【連載】知られざる地政学(塩原俊彦)

「知られざる地政学」連載(82):アジアの文化的隆盛に思う 「感情」の考察(下)

塩原俊彦

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感情の分析の大切さ

先に紹介したアジア版のアニメや音楽の隆盛の背景には、いったい、どんなことがあるのだろうか。私がずっと気にしているのは、感情の問題だ。当然、アジア的感性と西洋的感性には違いがある。今後、AIがますます進化を遂げていく過程では、感情をどうAIに理解させるかという大問題に直面するだろう。

だからこそ、感情を真正面から考察することがきわめて重要なのである。それは、地球上の空間的支配をめぐる地政学や地経学においても、重要なテーマとなりうる。

こんな思いもあって、ようやく執筆を終えた長い原稿の一部として、この問題について書いた。そこで、ここで感情について記しておこう。

まず、イマヌエル・カントが著した『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』が真・善・美に対応するテーマであるとみると、美を語っているはずの『判断力批判』が政治哲学に関係していると喝破したハンナ・アーレントの『カント政治哲学の講義』からはじめよう。彼女はそのなかで、つぎのように書いている。

「換言すれば、『判断力批判』の主題――自然の事実とか歴史上の事件とかいう特殊的な事柄、その特殊的なものを扱う人間精神の能力としての判断力の能力、そしてこの能力の機能する条件としての人間の社交性、すなわち、身体と自然的欲求とをもつという理由からだけでなく、厳密には精神的諸能力のためにも、人間が仲間に依存しているという洞察――これらの主題はすべて卓越した政治的意義を有しており、政治的な事柄にとって重要である。」

ここでアーレントは、カントが快楽の基準としての「共通感覚」(common sense)の正体を人間の仲間が依存し合うことで生まれる「共同体感覚」(community sense)に求めていたことを示しているのだ。これは、「美しいもの判定する能力」である「趣味」(Geschmack, taste)についてもあてはまる(ここでの趣味はhobbyのほうの訳ではない点に留意)。

たしかに趣味判断は主観的で感情的なものにすぎないようにみえる。だが、カントは趣味判断の基礎に見出されるのは「個人的感情」といったものではなく、「共通の」あるいは「共同体の」感情であると主張しているのだ。そう考えると、ここでいう「共通感覚」(sensus communis)は共同体内で伝達可能性ないし公開性をもつという条件下で形成された理想的規範として人々に植えつけられる「感情」を意味していることになる。

この結果、アーレントのカント解釈によってわたしたちが理解できるようになったことは、つぎのようなことである(清水真木著『感情とは何か』)。

「私が自らの感情を感情として受け止めることが可能になるためには、これを言葉に置き換える作業が必要であること、言葉によって置き換える作業が他人による承認、他人との共有を想定して遂行されるものであること、また、他人による感情の承認の基準が「共通感覚」あるいは「趣味」と呼ばれるものであること、さらに、このような基準の正体が「共同体感覚」であり、公的領域に由来するものであること、アーレントのカント解釈は、私たちにこのようなことを教えます。」

感情を鍛え直せ!

ここでの問題を整理してみよう。まず、知ってほしいのはハンノ・ザウアーが書いたThe Invention of Good and Evil, Translated by Jo Heinrich, Oxford University Press, 2024のなかで、「結局のところ、政治的分極化(political polarization)は、大部分においてイデオロギー的な側面はまったくなく、純粋に感情的な現象である」というが指摘したことである。この記述につづけて、彼は「私たちは意見が違うのではなく、ただお互いを嫌っているだけだ」とものべている。つまり、政治的対立といっても、実は「好き嫌い」の感情の問題に還元できるというのである。

問題はここでいう「感情」にある。先に紹介した清水真木の本『感情とは何か』がそれを教えてくれている。彼は、身分制では、「諦め」でしかなかった感情が民主主義が実現しようとした「平等」優先のなかで、「妬み」を生み出したことを前提に、「妬み」という言葉についてつぎのようにのべている(236頁)。

「しかし、厳密に考えるなら、政治哲学においてこれまで語られてきた「妬み」というのは、言葉の通俗的な意味における感情であるにすぎぬものであり、判断と行動を結びつける単純化された「条件反射」の枠組にすぎません。これは、「イデオロギー」、つまり、私たち一人ひとりがみずから考えた結果として獲得された真なる観念ではなく、社会においてその都度あらかじめ漠然と共有されている出来合いの観念、「虚偽意識」であると考えねばならぬものであるように思われます。」

こう考えると、普通に考えられている感情は虚偽意識にすぎないことになる。本当の意味の感情は別のものなのだ。ゆえに、清水はつぎのように記している(237頁)。

「しかし、ある感情が「妬み」の一語で指し示されると、これは、細かい襞を持つ複雑な感情、自己と世界の真相を語るものであることをやめ、みずからのあり方をめぐる思考を咀嚼する陰影を欠いた虚偽意識として私たちを支配するようになるでしょう。妬みに駆り立てられて行動する者は、感情に振り回されているのではありません。反対に、行動の背後において作用する虚偽意識を誤って感情と見做すことにより、本当の意味における感情を沈黙させ、感情が告げる真理から目をそむけているにすぎないのです。」

ここまできたとき、「感情っていったい何?」と問うことが必要になる結論部分を紹介しよう(243頁)。

「すなわち、感情の経験が共通感覚に依存するものであるかぎり、感情は、意見を異にする者たちのあいだのオープンな討議と合意形成の場としての公的領域を形成し維持する意欲、「公共性への意志」と呼ぶことのできるような意欲を基礎とするものであること、したがって、反対に、このような意欲を持たない者には、本当の意味における感情に与る可能性が閉ざされていると考えることが許されるに違いありません。」

この清水の結論を意外に思うかもしれない。普通、だれしも感情があると考えているからだ。しかし、それは虚偽意識にすぎない。感情をもつためには、そのための努力、すなわち、公共性への意志をもつように鍛えなければならないことになる。つまり、「虚偽意識から区別された本当の感情なるものは、ときには日常生活において、ときには藝術作品の力を借り、特別な努力によって奪い取ることの必要なもの」ということになるのである(244頁)。

ここで思い出してほしいのは、「個人は「神」や「自分」といった「他者」に向き合うことによって形成され、複数の個人(individual)からなる公共(public)空間を意識できなければ個人たりえないのだ」ということだ。要するに、「私人」になるのは簡単だが、「個人」になるためには、「公共性への意志」が必要であり、そのためには、自分自身を鍛える必要があるのである。同じように、感情も藝術作品のようなものと向き合うことで、美についての視線を鍛え、育む努力をしなければならないのである。

バブルとエコーチェンバーの違い

ここまでの清水の見方にザウアーの政治的分極化が「純粋に感情的な現象である」という主張を重ね合わせるとき、何が言えるだろうか。そこで見えてくるのが「公共性への意志」をめぐる閉塞感だ。

まず、認識論的なバブルのなかにいると、他の人々や意見に触れることがなくなり、孤立によって情報が遮断されてしまう。こうした「無知」の状態にある者に対しては、教育を通じて、新しい、未知の情報を取り入れることでバブルを崩壊させることができるとザウアーは主張している。意図的に他者とのかかわりをもとうとしない者が自ら覆いつくそうとしているバブルを吹き飛ばすのは難しいかもしれないが、新しいテクノロジー、たとえば、前述した「ボーカロイド」(音声合成技術)といったものをうまく活用すれば、改善が進むかもしれない。

だが、認識論的なエコーチェンバーの住人はさらに悲惨な状況にある、とザウアーはみている。彼らはグループの総意から逸脱する見解を積極的に疑うことを学んでいるからだ。エコーチェンバーでは、見慣れぬ異なる見解に直面しても効果はなく、むしろエコーチェンバー内の認識論的孤立を強化する可能性がある。なぜなら、すでに不信感を抱いている個人からの反対意見を聞けば、自分の意見をさらに確信するからである。

どうしてそんなことになるかというと、「協力の論理は、信頼できるグループの一員として認められたいという意味」を出発点としているからだ。ザウアーによれば、「私たちの思考は「部族的」であり、部族主義のためにつくられたものである」。ゆえに、「グループ内では、他の部族メンバーに感知され、信頼の証として理解される忠誠のシグナルを送ることが重要となる」。そのとき、「この役割は主に、だれにでも受け入れられるというよりも、グループ特有のアイデンティティを確立する効果を持つ信念によって果たされる」。こうして、あるグループ内だけが「過激化」してしまう。

ただし、その結果として政治的分極化が生じてしまうとしても、長い人類の歴史からみると、政治的分極化は「純粋に感情的な現象」にすぎない。ザウアーは、「私たちの政治的信念は不安定で、表面的で、非合理的で、情報不足である」としたうえで、つぎのように書いている。

「極論は感情的な現象であり、他者と共感できないと不信感を抱く。「私たち」に属さない人々を憎むようになる。実際には、私たちを隔てるものよりも、私たちに共通するものの方が多い。」

このとき、ザウアーが清水と同じ意味で、「感情」を理解しているかどうかはわからない。それでも、感情的に現象であるならば、本当は「共通するものの方が多い」のだ。なぜなら、清水のいう、「意見を異にする者たちのあいだのオープンな討議と合意形成の場としての公的領域を形成し維持する意欲」である「公共性へ意欲」を基礎とする感情は、それ自体として互いの意見の討議を可能としているからだ。

感情VS知

「共通するものの方が多い」はずの感情だが、現実は違う。とくに、キリスト教神学の影響下にある西洋と、そんなもののない東洋では、必ずしも共通感覚が多いとは言えない。

それでも、最初に紹介したようなアニメでも歌でも、新しい「藝術」はこうした西洋と東洋を隔ててきた決定的な差異を多少とも乗り越える契機になるかもしれない。

そんな意味で、前半で紹介した話は、本当はきわめて重要な意義をもっている、と私は考えている。どうか、こんな動きにも関心を向けてほしい。

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塩原俊彦 塩原俊彦

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。『帝国主義ロシアの野望』によって2024年度「岡倉天心記念賞」を受賞(ほかにも、『ウクライナ3.0』などの一連の作品が高く評価されている)。 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。

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