【連載】今週の寺島メソッド翻訳NEWS

☆寺島メソッド翻訳NEWS(2024年6月28日):CIAとメディア(2)(初出:1977年10月20日)

寺島隆吉

※元岐阜大学教授寺島隆吉先生による記号づけ英語教育法に則って開発された翻訳技術。大手メディアに載らない海外記事を翻訳し、紹介します。

※なお、本稿は、☆寺島メソッド翻訳NEWS(2024年6月28日):CIAとメディア

http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-2537.html
からの転載であることをお断りします。

また英文原稿はこちらです。THE CIA AND THE MEDIA

筆者:カール・バーンスタイン(Carl Bernstein)
出典:Rolling Stone  1977年10月20日
https://www.carlbernstein.com/the-cia-and-the-media-rolling-stone-10-20-1977

1977年にワシントン・ポスト紙を退社したカール・バーンスタインは、冷戦時代のCIAと報道機関の関係を半年かけて調査した。1977年10月20日にローリング・ストーン誌に掲載された彼の25,000字に及ぶ特集記事を以下に転載する。

サルツバーガーは、自分がCIAから正式に “任務”を与えられたことは一度もなく、「スパイ業務に近づくことはなかった」と主張している。「私の関係は完全に非公式なものだった。彼らは私を資産と考えているはずだ。彼らは私に質問することはできる。スロボビアに行くことを知ると、彼らは『戻ったら話ができますか?』と言うんだ。あるいは、ルリタニア政府のトップが乾癬を患っているかどうかを知りたがる。でも、そんな連中から仕事を受けたことはない・・・。ウィズナーはよく知っているし、ヘルムズやマコーン(ジョン・マコーン元CIA長官)ともよくゴルフをした。しかし、私を利用するには、よほど巧妙でなければならなかっただろう」と彼は言った。

サルツバーガーは、1950年代に秘密保持契約に署名するよう求められたと述べている。「ある男がやってきて、『あなたは責任ある報道者ですので、機密扱いされるものを見せるならこれに署名していただく必要があります』と言われた。私は巻き込まれたくないと答えて、『私の叔父である(当時ニューヨーク・タイムズ紙の発行人だった)アーサー・ヘイズ・サルツバーガーが署名するように言うならそうする』と言ってやった」。その後、彼の叔父は同じような契約書に署名し、サルツバーガーも署名したと彼は考えているが確実ではない。「分からないな。20年余りというのは昔のことだよ」。彼はこの問題全体を「浴槽の中の泡のようなもの」と表現した。

スチュワート・オールソップとCIAの関係は、サルツバーガーよりもはるかに広範だった。CIAの最高レベルにいたある高官は、こうきっぱり言った:「スチュワート・オールソップはCIAの工作員だった」。同じように最高レベルのCIA高官は、オールソップとCIAの関係は正式なものだと言う以外、定義することを拒否した。他の情報筋によれば、オールソップは外国政府高官との話し合いでCIAに特に役に立った。CIAが答えを求めている質問を投げかけたり、アメリカの政策に有利な誤情報を仕込んだり、CIAが優秀な外国人を採用する際それが適正かどうかを評価してくれた。

「まったくナンセンスだ」とジョゼフ・オールソップは彼の弟がCIAの工作員だったという考えについて言った。「弟のスチュアートがCIAに非常に近い位置にいたと言ったって、私の方がそれより近かった。彼はアメリカ人として正しいことをしただけだ・・・(CIAの)創設者たちは私たちと個人的に親しい友人だった。ディック・ビッセル(元CIA副長官)は私の幼なじみだった。それは社交的なものだった。私は1ドルも受け取らなかったし、秘密保持契約書にも署名しなかった。その必要もなかった・・・正しいことだと思ったときには、彼らのために何かをしたこともある。私はそれを市民としての義務を果たすことと呼んでいる」。

オールソップは、彼が引き受けた仕事のうち、記録に残っている二つだけはよろこんで話してくれる。一つは、他のアメリカ人記者がラオスの蜂起について反米的な情報源を使っていると感じたフランク・ウィズナーの要請による1952年のラオス訪問である。1953年のフィリピン訪問では、彼がそこにいれば選挙の結果に影響を与えるかもしれないとCIAは考えた。「デス・フィッツジェラルドが私に行くよう強く薦めた。世界の目が彼らに向けられていれば、(ラモン・マグサイサイの反対派によって) 選挙が盗まれる可能性は低くなるだろう。私は大使宅に滞在し、事の顛末を書いた」とオールソップは思い起こした。

オールソップは、自分がCIAに操られたことはないと主張している。「関係の中に巻き込まれてCIAの影響下に入るなど無理な話しだ」と彼は言った。「言っておくが、私が書いたことは真実だ。私の目論見は事実を知ることだった。CIA内の誰かが間違っていると思ったら、私は彼らと話すのをやめた—私にガセネタを食らわせたからだ」。ひとつの事例として、リチャード・ヘルムズがCIAの分析部門のトップに中国国境沿いのソビエト軍の存在に関する情報を提供することを承認した、とオールソップは言った。「CIAの分析部門はベトナム戦争について完全に間違っていた—彼らはその戦争で逃げ切ることはできないと考えていた」とオールソップは言った。「そして、ソ連軍の増強についても間違っていた。私は彼らと話すのをやめた」。今、彼は言っている、「私たちの業界の人間は、CIAが私に行なった提案に憤慨するだろう。憤慨する必要はない。 CIAは自分を信頼していない人間に心を開くことはなかったのだ。スチュアートと私は信頼されていたし、私はそれを誇りに思っている」。

個人やニュース機関とのCIAの関係の曖昧な詳細は、1973年に初めてCIAが時折ジャーナリストを雇っていたことが明らかになった時点から漏れ始めた。これらの報告書は、新しい情報と組み合わされて、CIAが情報活動のためにジャーナリストを利用した事例研究として役立つ。それらには次のようなものが含まれる:

■ニューヨーク・タイムズ紙。CIAとの関係は、CIA高官たちの話によれば、新聞の中で最も価値のあるものだった。1950年から1966年まで、約10人のCIA職員が、同新聞社の発行人だった故アーサー・ヘイズ・サルツバーガーの承認を得た取り決めのもと、タイムズ紙の偽装工作を提供された。この偽装工作の取り決めは、サルツバーガーによって設定された一般的なタイムズ紙の方針の一環であり、可能な限りCIAに支援を提供することを目的としていた。

サルツバーガーはアレン・ダレスと特に親しかった。「あのレベルの接触は、最高責任者同士の話し合いですよ」と、その場にいたCIA高官は語った。「お互いに助け合うという原則的な合意はありました。偽装工作の問題は何度か出てきましたが、実際の取り決めの手配は部下が担当するということでした・・・最高責任者は詳細を知りたいとは思わなかったのです。いざという時に否定できなくなりますからね。

1977年9月15日に2時間にわたってCIAのジャーナリストに関する資料の一部を閲覧したCIA高官は、タイムズ紙が1954年から1962年の間にCIA職員の偽装工作を行なった5つの事例に関する文書を発見したと述べた。いずれの取り決めもニューヨーク・タイムズ社の上層部が行なったものだ。文書にはすべて、CIAの標準的な表現が含まれており、「ニューヨーク・タイムズ紙の上層部でチェックされていたことがわかる」とこの高官は語った。しかし、文書にはサルツバーガーの名前はなく、部下の名前だけが記されていた。ただこの高官はその名前を上げることを拒んだ。

タイムズ紙社員の資格を得たCIA職員は、海外で同紙の通信員を装い、タイムズ紙の海外支局の事務スタッフとして働いていた。ほとんどはアメリカ人で、2、3人は外国人だった。

CIA高官たちは、CIAとタイムズ紙の協力関係が他の新聞よりも密接で幅広かった理由を2つ挙げている:タイムズ紙がアメリカの日刊新聞業界で最大の外信部門を維持していたこと、そして両機関を運営する人間たちの間に緊密な個人的な結びつきがあったこと、だ。

サルツバーガーは、CIAとの一般的協力方針を一部の記者や編集者たちには伝えた。あるCIA高官は、「私たちは彼らと連絡を取っていました。向こうが私たちに話を持ちかけてきたり、何人かは協力しくれました」と述べた。協力は通常、情報を回してくれること、そして外国人の有望な工作員を「発見」することだった。

CIA高官たちの話によれば、アーサー・ヘイズ・サルツバーガーは1950年代にCIAと秘密保持契約を結んでいた。しかし、この協定の目的についてはさまざまな解釈がある: C.L.サルバーガーは、この契約は出版人であるアーサー・ヘイズ・サルツバーガーが入手できる機密情報を開示しないことを誓約したに過ぎないと述べている。他のCIA高官たちは、この契約はタイムズ紙とCIAとの取引、特に偽装工作に関わる取り決め決して明らかにしないという誓約であったと主張している。そして、すべての偽装工作は機密扱いであるため、機密保持契約は自動的に適用されると指摘する者もいる。

CIA職員にタイムズ社の資格を提供する実際の取り決めをしたのは同社のだれなのかを突き止めようとしたが、うまくいかなかった。ニューヨーク・タイムズ紙で1951年から1964年まで編集長を務めたターナー・キャデッジ (Turner Cadedge) は、1974年にスチュアート・ローリー (Stuart Loory) 記者に宛てた手紙の中で、CIAからの働きかけは同紙に拒絶されたと書いている。「私はCIAとの関与についてどんな関りがあったのか・・・ニューヨーク・タイムズ紙のどの外国特派員がそうだったのかについては何一つ知らなかった。CIAが私たちの部下に何度も申し入れをしているのは耳にしていた。彼らの特権、人脈、免責、そして、言ってみれば、優れた知性をスパイと情報提供という下劣な仕事に利用しようとしていたのだ。もし部下のうちのだれかが、甘言や現金の申し出に屈したとしても、私はそれに気づかなかった。CIAや他の秘密機関は何度も繰り返して、特に第二次世界大戦中や戦後直後に、タイムズ紙の経営陣とさえ「協力」の取り決めをしようとしたが、我々は常に抵抗した。私たちの真意は、私たちの信用を守ることにあった」。

元タイムズ紙記者ウェイン・フィリップスによれば、CIAは彼がコロンビア大学のロシア研究所で学んでいる1952年に彼を秘密工作員として採用しようとした際、アーサー・ヘイズ・サルツバーガーの名前を引き合いに出している。フィリップスはCIA高官から、CIAはアーサー・ヘイズ・サルツバーガーと「機能する取り決め」を結んでおり、他の海外記者たちはCIAの給与リストに載せられていたと告げられたと述べている。フィリップスは1961年までタイムズ紙で勤務し続けた。後に彼は情報公開法に基づいてCIAの文書を入手。CIAが彼を海外で潜在的な「資産」として育てる意向があったことが分かった。

1976年1月31日、ニューヨーク・タイムズ紙は、CIAがフィリップスを勧誘しようとしたとする短い記事を掲載した。その記事の中で、現在の出版人であるアーサー・オックス・サルツバーガーは、「私が出版人として、または故サルツバーガー氏の息子として、タイムズ紙に(CIAからの)働きかけがあったことは聞いたことがありません」と述べている。ジョン・M・クルーソンによって執筆されたこのニューヨーク・タイムズ紙の記事は、元特派員(匿名)が海外の新しい任地に到着した後、CIAに勧誘されるかもしれないとアーサー・ヘイズ・サルツバーガーが、彼に語ったと報じた。サルツバーガーは、「同意する義務はない」と語り、出版人である自分は、協力を拒否してくれれば「そのほうが幸せ」に思うと記事は書いている。「しかし、それは私次第だと言われたのです」と元特派員(匿名)はニューヨーク・タイムズ紙に語った。「彼が伝えたかったメッセージは、もし私が本当にそれをしたいと思うなら、それはOKだが、タイムズ特派員には適切ではないと思う、ということでした」。

C.L.サルツバーガーは電話インタビューで、CIAの職員がタイムズ紙の偽装工作を使用したことも、同紙の記者がCIAのために積極的に働いたことも知らないと述べた。彼は1944年から1954年まで同紙の外交部長であったが、叔父(アーサー・サルツバーガー)がそのような取り決めを承認したとは思えないと述べた。サルズバーガーによれば、故出版人(アーサー・サルツバーガー)らしいのは、アレン・ダレスの弟で、当時国務長官だったジョン・フォスターと交わした約束で、ジョン・フォスター・ダレスの同意なしにタイムズ紙の職員が中華人民共和国訪問の招待を受けることは許されないというものだった。そのような招待状が1950年代に出版人の甥(C.L.サルツバーガー)に届いたが、アーサー・サルツバーガーはそれを受け取ることを禁じた。C.L.サルツバーガーは、「次のタイムズ紙特派員が招待されるまで17年かかったのです」と回想している。

■コロンビア放送協会(Columbia Broadcasting System)。CBSは、CIAにとって間違いなく最も貴重な放送資産だった。CBSの社長であるウィリアム・ペイリー(William Paley)とアレン・ダレス(Allen Dulles)は、仕事面でも個人的にも肩の凝らない関係だった。数年にわたり、CBSは、

① 少なくとも1人は有名な外国特派員、そして数名の通信員をCIA職員の偽装工作として提供した。また、
② CIAにNGとなったニュース映像を提供(原注3)した。
③ ワシントン支局長とCIAとの間に公式の情報伝達経路を確立した。
④ CBSのニュース映像ライブラリーにCIAを入ることを認めた。
⑤ CBS特派員がワシントン支局とニューヨークの報道部に報告する内容をCIAが定期的に監視することを許可した。

1950年代から1960年代初頭にかけて、CBS特派員は1年に1度、CIAの幹部たち共に非公開の夕食会や説明会に参加している。
(原注3)CIAの観点からすると、NGとなったニュースフィルムや写真ライブラリーに近づけることは極めて重要な問題である。CIAの写真アーカイブは、おそらく地球上で最大のものだ。その画像ソースには、衛星、写真偵察、飛行機、小型カメラ・・・そしてアメリカの報道機関が含まれる。1950年代と1960年代の間に、CIAは、文字どおり数十のアメリカの新聞、雑誌、テレビ、放送局の写真ライブラリーで白紙委任の借用特権を得た。明らかな理由から、CIAはフォトジャーナリスト、特にCBSの海外駐在カメラクルーのメンバー採用に高い優先順位を置いた。

CBS-CIA協定の詳細は、ダレスとペイリーの部下たちによって決められた。「CBS社長もCIA長官も細かい点を知りたがりませんでした」と、あるCIA高官は述べている。「両者とも指名した側近に仕事をさせました。そうすれば高みの見物ができるわけです」。25年間CBSの社長だったフランク・スタントンは、ペイリーとダレスが行なった一般的な取り決めについてはわかっていた。CIA高官たちの話によると、それには偽装工作に関するものも含まれていた。スタントンは、昨年のインタビューで、偽装工作の取り決めについては思い出せないと述べている。しかし、ペイリーがCIAとの取引の指名された連絡先は、1954年から1961年のCBSの社長を務めたシグ・ミケルソンだった。ミケルソンはある時、スタントンに対してCIAに電話をかけるために有料公衆電話を使わなければならないことに不満を述べた。スタントンは、だったらCBSの交換機を迂回するための専用回線を設置したらいいと言った。ミケルソンによれば、彼はそうしている。ミケルソンは現在、ラジオフリーヨーロッパとラジオリバティの社長であり、長年にわたってCIAと関係があった。

1976年、CBSニュースのリチャード・サラント社長は、CBSのCIAとの取り引きに関する社内調査を命じた。その調査結果の一部は、ロバート・シェアがロサンゼルス・タイムズ紙で初めて公表した。しかし、サラントの報告書では、1970年代まで続いたCIAとの彼自身の取引についてはまったく触れられていない。

CBSとCIAの関係に関する多くの詳細が、サラントの2人の調査員によってミケルソンの文書から発見された。その中に、1948年から1961年までCBSニュースのワシントン支局長であったテッド・クープからミケルソンに宛てた1957年9月13日のメモがあった。そこには、CIAのスタンリー・グローガン大佐からクープに電話があったことが書かれていた: 「リーヴス(J. B. ラブ・リーヴス、もう一人のCIA高官)がニューヨークのCIA連絡事務所の責任者になるためニューヨークに行くので、あなたとあなたの仲間に会いに行くとグローガンから電話があった。グローガンによれば、通常の活動はCBSニュースのワシントン支局を通じて行なうとのことである」。サラントへの報告書には、また、次のような記載がある: 「ミケルソンの文書のさらなる調査により、CIAとCBSニュースとの関係のいくつかの詳細が明らかになっている・・・ この関係の主事者はミケルソンとクープだった・・・ 主な活動はCBSのニュースフィルムをCIAに提供することだった・・・さらに、1964年から1971年まで、何本かのNGとなった映像を含む映像素材がCBSニュースフィルムライブラリーからCIAに提供された証拠があった。これはクープを介して、またはクープの指示に従って行なわれた(原注4)・・・ミケルソンのファイルには、CIAが訓練用にCBSのフィルムを使用したという記述もある・・・上記の全てのミケルソンの活動は機密基盤で処理され、CIAという言葉を明かさずに行なれた。映像は個々の郵便ポスト番号宛に個人の小切手で支払われた形で送信され・・・」また、ミケルソンは、報告書によれば、定期的にCIAにCBSの内部ニュースレターを送っている。
(原注4)1961年4月3日、クープはワシントン支局を去り、CBS社の政府関係部長となり、1972年3月31日に退職するまでその職にあった。 CBSの情報筋によれば、第二次世界大戦中、検閲局で副局長を務めたクープは、新しい職でもCIAとの取引を続けたという。

サラントの調査で、彼は次のような結論に達した:1958年から1971年までCBSテレビの記者であったフランク・カーンズは、「CIAの人であり、CBSの誰かとCIAの接触を通じてなんらかの形で給与を受けていた人物だった」。カーンズとCBSの通信員であるオースティン・グッドリッチは、CIAの秘密職員であり、ペイリーによって承認された取り決めの下で雇われていた。

昨年、ペイリーの広報担当者は、1954年にミケルソンと彼がCIAの代表者2人と会談した際、グッドリッチがCIAに所属していることについて話し合ったという元CBS特派員のダニエル・ショーの報道を否定した。この広報担当者は、ペイリーはグッドリッチがCIAで働いていたことは知らなかったと主張した。「私がこの仕事に就いたとき、ペイリーからCIAとの関係が続いていることを聞かされました。彼は私に2人のCIA工作員を紹介してくれました。グッドリッチの件やフィルムの取り決めについてみんなで話し合ったのです。当時はこれが普通の関係だと思っていました。当時は冷戦の真っ只中でしたし、通信メディアは協力的だと思っていました。ただ、グッドリッチの件はちょっとまずかったですね」とミケルソンは最近のインタビューで語っている。

ニューヨークのCBSニュース本社では、ペイリーのCIAへの協力は、否定はされているが、多くのニュース幹部や記者によって当然のことと考えられている。ペイリー (76) はサラントの調査員たちによるインタビューを受けなかった。CBS幹部の1人は「そんなことをしても何の役にも立たないだろう。それだけが彼が記憶を失っている唯一の問題なのだから」と言った。

サラントは昨年、本誌記者とのインタビューの中で、彼自身とCIAとの接触、そして前任者の慣行の多くを引き継いだ事実について語った。その接触は1961年2月に始まり、「シグ・ミケルソンと仕事上の関係があるというCIAの男から電話をもらいました。その男は『君のボスはすべて知っている』と言いました」。 サラントによれば、CIAの担当者は、CBSが編集されていないニュース映像をCIAに提供し続け、特派員をCIA高官たちによる報告会に参加させるよう要請したという。サラントは言った:「私は特派員の件はダメ、放送映像は見せるが、NGになった映像は見せられないと言いました。これは何年も、1970代初期まで続きました」。

1964年と1965年、サラントは、中国人民共和国にアメリカのプロパガンダ放送を送る方法を探求する極秘のCIA特殊任務を担当していた。その他の4人の研究チームメンバーは、当時コロンビア大学の教授であったズビグニュー・ブレジンスキー、マサチューセッツ工科大学の政治学教授であったウィリアム・グリフィス、およびワシントンポストカンパニーのラジオTV(原注5)の副社長であったジョン・ヘイブスだった。この事業計画に関連する主要な政府関係者には、CIAのコード・マイヤー、当時大統領補佐官であったマックジョージ・バンディ、当時のUSIA長官であったレナード・マークス、そして当時のリンドン・ジョンソン大統領の特別補佐官で今はCBSの特派員であるビル・モイヤーズが含まれていた。
(原注5)1965年にワシントン・ポスト社を退社して駐スイス米国大使となったヘイズは、現在はラジオ・フリー・ヨーロッパとラジオ・リバティーの会長を務めているが、この2つのメディアは1971年にCIAとの関係を断っている。ヘイズは、ワシントン・ポスト社の故フレデリック・ビービー会長 (当時) とこの対中国プロジェクトへの取り組みの道を開いたと述べた。ワシントン・ポスト紙の発行人であるキャサリン・グラハムは、この事業計画の性質を知らなかったという。事業計画の参加者たちは秘密保持契約に署名した。

サラントのこの事業計画への関わりは、レナード・マークスからの電話で始まった。「ホワイトハウスは鉄のカーテンの向こうにある米国の海外放送を調査するために、4人からなる委員会を作りたいと考えているとマークスは私に言ったのです」。サラントが最初の会議のためにワシントンに到着したとき、この事業計画はCIAの支援を受けていると言われている。「その目的は、『レッドチャイナ』に向けて短波放送を行う最善の方法を見極めることでした」と同氏は述べた。ポール・ヘンジーという名のCIA職員を伴って、4人の委員会はその後、ラジオ・フリー・ヨーロッパとラジオ・リバティー (当時はどちらもCIAが運営)、ボイス・オブ・アメリカ、そして軍ラジオが運営する施設を視察して世界中を回った。1年以上の研究の後、彼らはモイヤーズに報告書を提出。ボイス・オブ・アメリカによって運営され、中華人民共和国に向けて放送される放送事業を設立するよう、政府に進言するものだった。サラントは、1961 64年と1966年から現在まで、CBSニュースの責任者として二度のツアーに参加している。(この中国プロジェクト当時、彼はCBSの企業幹部だった。)

■タイムとニューズウィーク。CIAと上院の情報筋によると、CIAファイルには、この2つ週刊誌の元外国特派員や通信員との書面による合意書が含まれている。同じ情報筋は、CIAがこの2つの週刊誌の社員たちとの全ての関係を終了したかどうかは明らかにしなかった。アレン・ダレスはしばしば、タイム誌とライフ誌の創設者である故ヘンリー・ルースと良好な関係を持ち、ルースは自社の社員の一部がCIAのために働くことを快く受け入れ、ジャーナリズムの経験がない他のCIA工作員たちにも仕事と資格を提供することに同意した。

長年ルースのCIAとの個人的使者となっていたのはタイム社の副社長だったC.D.ジャクソンだった。彼は1960年から1964年に亡くなるまでライフ誌の発行人だった。タイムの幹部であったジャクソンは、1950年代初頭にアメリカの情報機関の再編成を勧告するCIAの後援を受けた研究の共同執筆者だった。ジャクソンは、ホワイトハウスで1年間ドワイト・アイゼンハワー大統領の補佐官としての時間を挟んでいたが、CIA職員にタイムの偽装工作を提供するための具体的な取り決めを承認している。これらの取り決めのいくつかは、ルースの妻であるクレア・ブースも認知する中で行なわれた。他のタイムの偽装工作の取り決めは、(ルースとやり取りをしたCIA高官たちによると)、1959年にタイム社の出版物のすべての編集方針を引き継いだヘドリー・ドノバンが認知する中で行なわれている。ドノバンは、電話インタビューで彼はそのような取り決めのこと何も知らなかった、と否定している。「私には(CIAからの)接触はなかったし、ルースがそのような取り決めを承認したとしたら驚きです。ルースはジャーナリズムと政府の違いを非常に綿密に考える人間なのですから」とドノバンは言った。

1950年代と1960年代初期に、タイム誌の外国特派員はCIAがCBS向けに行なっていたのと同じようなCIA主催の「情報伝達共有(ブリーフィング)」夕食会に出席していた。また、CIA高官たちの話によると、ルースは数多い海外出張から帰国した際に、ダレスや他の高官に定期的に説明することを常としていた。1950年代、1960年代にルースや彼の雑誌を運営していた人々は、外国特派員たちにCIAへの協力を勧めた。特に、情報収集や外国人採用に役立つ可能性のある情報をCIAに提供するよう促したのだ。

ニューズウィーク社では、同誌の上級編集者たちによって承認された取り決めの下、CIA職員が数人の外国特派員と通信員としての業務に携わっていた、とCIAの情報源は報告している。50年代半ば、ローマのニューズウィーク誌の通信員は、自分がCIAのために働いている事実をほとんど隠さなかった。1937年の創刊から1961年のワシントン・ポスト社への売却までニューズウィーク誌の編集者であったマルコム・ミュアは、最近のインタビューで、CIAと彼との関係は、海外出張後アレン・ダレスへの私的な情報伝達共有と、彼が承認したCIAによるニューズウィーク特派員の定期的な情報伝達共有の取り決めに限定されていたと述べた。彼はCIA工作員に偽装工作を提供したことはないが、ニューズウィーク誌の他の上層部は彼の知らないところでそうしていた可能性はある、と述べた。

「工作員の通信員がいるかもしれないとは思っていましたが、それが誰なのかはわかりませんでした」とミュアは言った。「当時、CIAはすべての責任ある記者とかなり緊密に連絡を取り合っていたと思う。アレン・ダレスが興味を持っているかもしれないことを聞くたびに、私は彼に電話していた・・・ある時、彼はCIAの部下の一人を指名して、私たちの記者と定期的に連絡を取り合うようにした。私は知っていたが、名前は思い出せない男だ。アレン・ダレスの組織には多くの友人がいた」。ミュアは、1945年から1956年までニューズウィークの外国人編集者だったハリー・カーンと、同時期に同誌のワシントン支局長だったアーネスト・K・リンドリーが「定期的にCIAのさまざまな仲間と接触していた」と述べた。

「私の知る限り、ニューズウィークの人間は誰もCIAのために働いていませんでした・・・私的な関係はありました。署名ですか? どうして? 私たちが知っていることは、彼ら (CIA) と国務省に話しました・・・私がワシントンに行ったとき、私はフォスター・ダレスかアレン・ダレスに何が起こっているのかを話しました・・・当時はそれは立派なことだと思っていました。私たちはみんな同じ側にいたのですから」。CIA高官たちの話によると、カーンとCIAとの取引はそこにはとどまっていなかった、という。1956年、彼はニューズウィーク社を退職し、ワシントンを拠点とするニュースレター「フォーリン・リポート」を運営した。カーンは購読者の身元を明かすことを拒否している。

1961年までニューズウィーク誌に在籍したアーネスト・リンドリーは、最近のインタビューで、海外に行く前にダレスや他のCIA高官と定期的に相談し、帰国するとすぐに情報伝達共有したと語った。「アレンの助力はたいへんなものでした。そのお返しをしたいと思っていました。私は海外で会った人々の印象を彼に伝えました。例えば、1955年のアジア・アフリカ会議から帰ってきたときなど、彼が主に知りたがったのはいろいろな人のことについてでした」と彼は語った。

ワシントン支局長リンドリーは、ニューズウィーク誌の東南ヨーロッパの通信員がCIAの契約職員であり、経営陣との取り決めに基づいて資格を与えられていることをマルコム・ミアから知ったと話した。「CIAから派遣されたこの人物をそのままにしておくのが良い考えかどうか、という問題が出てきました。最終的には、その関係を終了することになりました」とリンドリーは述べた。

CIAの情報筋によれば、ニューズウィーク紙がワシントン・ポスト社に買収されたとき、発行人のフィリップ・L・グラハムはCIA高官たちから、CIAがときどきこの雑誌を偽装工作目的に使っていることを知らされた。「フィル・グラハムが面倒見のいい人物であることは広く知られていました」とCIAの前副長官は言っている。「フランク・ウィズナーが彼とやりとりしていたのです」。1950年から1965年に自殺する直前までCIAの副長官を務めたウィズナーは、ジャーナリストたちが関与した多くの “闇”作戦の最高指揮官だった。ウィズナーは “強力ウーリッツァー*”という、メディアの協力を得て創り上げ、演奏した驚くべきプロパガンダ楽器を自慢するのが好きだった。フィル・グラハムはおそらくウィズナーの最も親しい友人だった。しかし、1963年に自殺したグラハムは、ニューズウィークとの偽装工作の詳細についてはほとんど知らなかったようだ、とCIA筋は語っている。
ウーリッツァー*・・・ウーリッツァー電子ピアノは、ウーリッツァー社が1954年から1983年まで製造・販売した電子ピアノ。金属のリードをハンマーで叩き、ピックアップに電流を誘導して音を出す。サウンドは異なるが、概念的にはロードス ピアノに似ている。( ウィキペディア)

当時香港支局のCIA職員であったロバート・T・ウッドによれば、1965年から66年にかけて、極東にいたニューズウィーク誌認定の通信員は、実際にはCIAの契約職員であり、CIAから1万ドルの年俸を得ていたという。ニューズウィーク誌の特派員や通信員の中には、1970年代までCIAとの秘密の関係を保ち続けた者もいた、とCIA情報筋は語っている。

ワシントン・ポスト紙とCIAとのやりとりについての情報は極めて大雑把だ。CIA高官たちの話によると、ポスト紙の通信員の何人かはCIA職員であったが、彼らは、ポスト紙の経営陣の誰が取り決めを知っていたかどうかは知らないと言っている。

1950年以降のワシントン・ポスト紙の主筆や編集長たちは、通信員やポスト紙の職員とCIAとの正式な関係を知らなかったと述べている。「何かが行なわれたとしたら、それは私たちの知らないところでフィルによって行なわれた」とそのうちの1人は述べている。一方、CIAの高官たちは、ポスト紙の職員が同社で働きながらCIAと秘密の関係を持っていたとはまったく言っていない。(原注6)
(原注6)ポスト紙の編集者フィリップ・ゲリンは、ポスト紙に入社する前はCIAで働いていた。

フィリップ・グラハムの未亡人で、現在ポスト紙の発行人であるキャサリン・グラハムは、ポスト紙やニューズウィーク誌の関係者とCIAとの関係について一度も知らされたことはないと言っている。1973年11月、グラハム夫人はウィリアム・コルビーに電話し、ポストの通信員や職員がCIAと関係があるかどうか尋ねた。コルビーは、CIAに雇われている職員はいないと断言したが、通信員についての質問には答えようとしなかった。

■ルイビル・クーリエ・ジャーナル。1964年12月から1965年3月まで、ロバート・H・キャンベルというCIAの秘密工作員がクーリエ・ジャーナル担当だった。CIAの高官筋によると、CIAが当時クーリエ・ジャーナルの編集長であったノーマン・E・アイザックスと結んだ取り決めの下で、キャンベルは同紙に雇われた。同紙の発行人だったバリー・ビンガムもこの取り決めを知っていたという。アイザックスもビンガムも、キャンベルが雇われた時に彼がCIA秘密工作員だったことを知らなかったと言っている。

キャンベルの採用に関する込み入った話は、上院委員会の調査中、1976年3月27日にジェームズ・R・ヘルツォークが書いたクーリエ・ジャーナルの記事で初めて明らかになった: 「1964年12月、28歳のロバート・H・キャンベルがクーリエ・ジャーナルの記者として採用されたとき、彼はタイプもできず、ニュース原稿の書き方もほとんど知らなかった」。そして、同紙の元編集長ノーマン・アイザックスの言葉を引用し、キャンベルがCIAの要請で採用されたことをアイザックスが彼に話したと書いている:「ノーマンは、(1964年に)ワシントンにいたとき、CIAの友人と昼食に呼ばれ、この若者を派遣して新聞記者の知識を少し身につけさせたいと言った」。キャンベルの採用はあらゆる面で非常に異例だった。彼の資格を確認する努力はなされておらず、彼の雇用記録には次の2つの表記があった: 「アイザックがこの男に関する手紙と調査資料を持っている」、そして「一時的な仕事のために採用した。参照チェックは未了、ないしはその必要なし」。

キャンベルのジャーナリストとしての能力は、同紙在籍中変わらなかったようで、「キャンベルが提出した記事はほとんど読めなかった」と元ローカル記事副編集長は言う。キャンベルの主要な報道担当の仕事の一つは、木製インディアン像に関する特集だった。それが掲載されることはなかった。同紙に在職中、キャンベルはオフィスから数歩離れたバーに頻繁に出入りしており、酒飲み仲間に自分がCIA職員であることを打ち明けていたという。

CIAの情報筋によれば、キャンベルがクーリエ・ジャーナル紙に来たのは、将来ジャーナリストとしての偽装工作をするときの信憑性を高め、新聞ビジネスについて少し知ってもらうためだった。クーリエ・ジャーナル紙の調査では、彼がルイビル(クーリエ・ジャーナル)に来る前に、フリーダム・ニュース社が発行するニューヨーク州ホーネルのイブニング・トリビューン紙で短期間働いていた事実も判明した。CIAの情報筋によれば、CIAはキャンベルを雇うために同紙の経営陣と取り決めをしたという。(原注7)
(原注7)ニューヨーク州ホーネルのイブニング・トリビューン紙の社長ルイス・ビュイッシュは、1976年にクーリエ・ジャーナル紙に、ロバート・キャンベルの採用についてほとんど覚えていないと語った。「彼はあまり長くそこにいなかったし、あまり印象がないのです」とビュイシュは語った。彼はその後同紙の経営からは引退している。

クーリエ・ジャーナル紙では、キャンベルはアイザックスと取り決めがあり、ビンガムによって承認された取り決めの下に雇われた、とCIAおよび上院の情報源が語った。「私たちは彼の給与が出せるようクーリエ・ジャーナル紙に金を支払った」と、この取引にかかわったあるCIAの高官は述べた。これらの主張に回答する手紙で、ルイビルを離れてウィルミントン・デラウェア州のニュース&ジャーナル紙の社長および発行人になったアイザックスは、「私にできるのは、次の単純な真実を繰り返し申し上げるだけです。つまり、私は一度も、どんな状況でも、どんなときにも政府工作員を雇用したことはありません、と。私も記憶をたどろうとしましたが、キャンベルの雇用は私にとってほとんど意味をなさなかったため、何も浮かびません・・・かと言って私が「だまされた」可能性がないと言っているわけではありません」。バリー・ビンガムは昨年の電話インタビューで、キャンベルの雇用について具体的な記憶がなく、新聞社の経営陣とCIAとの間になんらかの取り決めがあったかどうかは知らないと言った。しかし、CIA高官は、ビンガムを介して、クーリエ・ジャーナル紙が1950年代と1960年代にCIAに、詳細は不明の他の援助を提供していると述べている。キャンベルの雇用に関するクーリエ・ジャーナルの詳細な一面トップ記事は、父親に続いて1971年に紙の編集者および発行者として就任したバリー・ビンガム・ジュニアによって発表された。この記事は、この件について登場した新聞による自己調査の唯一の重要な記事だ。(原注8)
(原注8)報道とCIAというテーマについて、おそらく最も思慮深い記事を書いたのはスチュアート・H・ローリーで、コロンビア・ジャーナリズム・レビュー誌1974年9月—10月号に掲載された。

 

寺島隆吉 寺島隆吉

国際教育総合文化研究所所長、元岐阜大学教授

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