【連載】今週の寺島メソッド翻訳NEWS

☆寺島メソッド翻訳NEWS(2025年3月7日):イスラエルの撤退から数週間後、ガザの人々はまだネツァリムで行方不明者を探している。

寺島隆吉

※元岐阜大学教授寺島隆吉先生による記号づけ英語教育法に則って開発された翻訳技術。大手メディアに載らない海外記事を翻訳し、紹介します。


2025年1月28日、ネツァリム回廊を経由してガザ地区北部の自宅に戻るパレスチナ避難民。(アリ・ハッサン/Flash90)

2023年12月のある日曜日の正午頃、インティサール・アル・アウダさんの21歳の息子セイラムさんは、ガザの冬の寒さに震えている家族のために毛布を持ってくると言って、デイル・アル・バラの国連避難所を出る、と母親に告げた。セイラムさんは二度と戻ってこなかった。今日に至るまで、彼の母親は彼がどこに行ったのか、どうやって彼を失ったのかわかっていない。

アル・アウダさん(55歳)は、2023年10月のイスラエルによるガザ攻撃の最初の週に、すでに25歳の息子ハレドさんを亡くしていた。ハレドさんの死がきっかけとなり、アウダさんは他の4人の子どもたちのことも心配になりガザの家から脱出することになった。アウダさん一家は南のデイル・アル・バラに向かったが、その後の15ヶ月間、ネツァリム回廊にイスラエル軍が駐留していたせいで、自宅に戻れないままになってしまった。

この戦争の最初の1ヶ月以内に、イスラエル軍は、ネツァリム回廊を占領した。この回廊は、ガザ市の南約5キロに位置し、ガザ地区を二分し、ガザの領土の21平方マイル以上を包含する通路であり、イスラエル軍はその回廊付近のパレスチナ人が住むすべての地域を何もない状態にした。その後、イスラエルは回廊沿いに12以上の軍事前哨基地と基地の建設を進め、軍事拠点を強固にし、避難民のパレスチナ人が北に戻るのを防いでいた。

イスラエルのガザ攻撃を通じて、パレスチナ民間人に対する無差別殺戮や強制失踪、回廊での全般的な無法状態の話がガザの人々の間で広まった。この戦争の初期、パレスチナの人々は口語的表現としてネツァリム回廊のことを「死の枢軸」と呼んでいた。現役兵士や将校、予備役兵の証言に基づく2024年12月のハアレツ紙の報道では、この回廊を「殺人が集中する地域」と表現し、司令官は兵士に対し、子どもや高齢者を含む、その地域に入ったパレスチナ人を射殺することを許可し、さらには指示さえした、と報じている。その報道によると、兵士たちは、さまざまな部隊が、最も多くのパレスチナ人を殺害することを互いに競い合っており、そして民間人の死者数が殺害された過激派兵士の数として数え直されたことを明らかにした、という。

アル・アウダさんは必死の形相で、ネツァリム回廊周辺を含め、あらゆる場所でセイラムさんを探した。「毎日、息子を探しに行ってきました。私はアル・ヌワイリ(ネツァリム回廊の入り口、海辺に位置する)の海岸に座っている若者たちに尋ねましたが、誰もセイラムの姿を見ていませんでした」と彼女は+972に語った。アル・アウダさんは、息子が避難していた国連学校の友人や、北部に残っている親戚全員など、知り合い全員に連絡を取り、連絡があったかどうか確認したが、何の音沙汰もなかった。

停戦のニュースが届いたとき、アル・アウダさんは希望を抱いていた。もっと自由に移動できるようになれば、彼女はガザのどこでもセイラムさんを探すことができる。彼女はすぐにネツァリム回廊に戻り、民間防衛隊員に、お揃いの灰色のパジャマを着た若い男性を見たかどうか尋ねた。


2025年2月10日、ネツァリム回廊付近で遺体を発見するパレスチナ民間防衛隊員。(提供:パレスチナ民間防衛隊)

イスラエルが停戦協定の一環として、2月9日に回廊から軍隊を撤退させた後、アル・アウダさんは、行方不明の息子を探している他の多くの親たちと一緒になった。アウダさんは、セイラムさんがイスラエル軍に殺されたという最悪の疑念が間違いであることを願っているが、彼女を最も悩ませているのは生死が不明である点である。「息子の遺体を見つけて抱きしめることができた母親たちは幸運です。少なくとも、彼らは息子たちの運命を知り、息子たちを埋葬する機会ができたのですから」とアウダさんは語った。

「この地域は完全に変わってしまった」

ネツァリム回廊は、2005年に当時のアリエル・シャロン首相の下でイスラエルがガザ地区からいわゆる「撤退」した際に解体されたイスラエルの入植地にちなんで名付けられた。過去20年間、この地域の主な産業は変わらず農業であり、回廊の周囲に位置するムグラカ地域のアル・アズハル大学の分校を含む、多くの特徴的な住宅や学校が存在した。

大学の分校は、その地域のほとんどの建物とともに、戦争の最初の数ヶ月間にイスラエルの空爆によって完全に破壊された。ジャーナリストのオサマ・アル・カーラウトさんは+972において、イスラエル軍撤退後のネツァリム回廊での光景を「痛ましく、悲劇的」と書いた。「ガザはあなたを歓迎します」と書かれた大きな看板は、かつてその地域を車で通り抜けるパレスチナ人を迎え入れるためのものだった。今では、それは影も形もない。「建物は完全に破壊され、農地は流されました。地域の目印となる建造物は残っていません」とカーラウトさんは指摘した。

その目印となる建造物の一つは、サワフィリ宮殿だった。この建物は、ネツァリム交差点の角に位置する近代的な住宅で、ガザの動物飼料貿易の著名な家族であるアル・サワフィリス一族20人が住んでいた。わずか3年前に建てられたこの複合施設に、この一族は約200万ドルの費用を掛けた。

「私たちは宮殿の残骸を見つけることを期待していました。しかし残念ながら、宮殿は瓦礫の山と化していました。そこに建物があったという形跡はありません。私たちはこの破壊に衝撃を受けました – 私は自分の気持ちを表現する言葉を見つけることができません」と、25歳のアディ・アル・サワフィリさんは+972に語った。この宮殿に隣接する家禽飼料工場も破壊された。


イスラエルが現在ガザ地区を攻撃する前のサワフィリ宮殿の風景。(提供:アル・サワフィリ家)

これらの衝撃と絶望の感情は、イスラエル軍が撤退した後、北に戻る途中でネツァリム回廊を通過した何千人ものガザの人々のあいだに広がっていた。エジプトや米国、カタールの警備請負業者がこの回廊を通過する自動車を検査するのを待つ間、5時間から8時間も車の中に座っている人もいた。

ガザ市出身で南部のアル・マワシ地区に避難したタラ・イマドさん(23歳)は、イスラエル軍がネツァリム回廊から撤退した後、ネツァリム回廊を越えた群衆の一人だった。2月10日、彼女と家族はテントを解体し、荷物をまとめてアル・マワシ地区を出発した。イマドさんの家族は、ガザ市南部のテル・アル・ハワ地区にある6階建ての建物の一部である自分たちの家が2024年1月に完全に破壊されたことを親戚から聞いた後、ガザ北部のアル・シャティ難民キャンプにある親戚の家に直行することを決めた。

アル・マワシ地区から、彼らはガザの主要な南北大通りであるサラ・アルディン通りに合流した。数時間のドライブの後、イマドさんは断続的な眠りに落ちながら、ついにワディ・ガザ(ネツァリム回廊の最南端を示す湿地帯)に到着した。「破壊が目に見えてきました。サラ・アルディン通りの両側には、かつて広大な農業地帯がありました。その姿は何も残っていませんでした」とイマドさんは回想した。

イマドさんは話を続け、回廊の端に着いたときには「各車が捜索されるのに約15分かかりました。みんな待ち疲れていました」と述べた。そして、前の車に乗っていた他の家族がエジプトの将校とおしゃべりをしている間、イマドさんは自分には話す気力もない、と言ったそうだ。

 
2025年1月28日、ネツァリム回廊を経由してガザ地区北部の自宅に戻るパレスチナ避難民。(アリ・ハッサン/Flash90)

「私はただ衝撃を受けました。特に、『ガザへようこそ』の看板が消えていることに気づいたときは」と彼女は語った。イマドさんたちがネツァリム回廊地域を通過し続けるうちに、暗闇に落ちた、という。「限界集落にいるような気がしました。照明はありませんでした。瓦礫と大きな空虚さは痛ましかったです。」

イマドさんの父親は、その地域にあった自動車工場が、他のほとんどのものと同様に、全焼していたことを思い出した。その工場の所有者と彼の息子たちは、鉄製の車庫の扉も製造していたが、南に向かって運転中に車が故障したときに何度もイマドさんの父親を救ってくれた。工場の上にあった家を失っただけでなく、この一家は唯一の収入源を失った。

以前に北部に戻ったことがあったイマドさんの友人たちは、イスラエルがネツァリム回廊占領中に建設した一連の新しい道路を通れば北部に行ける、と彼女に説明したが、周辺が破壊されていたため方向感覚が完全におかしくなり、イマドさんはその道路を見つけることができなかった。「この地域は完全に変わりました。以前は舗装された道路で、移動が容易でしたが、瓦礫の荒れた道路に変わっていました」と彼女は説明した。

約8時間の運転の後、イマドさんと彼女の家族はついにアルシャティキャンプの親戚の住処に到着した。ガザ北部全域が荒廃しているのにもかかわらず、彼らは今、そこに留まることを計画している。ネツァリム回廊の横断は、イマドさん一家が二度と繰り返したくない経験であり、イマドさん一家にとって南部の印象は、強制退去の記憶で汚されたままだ。

身元不明の遺体

イマドさん一家と同様に、サレム・アワドさんもイスラエル軍がネツァリム回廊から撤退するとすぐにアル・マワシ地区のテントを出て、ガザ市のゼイトゥーン地区に向けて一人で出発した。4人の子どもの父親である37歳のアワドさんは、家がまだ残っていることを確認するとすぐにテントに戻り、荷物をまとめて妻と子どもたちと一緒に家に帰った。

ネツァリム回廊を通過することは、アワドさんの子どもたちにとってトラウマになる試練だった。「車を捜索し、検査しているエジプト人に近づいたとき、5歳の息子ガイスは怖がっていました。彼は目を閉じて、それらを見ることを拒否しました」とアワドさんは詳述した。

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ガザ北部に戻るパレスチナの車両をネツァリム検問所で検査するカタールの治安当局者。2025年1月28日。(アリ・ハッサン/Flash90)

アワドさんは、混乱したエジプトの治安当局者に、息子はイスラエル兵を恐れており、その人のこともイスラエル兵だと思い込んでいる、と説明した。「エジプト人の男は息子と遊んで笑おうとしましたが、ガイスは怖がったままで話しかけませんでした」とアワドさんは語った。

かつて、ネツァリム回廊は、はっきりと舗装された道路がある、それ以外は目立たない地域だった。しかしイスラエルの撤退から数週間経った今でも、ネツァリム回廊はガザ地区の南北地域間のパレスチナ人の移動を制限する分断状態のままである。家族とともにガザ市に残っているアワドさんは、+972に、パレスチナ人はネツァリム回廊の検問所や未舗装の道路を進むために、口コミの助言に頼らざるを得ない、と語った。「誰もが尋ねます。交通量が多いですか?関所は迅速な通過を可能にしますか、それとも時間がかかりますか?と。残念ながら、これらの問題は大問題であり、戦争前のように移動が容易ではありません」

アワドさんは、家族と一緒に2度目にネツァリム回廊を越えたときに検問所で泣いていた女性のことを思い出した。「彼女は3カ月間息子を探していたので、ネツァリム回廊に近づくことができるかどうか(当局に)尋ねていました。その瞬間、私の妻はその女性のことを思い泣きました。自分の周りの破壊と喪失を目の当たりにすると、戦争が始まったばかりのように感じました」とアウドさんは説明した。

イスラエルが回廊から撤退してからほぼ1カ月が経ったが、アル・アウダさんもまだ息子の居場所を突き止められていない。ジャーナリストのアル・カルルートさんや他の初動対応者は、その地域で殺害されたガザの人々の骸骨を発見した。「彼らが殺された理由はわかりません。彼らは北部から南部に避難させられた後に殺されたのでしょうか?それとも北部に戻ろうとしているときだったのでしょうか?それとも、イスラエル軍がそこで殺した捕虜だったのでしょうか?」とカルルートさんは語った。

2月9日以来、パレスチナ民間防衛隊の職員であるモハメド・アル・ムガル博士は、ネツァリム回廊近郊で少なくとも10人の遺体を発見した。彼と彼の同僚は、彼らの私物に基づいて彼らを特定しようと試みてきたが、失敗に終わった。「それぞれの遺体からさまざまな持ち物が見つかりました。そのうちの1つは腐敗していました。服や家の鍵などでした。私たちは、誰かがこの人たちを認識してくれるかもしれないと願って、ソーシャルメディアに投稿しました」と同博士は説明した。

アル・ムガイルさんが+972に語ったところによると、多くのガザ住民が親族の居場所を求めて連絡を取っているが、民間防衛隊はネツァリム回廊で行方不明者の捜索を始めたばかりだ。「ネツァリム回廊の東部地域には、軍が(拡大された緩衝地帯に)駐留し続けていたため、そこに到達することができませんでした。そして、私たちはまだ(国際援助団体からの)緊急救援を待っているところです。これは非常に困難で悲しい状況です」とムガイルさんは語った。

ルワイダ・カマル・アメルは、ハンユニス出身のフリーランスジャーナリスト。

※なお、本稿は、寺島メソッド翻訳NEWS(2025年3月7日)「イスラエルの撤退から数週間後、ガザの人々はまだネツァリムで行方不明者を探している。」
http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-3020.html
からの転載であることをお断りします。

また英文原稿はこちらです⇒Weeks after Israeli withdrawal, Gazans still search for the missing in Netzarim
何千人ものパレスチナ人がガザの中央回廊を横切る困難な旅をし、民間防衛隊員がゆっくりと人間の遺体を発見している。
筆者:ルワイダ・カマル・アメール(Ruwaida Kamal Amer)
出典:+972 magazine 2025年3月4日
https://www.972mag.com/netzarim-corridor-gaza-missing-bodies/

寺島隆吉 寺島隆吉

国際教育総合文化研究所所長、元岐阜大学教授

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