
【櫻井ジャーナル】2025.03.20XML: JFK暗殺に関する文書の機密解除で明らかにされない情報
国際政治アメリカの国立公文書館は3月18日、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺記録コレクションに含まれ、これまで機密扱いのため公開されなかった文書のうち約6万3000ページをウェブサイトにアップロードした。今後、さらに文書が公開される予定になっている。ドナルド・トランプ大統領は就任直後にケネディ大統領、ロバート・F・ケネディ上院議員、公民権運動家マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの暗殺に関連する政府文書の機密解除を求める大統領令に署名していた。
しかし、一般的に言って、最高機密に属す事実の決定や命令は口頭だけで行われ、それに準ずる情報は文書化されていても問題化すれば速やかに廃棄されてしまう。今回の機密解除で決定的な情報が明らかになる可能性は小さいが、想定外の場所から重要な文書が出てくることもあるため、公開を嫌がる人も少なくないはずだ。JFK暗殺の場合、CIAはイスラエルの情報機関に関する情報の開示に異議を唱えていたとされている。
1963年11月22日にダラスで暗殺される前、ケネディ大統領は強大な勢力と緊張関係にあった。
例えば、大統領に就任した直後、ケネディはインフレを回避するために鉄鋼会社の経営者と労働者に協力を求めていたのだが、業界のトップ企業だったUSスチールの会長は1962年4月、大統領と会談した翌日に3.5%の鋼材値上げを発表すると通告、実際に値上げを発表、業界第2位のベツレヘム・スチールなども後を追っている。この決定に大統領は怒り、鋼材の購入先をまだ値上げを発表していないルーケンスに変更、鉄鋼産業とケネディ大統領との関係は悪化した。
第2次世界大戦後、アメリカでは軍や情報機関の好戦派がソ連に対する先制核攻撃を計画、それに対してソ連はキューバへ中距離ミサイルを持ち込んで対抗する。この事実をアメリカ政府は1962年8月に察知、9月には地対空ミサイル発射装置を確認した。10月19日にケネディ大統領は統合参謀本部のメンバーと会い、協議。その中にはCIAのアレン・ダレス長官と同じような好戦派がいた。そのひとりがカーチス・ルメイである。(Jeffrey T. Richelson, “The Wizards of Langley,” Westview Press, 2001)
好戦派は運び込まれたミサイルを空爆で破壊すべきだと主張した。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだというのだが、ケネディ大統領はこうした好戦派の主張を拒否。そのかわり、10月22日にキューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。その際に戦略空軍はDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、24日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。
結局ケネディ大統領とソ連の最高指導者だったニキータ・フルシチョフはキューバ危機を外交的に解決するが、ダニエル・エルズバーグによると、その後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。ちなみに、ジョン・フランケンハイマーが監督した映画「5月の7日間」はケネディ大統領自身の勧めで制作されているが、映画が完成する前にケネディは暗殺された。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)
ケネディ大統領はイスラエルの核兵器の開発を懸念、ダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙を送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)しかもケネディはイスラエル建国のために故郷を追われて難民化したパレスチナ人の苦境に同情、住んでいた家へ戻り、隣人と平和的に暮らす意思のある難民の帰還を認めた国連決議194号の履行を支持している。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)
キューバ危機を外交的に解決したケネディ大統領は1963年6月にアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行い、はソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言した。アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけている。この演説もソ連を核攻撃で破壊しようと目論んでいる勢力を刺激した。
またケネディ大統領は通貨制度へもメスを入れようとしている。1913年に連邦準備法が制定されて以来、アメリカでは通貨政策を民間の銀行が支配、連邦準備制度に加盟する市中銀行の出資する連邦準備銀行が紙幣も発行していた。第2次世界大戦後にドルが世界の基軸通貨になったことから米英の巨大金融資本が世界の金融に大きな影響力を及ぼすことになった。この仕組みが財政問題の根本にあると考えたケネディ大統領は考えていたのだ。ケネディは1963年6月にEO11110と呼ばれている大統領令を出し、連邦準備制度の枠外で銀兌換紙幣を発行するように命令するのだが、大統領は暗殺され、この命令は取り消されて市中に流通していた紙幣は回収された。
ケネディ大統領が暗殺されたダラスには情報機関のネットワークが存在していた。例えば市長のアール・キャベルは大統領に解任されたCIA副長官だったチャールズ・キャベル元副長官の弟だ。
パレードの警護をしていたダラス警察のジョージ・ランプキン副本部長は予備役の第488情報分遣隊で副隊長を務めていたが、隊長のジャック・クライトンはダラスの石油業者で、同業者のジョージ・H・W・ブッシュと親しかったが、第2次世界大戦中にはCIAの前身であるOSSに所属していた。
大統領がパレードで使ったリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。
当初、警察は大統領が乗ったリムジンの両側に警察のオートバイを走らせる予定だったのだが、パレードの前日にシークレット・サービスからオートバイを後ろに下げるように言われている。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)
銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいたシークレット・サービスのエモリー・ロバーツは部下に対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令するのだが、これを無視してクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。
ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)
ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。
その後、ペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)
大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出された。検死の責任者だったアール・ローズは激しく抗議したが、シークレット・サービスは銃口をそのローズに突きつけて持ち去ったのだ。ローズが退かなければ撃たれていただろうと現場にいた医師のチャールズ・クレンショーは語っていた。検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われたが、担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。(Daniele Ganzer, “USA The Ruthless Empire,” Skyhorse Publishing, 2020)
パレードでは沿道の警備も不自然だった。少なくとも沿道の建物の窓は閉めさせ、開いていれば捜査官を派遣してチェックさせるのが当然である。そうした状況下で保安官が警備からはずされ、警察の警備体制を緩くさせたりしている。
シークレット・サービスはパレードのコースも当日になって変更している。当初、本通りを直進する予定で地元紙もそのように報道していたのだが、ヒューストン通りを右折、エルム通りとの交差点、オズワルドが働いていた教科書ビルの直前で左折するよう変えられた。
銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスは「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。
暗殺の直後にリー・ハーベイ・オズワルドが逮捕されたが、そのオズワルドは逮捕当日に硝煙反応テストを受け、反応は出ていない。暗殺当日にオズワルドの妻マリーナから警察は事情聴取しているが、彼女はロシア語しかできないため、イリヤ・ママントフなる人物が通訳として呼ばれた。このママントフは共和党の活動家で、「赤の脅威」についてダラスで講演していたことでも知られている。ウォーレン委員会におけるママントフの証言によると、通訳の件で最初に電話してきたのはクライトン。ついで、ランプキン副本部長が連絡してきたという。
暗殺事件に関する調査はアール・ウォーレン最高裁長官を委員長とする委員会で行われた。この委員会は設置したのは副大統領から大統領へ昇格したリンドン・ジョンンソン。1963年11月29日のことだ。委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキン。
このうちダレスはウォール街の弁護士で、大戦中から破壊活動を指揮し、ケネディ大統領にCIA長官を辞めさせられた人物。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守っている。フォードはフーバーFBI長官に近いと言われているが、議会における最良のCIAの友人と評価するメディアもあった。ランキンはCIAとFBIにつながり、ダレスは委員会の中で唯一の専従だ。(Daniele Ganzer, “USA The Ruthless Empire,” Skyhorse Publishing, 2020)ダレスの側近で1966年6月から73年2月までCIA長官を務めたリチャード・ヘルムズによると、彼がダレスを委員にするように説得したのだという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
このウォーレン委員会が報告書を出した3週間後の1964年10月12日にひとりの女性が散歩中に射殺された。その女性、マリー・ピンチョット・メイヤーはケネディ大統領と親しかった。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。マリーの元夫であるコード・メイヤーはCIAで秘密工作部門の幹部を務めていた人物。ふたりは1958年に離婚している。
そのケネディ大統領が暗殺された直後にマリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, Flashbacks, Tarcher, 1983)
実は、ダラスを訪れる前、11月2日にケネディ大統領はシカゴを訪問する予定になっていた。そのシカゴで大統領を暗殺する計画があるとする警告が警備当局に対し、2カ所からもたらされた。ひとつはFBIの情報源から、もうひとつはシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補からだ。こうしたこともあり、ケネディにシカゴ訪問は取りやめになる。
そうした情況にあったため、大統領の周辺、例えばウイリアム・フルブライト上院議員たちは大統領に対し、ダラス行きを中止するようにワシントンDCで20日に忠告している。(Anthony Summers, “The Kennedy Conspiracy,” Paragon House, 1989)
ケネディ大統領暗殺の公式ストーリーはウォーレン委員会の報告書に書かれているが、それが事実に反していることが発表直後から指摘された。研究者やジャーナリストだけでなく一般の人もさまざまな形で調査研究を開始、公式ストーリーは崩れ始めた。その崩壊を食い止めるために編み出された呪文が「陰謀論」にほかならない。
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