちはいろいろな場面で利用された。彼らはアジェンデの対立者に資金を提供したり、CIA傘下出版物用にチリで配布する反アジェンデ宣伝文書を書いた。(CIAの関係者は、アメリカの新聞の内容に影響を与えようとはしていないと主張しているが、幾ばくかの副作用は避けられていない。チリ攻撃中に電信でサンチャゴから送信されたCIAによる敵向け偽情報は、しばしばアメリカの出版物に掲載された)。

CIA高官たちの話によると、CIAは、事が露見するとアメリカ合衆国に対する外交制裁や、いくつかの国でのアメリカ人記者の永久的な活動禁止になりかねないという理由から、東欧ではジャーナリスト工作員の使用を控えめにしてきたとのことだ。同じCIA高官たちの話だが、ソ連でのジャーナリストの利用はそれ以上に制限されていると言っている。この件について話をすることについては、彼らは、以前も今も、きわめて口が堅い。ただし、彼らの話が一貫しているのは、大手メディアのモスクワ特派員がCIAによって「任務を与えられた」り、操作されることはない、という点だ。

CIA高官たちの話によれば、しばしば米ソ関係の浮沈をもたらす止むことのない外交ゲームの一環としてCIAはアメリカ人記者たちをその組織に取り込んでいるという虚偽の告発をソ連はずっと行なってきた。(しかし)ロシア側による、ニューヨーク・タイムズ紙のクリストファー・レン記者とニューズウィーク誌のアルフレッド・フレンドリー・ジュニア記者に対する直近の告発には何の根拠もない、とCIA高官たちは言っている。

とは言っても、CIAがジャーナリストを隠れ蓑として使い、ジャーナリストと秘密の関係を維持し続ける限り、このような告発は止まないだろう、とCIA高官たちは認めている。そして、CIAがジャーナリストを使うことをどんなに禁止しても、記者をそのような疑惑から解放することはできないだろう、と多くのCIA高官たちは言っている。ある消息筋は「平和部隊を見てください。私たちと平和部隊は何の関係もないのに、彼ら (外国政府) はいまだに平和部隊を追い出しているのです」と述べている。

CIAと報道機関との関係は、冷戦の初期段階に始まった。1953年にCIA長官に就任したアレン・ダレスは、アメリカで最も権威のあるジャーナリズム機関に工作員採用と偽装工作の能力を確立しようとした。ダレスは、公認の特派員を装って活動することで、海外にいるCIAの諜報員には、他のどのような偽装工作でも得られないような情報取得権と移動の自由が与えられると考えた。

アメリカの出版社は、当時の他の多くの企業や組織のリーダーと同様、「世界共産主義」との闘いに会社の資源を喜んで投入していた。したがって、アメリカの報道機関と政府を隔てる伝統的な境界線は、しばしば区別がつかなかった。つまり、主要株主や発行人主幹、そして上級編集者のいずれかも知らず、また同意もなしに、海外のCIA工作員の偽装工作に通信社が使われることはめったになかった。このように、CIAがジャーナリズム界に陰湿に浸透していたという考えとは裏腹に、アメリカの主要な出版社や報道機関の幹部たちが、自分たち自身や自分たちの組織が情報機関の手先となることを容認していたという証拠は十分にある。ウィリアム・コルビーはチャーチ委員会の調査員たちに、「頼むから、無能な記者たちをいじめるのはよそう!」と叫んだことがある。「経営陣のところに行こう。彼らはものが分かっていたよ」。 この記事の冒頭に掲載したものを含め、全部で約25の報道機関がCIAのために偽装工作をした。

ダレスは、取材能力に加え、海外から帰国したアメリカの記者に対して「デブリーフィング(事後報告)」手続きを導入した。この手続きでは、記者は定期的にノートを空にし、印象をCIA職員に伝えることが求められた。このような取り決めは、ダレスの後継者たちによって継続され、現在に至るまで、数多くのニュース機関と行われている。1950年代には、帰国した記者たちがCIA高官たちに船で出迎えられることも珍しくなかった。「CIAから来た連中がIDカードをひけらかし、まるでエール・クラブ*にいるような様子でした」と、かつてのサタデー・イブニング・ポスト紙の特派員で現在は元副大統領ネルソン・ロックフェラーの報道官を務めるヒュー・モローは述べた。「それが当り前になってしまっていたので、もし声がかからないと少しムッとするほどでした」。
エール・クラブ*・・・ニューヨークのミッドタウン・マンハッタンにあるプライベート・クラブ。会員資格はエール大学の卒業生と教職員にほぼ限定されている。エール・クラブの会員数は全世界で11,000人を超える。1915年にオープンしたヴァンダービルト通り50番地にある22階建てのクラブハウスは、完成当時世界最大のクラブハウスであり、現在でも大学のクラブハウスとしては最大規模である。(ウィキペディア)

CIA高官たちが、CIAに協力したジャーナリストの名前を明かすことはほぼない。彼らは、最初の関係を生み出したものとは異なる文脈でこれらの個人を判断するのは不公平であると述べている。「政府に仕えることは犯罪ではないと考えられていた時代がありました」と、苦々しさを隠さない高位にあるひとりのCIA高官は述べた。「これらはすべて、当時の文脈の中で判断する必要があります。後々の基準 (偽善的な基準) に照らしてはなりません」。

第二次世界大戦を取材したジャーナリストの多くは、戦時中のCIAの前身である戦略サービス局(the Office of Strategic Services=OSS)の人々と親しかった。もっと重要なのは、彼らはみんな同じ側にいたということだ。戦争が終わり、多くのOSS関係者がCIAに入ったとき、これらの関係が続くのは当然だった。一方、戦後第一世代のジャーナリストがジャーナリズムの世界に入った。彼らはCIA職員たちの助言者として同じ政治的、職業的価値観を共有していた。「第二次世界大戦中に一緒に働いて、それを乗り越えることができなかった人々の一団がいたということです」とCIA高官の一人は言った。彼らは純粋にやる気があり、陰謀や内輪のなかにいることに非常に敏感だった。その後、1950年代と1960年代には、国家的脅威に関して国民的合意があった。ベトナム戦争がすべてを破壊し、合意を引き裂き、雲散霧消させた」。別のCIA高官はこう述べた。「多くのジャーナリストはCIAと関わることに何のためらいもなかった。しかし、ほとんどの人が水底に沈めていた倫理的な問題がついに表面化するという時期がやってきた。今日、これらの人々の多くは、自分たちとCIAとの関係を必死に否定している。

当初から、ジャーナリストの利用はCIAの最も機密性の高い取り組みの一つであり、その全容を知るのは中央情報局長と選ばれた数人の代理に限られていた。ダレスとその後継者たちは、ジャーナリスト工作員の正体がばれたり、CIAと報道機関との取引の詳細が公になったりしたらどうしようと恐れていた。その結果、報道機関のトップとの接触は通常、ダレスと彼の後継CIA長官、偽装工作を担当する副長官や課長(フランク・ウィズナー、コード・マイヤー・ジュニア、リチャード・ビッセル、デズモンド・フィッツジェラルド、トレイシー・バーンズ、トーマス・カラメシーンズ、リチャード・ヘルムズ(元UPI特派員))、そして時折、特定の出版社や放送局の幹部と異例なほど親密な社交関係にあることが知られているCIA階層の他の者によって主導された。(原注1)
(原注1)ジョン・マッコーン(John McCone)(1961年から1965年までCIA長官)は最近のインタビューで、「事後報告や協力の交換については山ほど知っていましたが、CIAがメディアと偽装工作の取り決めをしていたということについては何も知りませんでした」と述べた。「私はそれを必ずしも知っていたわけではありませんでした。ヘルムズだったらそんなこともしたでしょう。彼が私に『私たちはジャーナリストを偽装工作に使うつもりだ』と言ってくることは通常ありません。彼はやるべき仕事がありました。私の在任中『その水域には近づくな!』という方針があったわけではなく、『行け!』という方針もありませんでした」。チャーチ委員会の公聴会中、マッコーンは、部下が国内の監視活動やフィデル・カストロ暗殺計画に取り組んでいることを告げなかったと証言している。当時、副長官であったリチャード・ヘルムズは、1966年に長官になった。

最近になって対諜報活動の責任者から外されたジェームズ・アングルトンは、機密性の高い頻繁に危険な任務を遂行したジャーナリスト工作員を完全に独立させ、運営していた。このグループについてはごくわずかしか知られていない。アングルトンが意図的に茫漠とした資料しか残していなかったからだ。

CIAは1950年代、諜報部員たちにジャーナリストになるための正式な訓練プログラムまで実施していた。諜報部員たちは「記者のように騒ぐことを教えられた」とあるCIA高官は説明する。このCIA高官は、「彼らは、『君はジャーナリストになるんだ』と言われながら出世していったのです」と語った。しかし、CIAの書類に記載されている400人の関係者のうち、このようなパターンに従ったものは比較的少なく、ほとんどは、CIAのために仕事を始めたときにはすでに正真正銘のジャーナリストだった。

CIAのファイルに記載されているジャーナリストとの関係には、次のような一般的な分類区分がある:

■ニュース機関の正規で認定された部員は、通常は記者だ。その中には有給の者もいれば、純粋にボランティアとしてCIAで働く者もいた。このグループには、CIAのために様々な任務を遂行した高名なジャーナリストの多くが含まれている。ファイルには、新聞や放送ネットワークによって記者に支払われる給与が時折、CIAから名目の支払いとして補足されたことが記載されている。これは、被雇用者や旅費、または特定の仕事の対価という名目でCIAから支払われたものだ。ほとんどは現金で支払われた。認定されたカテゴリーには、カメラマンや外国のニュース支局の管理職、そして放送技術クルーのメンバーも含まれている。

1960年代のCIA高官たちによると、CIAが最も貴重な個人的関係を築いた2人の記者は、ラテンアメリカを報道したジェリー・オレアリー(Washington Star)とハル・ヘンドリックス(Miami News)だった。ハル・ヘンドリックスはピューリッツァー賞を受賞した人物で、国際電話電信公社(ITT)の重役となった。ヘンドリックスは、マイアミのキューバ亡命コミュニティに関する情報を提供する点でCIAに大変協力的だった。オレアリーは、ハイチとドミニカ共和国において貴重な資産と考えられていた。CIAのファイルには、両名がCIAのために行なった活動に関する詳細な報告書が含まれている。

ジェリー・オレアリー(Jerry O’Leary)は、彼のやり取りが、海外の記者とその情報源の間で行なわれる通常の「持ちつ持たれつ(give-and-take)」の関係に限定されていたと主張している。 CIA高官たちはこの主張を否定している。「ジェリーは私たちのために報告をしてくれたことに何の疑問もありません。ジェリーは私たちのために(見込みのある工作員であるかどうかの)評価と特定をしてくれました。しかし彼は、私たちにとっては記者としての方が有能でした」とひとりのCIA高官が言った。ジェリー・オレアリーが否定したことについて、その高官は次のように付言した。「彼が何を心配しているのか、私には分かりません。上院があなたたちジャーナリストに授けたその品位のマントがあればいいではないですか」と。

オレアリーは、意見の相違を言い方の問題に帰している。「私は彼らに電話をかけて『パパ・ドック*が淋病にかかっていますよ、それを知っていましたか?』などと言うかもしれませんが、彼らはその情報をファイルに入れるだけです。私はそれを彼らへの報告とは考えません・・・彼らと親交を結ぶことは役に立ちますし、一般的に、私は彼らに親しみを感じていました。しかし、どちらに有益だったかと言えば、それは彼らのほうだと思います」。 オレアリーは、特にヘンドリックスと同じ文脈で語られたことについては反発した。「ハル(=ヘンドリックス)は本当にCIAのために仕事をしていました」とオレアリーは言った。「私はまだワシントン・スターの社員です。彼はITTに就職しました」。 ヘンドリックスにはコメントを求めることができなかった。CIA高官たちによると、ヘンドリックスもオレアリーもCIAから給与を受け取ってはいない。
パパ・ドック*・・・フランソワ・デュヴァリエ(フランス語: François Duvalier、1907年4月14日 – 1971年4月21日)は、ハイチの政治家。医師として名声を得て「パパ・ドク」という愛称で親しまれ、大衆的な人気を背景にして同国の大統領に当選するも就任後は独裁者となってブードゥー教を利用した個人崇拝を行い、民兵組織トントン・マクートで政敵を粛清し、およそ3万人のハイチ人が死亡したといわれ、それを逃れて亡命した知識人たちがハイチには戻ることはなかった。1964年から終身大統領となり、また、息子のジャン=クロードにその地位を引き継がせ、親子で30年近くにも及んだ支配はデュヴァリエ王朝と呼ばれた。(ウィキペディア)

■通信員(原注2)やフリーランサー。ほとんどは標準的な契約条件の下でCIAに雇用されていた。彼らのジャーナリズムの資格は、しばしば協力するニュース機関によって提供された。情報はニュース記事にまとめられる場合もあるし、CIAにのみ報告される場合もあった。CIAは、通信員がCIAのためにも働いていることをニュース機関に通知しないこともあった。
(原注2)通信員とは、1社または数社の報道機関に雇用契約を結んで、または出来高払いで勤務する記者のことである。

■所謂CIA「所有会社」の職員。過去25年間、CIAはCIA工作員に優れた偽装工作を提供する多数の外国の報道機関、雑誌、新聞(英語もあるし外国語もあった)に密かに資金提供してきた。そのような出版物の1つがローマ・デイリー・アメリカンであり、同紙の40%は1970年代までCIAが所有していた。デイリー・アメリカンは今年廃業した。

■編集者、発行人、放送ネットワークの幹部。CIAと大半のニュース幹部たちとの関係は、通信員やフリーライターとは根本的に異なっていた。通信員やフリーライターは、CIAからの指示を受けとることがはるかに多い。アーサー・ヘイズ・サルツバーガー(ニューヨーク・タイムズ紙)などごく少数の幹部は秘密保持契約に署名している。しかし、そのような正式な取り決めはまれだった。CIA高官とメディアの幹部との関係は通常、社交的なものだった。ある情報源が述べたように、「ジョージタウンのP通りとQ通り枢軸*なのですよ。裏切るな!という契約書にウィルハム・ペイリー*の署名を求める人間などいません」。
ジョージタウンのP通りとQ通り枢軸*・・・ポトマック川沿いにある一区域(ワシントンDC)。当時CIAを始め、各国の諜報員やメディアの幹部たちが交流し、互いに情報を探り合っていた。「p’s and q’」は「互いに礼節を守り、言動に注意しよう」というほどの意味(英辞郎)
ウィルハム・ペイリー*・・・英国国教会の聖職者、キリスト教の弁証者、哲学者、そして功利主義者。彼は、時計職人のアナロジーを利用した著書『自然神学または神の存在と属性の証拠』の中で、神の存在についての目的論的議論を自然神学で説明したことで最もよく知られている。(ウィキペディア)

■コラムニストやコメンテーター。CIAとの関係が、通常の記者と情報源との関係をはるかに超えている有名なコラムニストや放送コメンテーターは、おそらく十数人いるだろう。彼らはCIAでは「既知の資産」と呼ばれ、様々な秘密任務を遂行することが期待できる;彼らは、様々な問題に関するCIAの見解を受け入れると考えられている。CIAとそのような関係を維持した最も広く読まれているコラムニストの3人は、ニューヨーク・タイムズ紙のサイ・L・サルツバーガー、そしてニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙やサタデー・イブニング・ポスト紙、そしてニューズウィーク誌にコラムを掲載したジョセフ・オールソップと故スチュワート・オールソップである。CIAの資料には、3人が引き受けた具体的な仕事の報告が含まれている。サルツバーガーは今でもCIAの活動的資産と見なされている。あるCIA高官によれば、「若いサイ・サルツバーガーには使い道がありました・・・。機密情報を渡したので、彼は秘密保持契約書にサインしました・・・。持ちつ持たれつでした。私たちは「これを知りたいのです。これを教えればあなたに何か見返りはありますか?」彼はヨーロッパには詳しかったので、「開け、ゴマ!」の魔法の呪文を持っているようなものでした。私たちは、彼にただ報告することだけを頼みました:「どんなことを話していましたか?」「どんなようすでしたか?」「健康でしたか?」などです。彼はとても熱心で、喜んで協力してくれました」。複数のCIA高官によれば、あるとき、サイ・サルツバーガーはCIAから報告資料を渡された。それはニューヨーク・タイムズ紙に掲載された彼の署名記事と一字一句違わないものだった。「サイがやってきて『記事を書きたい。何か背景資料はないか?』と言ったので、我々はそれを彼に背景資料として渡しました。サイはそれを印刷所に回し、それに自分の名前を載せました」。サルツバーガーは、そのようなことはなかったと否定している。「まったくのでたらめだ!」と彼は言った。

 

寺島隆吉 寺島隆吉

国際教育総合文化研究所所長、元岐阜大学教授

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