【特集】アメリカ社会の分断・二極化

書評:ロバート・F・ケネディ・ジュニア著『American Values 5人のケネディから学んだ偉大な教え』 

大竹 一郎(市民記者)

山本泉訳、経営科学出版、2025年。

この記事の表紙になっているロバート・ケネディ・ジュニア氏の肖像画は、大竹一郎さんの作品です。

…本書は、『何故、富豪のケネディ一族から社会的弱者、平和と正義の味方の政治家、社会活動家、弁護士を多数輩出して来たのか?』の疑問に答えてくれる良書である。917頁もある大作で、伝記部門のピュリッツァー賞受賞に値する傑作である。

1969年に81歳で亡くなった祖父(ロバート・F・ケネディ・ジュニア(以下RFKJrと略す)にとって祖父)、ジョセフ・P・ケネディの『権威を疑い、神から授かった理性的な開かれた思考以外のものには頼らないように育てた教育方針が、ジョン・F・ケネディ(以下JFKと略す。)の兄弟は、皆、アメリカでも最も恵まれない層に献身的に尽くす理想主義者へと成長した。』☞120頁他

1995年に104歳で亡くなった祖母、ローズ・ケネディも偉大であった。『物質主義はすべての価値あるものを侵食するとして、裕福なケネディ家にも拘わらず、根っからの倹約精神で、飛行機のファーストクラスに乗る事に反対し、年少のわが子たちにはお下がりのブレザーやズボンを着せ、夜は必ず灯りを消して、電気代を節約した。』☞158頁他

そして本書は銃社会アメリカの犠牲になった『悲劇のケネディ一族の正統な後継者であるRFKJrによる大胆なCIA、FBI解剖新書』でもある。

1)JFKの暗殺について
…忘れもしないあの日、62年前の1963年11月22日(金)。当時、私は高校2年生であった。アメリカからの初めての衛星中継で、ジョン・F・ケネディ大統領が遊説先のテキサス州ダラスで撃たれて、死亡した事を知った。

当時からケネディ・ファンであった私はショックであり、こんなことが許されて良いのかと義憤に駆られたものである。その後、1964年9月にオズワルド単独犯行説の『ウオーレン報告書』が出たが、「嘘だろう。信用できない。真実を知りたい。」と思っていたところ、1977年9月22日号から『週刊文春』に落合信彦の『2039年の真実』が連載になり、貪るように、次週号が待ちきれないという思いで読んだものである。

本書は、JFKの甥にあたるRFKJrが2018年5月にアメリカで発刊した『American Values:Lessons I Learned from My Family』の邦訳で、忙しい弁護士活動・消費者運動の合間を縫って、917頁もある大作を良く書いたものである。文章も上手い。

『2039年の真実』では、マフィアがJFK暗殺の実行犯とされているが、本書ではCIAの殺し屋クラブ、「オペレーション40」を暗殺の実行犯としている。

RFKJrは、『ケネディ一族をめぐる数々の中傷…ジョセフ祖父の酒類密輸、祖父とマフィアとの関係、1960年の大統領選での(マフィア)ジアンカーナによる票操作、…どれも(CIAの)ハルパーンのでっち上げである。』(☞335頁)と主張している。

(1)JFK暗殺の背後にイスラエルがいた。
さらに「2039年まで公表されない」とされていた8万頁にも及ぶ「JFK暗殺ファイル」を3月18日にトランプが、突然公表した。『JFK暗殺ファイル』には、JFK暗殺の背後にイスラエルがおり、後にイスラエル首相になるイツハク・ラビンが暗殺当日の朝、ダラスにいたとのことである。

JFKは、当時、①イスラエル・ロビーのアメリカ議会でのロビー活動を禁止し、②イスラエルの核開発計画に強い懸念を示し、③ベトナム戦争の戦費と福祉予算を賄うため、通貨発行権をユダヤ金融資本のFRBから取り上げ、財務省の発行とし、イスラエルを激怒させた。まさに父親(ジョセフ・P・ケネディ)直伝の正義と規律であった。JFKは正義の全面展開を急ぎ過ぎたのでは?

現在の世界もそうであるが、当時の世界が、アメリカが、それだけ悪に満ち満ちていた。43歳の青年大統領には、その悪を許せなかったのでは。
(2)本書ではニクソン副大統領が采配を振るい、暗殺の実行犯はCIAの「オペーレーション40」の7人であったとされている。

本書の320~326頁によると、『ケネデイ暗殺の采配を振るったのはニクソン副大統領とリチャード・ヘルムズCIA副長官である。…アイゼンハワー政権時代にCIAのアレン・ダレス長官とリチャード・ビッセル作戦担当副長官は、亡命キューバ人や殺し屋、テロリストからなるチームを結成し「オペレーション40」なる機密作戦を立ち上げた。…同チームはCIAの殺し屋クラブであり、CIAでも飛び切り暴力的なならず者をそろえていた。当初40人だったメンバーは最終的には70人まで増えた。

ほぼ全員がCIAが手掛けた(惨憺たる失敗に終わったキューバ反革命の)ピッグス湾事件(1961年4月19日)の参加者だった。』

本書によるとJFK暗殺犯は下記の7名である。
① ハワード・ハント(2007年1月23日没)
…ピッグス湾事件、カストロ暗殺計画に関わる。『…CIA工作員ハワード・ハントが息子に打ち明けたところによれば、「ビッグ・イベント」の起きる直前に、マイアミにあるCIAのセーフハウスで反カストロ工作員のフランク・スタージス、デイヴィッド・モラレスと会い、JFK殺害計画について協議したという。』☞594頁

ハワード・ハントは、1972年6月のウオーターゲート事件で33カ月服役した。『ハントは臨終の床で息子たちに罪を告白した際、ケネディ大統領暗殺計画に参加した事を認めている。ハントによれば、計画にはモラレス、スタージス、ハーヴィー、フィリップスもかかわっていたという。』☞323頁

② プロパガンダの魔術師、デイヴィッド・アトリー・フィリップス(1988年7月7日没)

[CIAに25年間勤務して、西半球作戦部長にまで昇進し、「キャリア・インテリジェンス・メダル」を受賞している。オペーレーション40の重要メンバーで、オズワルドのケース・オフィサーであったと言われている。…ウイキペディアより]

…『フィリップスが手掛けた悪行は数多い。西半球の民主政権に対する数々のクーデターを画策したのもフィリップスである。1973年の打倒アジェンデのクーデターもそうだし、1976年にワシントンDCで、オルランド・レテリエル元チリ外相を自動車ごと爆破し殺害したのもフィリップスだ。』☞322頁

③ フランク・スタージス(1993年12月4日没)
…『後年、ハワード・ハントと並んでウオーターゲート侵入犯となるフランク・スタージスはこう述べる。「この暗殺部隊、オペレーション40は命令を受けて、…諸外国の軍人や政治家を当然のように暗殺した。必要とあらば…自国の軍人や政治家までも…当時我々はキューバに専念していた。』☞320頁

④ デイヴィッド・サンチェス・モラレス(1978年5月8日没)
…『デイヴィッド・サンチェス・モラレスはCIAのヒットマンとして恐れられており、JFK(ジョン・F・ケネディ)とRFK(ロバート・F・ケネディ)両人の暗殺に一役買ったとしばしば自慢した。』☞322頁

⑤ ウイリアム・ハーヴィー(1976年6月9日没)
…『CIAの殺し屋でアル中スパイマスター』☞321頁

⑥ エラデイオ・デル・バジェ
…『キューバ人の雇われ殺し屋』☞322頁

⑦ エルミニオ・ディアス
…『デル・バジェとディアスも死ぬ前にJFK暗殺に一役買ったと自慢していた。』☞323頁

(3)オペレーション40の本部は『CIAマイアミ支局内にあり、…CIA最大の支局であり、マイアミ最大の雇用主でもあった。CIA工作員がマイアミ支局にどっと移動して来た結果、1960年代のフロリダ州南部に不動産ブームが起きた程である。』☞323頁

(4)『CIAの秘密予算と支配のもとで稼働する組織は、情報機関が1271機関、スパイ、殺人誘拐、秘密工作、破壊活動、拷問等を請け負う民間企業が1931社と驚くべき数に上る。スパイ機関の盗聴要員3万人余りが1日15億本以上の通話の盗聴に勤しんでいる。』☞293頁

『…(惨憺たる失敗に終わったキューバ反革命のピッグス湾事件に)怒ったJFKはアーサー・シュレジンジャーに「CIAを粉々にして風にまき散らしてやりたい気分だ」と打ち明け、こう付け加えた。「我々はCIAを何とかしなくてはならないということだ。』☞302、303頁

(5)悪の巣窟、ダラス
…『…毒々しい憎悪、いかにも暗殺の舞台となるにふさわしい憎悪である。腐敗しきっていることで悪名高いダラスは、

①偏狂な人種差別主義者、

②石油で儲けた億万長者や、

③ジョン・バーチ協会所属の過激な人格異常者、1920年代にはKKKが本部を置いていたことから、

③ダラス警察にはKKK会員が大勢いた。…オズワルドを殺害した

④ジャック・ルビーはマフィアのダラス警察への贈賄担当者だったという。…ダラスの

⑤支配階級や法執行機関の中で力を持っていたのが、CIAである。

⑥当時のダラス市長アール・キャベルは1956年以来CIAの工作員だったという。

⑦JFKはピッグス湾事件後、CIA副長官だった市長の兄、チャールズ・キャベル将軍を解任した。

⑧ダラス警察にはCIAに繋がっている警官が100人以上いたという。ダラスには、

⑨大規模な亡命キューバ人コミュニティがあり、打倒カストロとケネディ兄弟憎しで沸き立っていた。ダラス郊外には軍事基地や油田が密集していることから、

⑩ダラスはウオール街の有力者や石油業界の大物、防衛企業の合流地点となっていた。彼らはケネディ兄弟を不倶戴天の敵と見なしていた。』☞614~616頁

『ジャック(JFKの略称)が殺害される約1カ月前の10月25日、アドレイ・スティーブンソン国連大使がダラスで演説したところ、群衆から石を投げつけられ、唾を吐きかけられプラカードで殴られた。…狂信的な若い主婦たちが公共の場でスローガン『スティーブンソンは死ぬー心臓が止まる、止まる、体が燃える、燃える』に合わせて体を揺らす。』☞616頁

『ダラスの公立校では、校内放送がJFK暗殺を報じると、まだ4年生の子供達でさえ歓声を上げた。…アラバマ州のモンゴメリーやバーミングハムの学校でも、暗殺のニュースを知った白人生徒が喝采した。…しかしダラスが他地域と違ったのは、悪意がまるでガン細胞のように転移し拡大していたことだ。』☞617頁

(6)ジャックが推進する国内・外交政策は、ダラスの全権力中枢を怒らせようとしているとしか思えない代物だった。

① アレン・ダレスCIA長官の解任☞ダラスの富裕階級はウオール街・石油産業・情報機関に対する宣戦布告と受け止めた。

② ダラスの大手石油業者がキューバ・ベネズエラ石油会社への巨額の投資をしていた。☞対カストロ融和政策で☞回収の見込み薄と見た。

③ (1963年8月5日に米英ソで調印され、10月10日から発行した)部分的核実験禁止条約はウラン価格に打撃を与えていた。ウランはかねてから、ダラスの石油産業にとっておいしい鉱脈だった。テキサス州は国内のウラン採掘の中心地だったのだ。

④ JFKはアマゾン盆地における鉱物・石油開発を中止させた。☞ダラスの石油大手の主要な投資先である

⑤ 石油減耗控除制度に手を付けようとした。☞同制度は、石油大手が所有する油井の石油生産量が減った場合、自動的に税控除を認めるという制度。

⑥ RFKは、石油各社に対して石油生産量や売上高、費用等を正確に記入せよと屈辱的なアンケートを求めたのである。ダラス最大の石油王であるクリント・マーチソン、シド・リチャードソン、…H・L・ハント(当時は世界一の金持ちだった)は莫大な儲けを失う瀬戸際に立たされた。

⑦ 「ケネディ政権は南部支配階級の肥大化し続ける富と権力の核心部分に打撃を与えた。石油減耗控除制度を攻撃しただけではない、公民権を擁護することによって、南部の産業を支える安価な労働力にひびを入れたのである。」…ラス・ベイカー』☞617~619頁

(7)何故、JFKは、陰謀渦巻くダラスへ遊説に行ったのか?
『翌年(1964年)の大統領選挙に備え、ダラス訪問の目的は、右派の民主党テキサス州知事ジョン・コナリーとテキサス州選出のリベラルな民主党上院議員ラルフ・ヤーボローとの不和を修復する事にあった。…ダラスでの演説は右翼軍国主義に対する全面攻撃となるはずだった。…アメリカの底力を示す最善の道は武力を誇示する事ではなく「権利平等や社会正義について自ら説くところを実践し、好戦的野望ではなく平和を追求することであると主張するはずだった。」』☞621頁

(8)『ケネディ家の友人たちは口を揃えてダラスに関わるなとジャックに忠告した。例えば民主党全国委員会のバイロン・スケルトンなどだ。』☞619頁☞JFKのスタッフに危機管理コンサルタントがいなかったのでは、62年前の事ではあるが、リスク・マネジメント体制が確立していなかった?のは、返す返すも残念である。

2)なぜケネディ家は、真の改革者を多数輩出できたのか?
JFKの9人兄弟の中から、大統領1人(ジョン・F・ケネディ)、上院議員2人(ロバート・F・ケネディ(1968年6月6日に暗殺さる)、エドワード・M・ケネディ(2009年に77歳で没))、
駐アイルランド米国大使として尊敬を集め、北アイルランド和平合意の仲介役として尽力した末娘のジーン・ケネディ・スミス(2020年、92歳で没)、スペシャルオリンピック(知的発達障害のある人たちがスポーツトレーニングや競技会を通じて社会参加を促進する国際的なスポーツ組織)を創設した3女、ユーニス・シュライバー(2009年、88歳で没)ら、真の改革者を多数輩出したケネディ家の祖父ジョセフ・P・ケネディの教育方針は、どうだったのか?まず知りたい処である。本書も冒頭の第1章を「祖父」としている。

(1)夕食のテーブルが議論の場であり、時にはヒートアップして論争の場となった。
祖父ジョセフ・ケネディは、『私達は恵まれた境遇にいることを感謝すべきで、落ち込んだり不平不満を言ったりするのはわがままだというのだ。…子供たちに常に勤勉を要求した。私達は日々のあらゆるすき間時間を何らかの有益な活動で埋めることを求められた。テレビでニュース以外の番組を見ているところを祖父に見つかろうものなら、スイッチを切られ、外で遊んで来いと追い出された。テレビは恐るべき時間の無駄だと祖父は考えていた。』☞76頁
『…ケネディ家の祖父は厳格な家長で子供たちにはマナーと規律と堅実さを求めた。』☞211頁

(2)『権威を疑い、神から授かった理性的な開かれた思考以外のものには頼らないように育てた。
祖父は夕食前に研究課題を与えたー例えばアルジェリアの独立とか、社会主義とかだ。…子供たちを活発な議論に誘い込んだ。…意見が分かれ、夕食の場が、時には激しい口論になる事もあった。』☞110、111頁

(3)『彼らは皆アメリカでも最も恵まれない層に献身的に尽くす理想主義者へと成長した。』☞120頁
『祖父はこう語った。「私の人生の目標は蓄財ではない。わが子たちをアメリカを愛し、全国民の幸福のためにアメリカに奉仕する人間へと育てることだ。』☞120頁

(4)『祖父の最大の目標は、わが子たちに社会的良心を培う事だった。…自分たちほど恵まれていない人々に対する責任がある。』☞122頁、123頁
3)祖父、ジョセフ・P・ケネディの蓄財法は?巷間言われている「禁酒法時代の酒類の密輸疑惑は間違い。2)104歳で逝った祖母、ローズ・ケネディも偉大であった。

『物質主義はすべての価値あるものを侵食する。(☞裕福なケネディ家から、こういう言葉を聴くとは思わなかった。)向学心と深い信仰こそは、物質主義を治癒する特効薬だった。…祖母は言葉を愛し、言葉こそは明晰な思考のための手段だと考えていた。』☞139頁

『祖母は抜け目のない選挙活動家であり、…飛び切り優秀などぶ板政治家だった。ウイスコンシン州ではドイツ語で、ニューイングランドのフレンチ・カナダ系住民にはフランス語で演説した。1980年のエドワードケネディ叔父の大統領選では、89歳にしてアイオワ州全域を遊説して回り、…政治がらみの夕食会では、祖母は全テーブルを回り、何百人もの人と握手をし、おしゃべりした。眼を輝かせ笑みを浮かべながらだ。「政治は楽しいものよ」と口癖のように言っていた。庶民的な親しみやすさを失わなかった。』☞151,152頁 『祖母は詮索好きで人に対する好奇心こそは、祖母の自己啓発の道具箱に入っている万能レンチだったといえよう。…祖母の旅行報告を読めば、どんな出不精の人でも旅行熱に感染するだろう。…旅行の次に祖母が好きだったのは本で、いつも私たちに読め読めと言った。「JFKが一国の指導者として成功したのは、ひとえに母親である自分が読書家だったから」だと断言した。祖母によれば、JFKは1日1冊本を読んでいたという。』☞154、155頁

『祖母の環境保護思想は、彼女の根っからの倹約精神とも合致していた。飛行機のファーストクラスに乗る事にも反対した。お金の無駄遣いだというのだ。』☞158頁

『祖母に最大の喜びをもたらすものは、熱心な信仰生活だった。…悲嘆の中でも信仰がケネディ一族を一つにし、力ずけてくれた。祈りは祖母の生活の中心だった。…祖母は人生を愛していたが、死を恐れることはなかった。…祖母は、教会は貧者や弱者の守り手であるべきだと考えていた。』☞160~162頁

『カトリック信仰の御蔭で祖母は、人生のあらゆる面に受容と感謝という美徳を織り込み、この世の艱難も財宝も取るに足りないものとして退けることが出来た。』

『…良く歩く人で「夕食後寝る前に必ず20分は散歩しなさい。」と私達にも言った。(☞足は第二の心臓であることを実践していた。)私達は…祖母の御供をし、ハイアニスポートの海沿いゴルフ場の周りや、パームビーチのレイク・ワース潟湖の曳舟道や、ナンタケット海峡に面する海岸をぶらついた。』☞147頁

3)祖父、ジョセフ・P・ケネディの蓄財法は?巷間言われている「禁酒法時代の酒類の密輸疑惑は間違い。

☞ジョセフ・P・ケネディ、1914年、25歳のケネディはアメリカ最年少の銀行頭取であった。☞ボストン・ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館所蔵の写真(パブリック・ドメイン)

『酒類の密輸疑惑の起源は主に、禁酒法時代末期に祖父が、FDRの息子ジェームズ・ルーズベルトの協力を得て、ホワイトホースとディンプルというスコッチウイスキー銘柄を所有するイギリス企業を買い取った事にある。歴史家デイヴィッド・ナソーは、祖父の伝記『The Patriarch(家長)』の執筆に当たって密輸疑惑を徹底的に調査した。そのナソーによると「禁酒法下でジョセフ・ケネディが酒類を輸入・販売した事実は一切ない」という。密輸説が初登場したのは1960年代半ばの事である。共和党によるアンチJFKキャンペーンの一環だった。…JFKの名をおとしめるのが目的である。その頃には祖父は脳梗塞の発作を起こした後で、弁明できる状態にはなかった。』☞79頁

4)祖父は、ハーバード大学を卒業すると、州政府の銀行監察官になり、鋭い頭脳を活かしてみるみるうちに成功した。1914年にはコロンビア信託銀行の敵対的買収を阻止し、25歳にして同銀行の頭取に就任した。新聞各紙は「世界最年少の銀行頭取」との見出しを掲げた。1926年には百万長者になっていた。

5)『JFKが…アメリカを戦争から遠ざけようとした背景には、①若い頃の海外旅行、②従軍経験、③熱心な読書欲、生まれ付きの好奇心の強さといった諸要因があった。JFKが政治に興味を持つようになったのは、サンフランシスコでの国連創設会議であり、ポツダム会談だった。JFKの側近であったケニー・オドネルは、「政治こそは、次なる戦争を防ぐために個人として最大の貢献が出来る場である事に気ずいた」のである。』☞493頁

6)ジャクリーン・ケネディが「ご自分の最大の長所は何だと思いますか」と質問した。するとJFKは「好奇心」だと答え、ジャッキーを驚かせた。好奇心とは言い換えれば共感力だろう。』☞562頁

7)RFKJrの分析力と行動力、執筆力は、母親(エセルは97歳で存命)譲りである。

…『私の母(エセル)の血筋には正義と寛容を訴える活動家としての母を予兆する要素はほとんど見当たらない。…1892年生まれのジョージが私の祖父に当たる。…ジョージ祖父には野心と断固たる決意と不屈の起業家精神があった。…祖父はユタ州モアブの牧場で…石油を掘り当てたのだ。小学校も卒業していないジョージ祖父だったが、冶金学や化学、地質学やビジネスの本を読み漁った。急成長途上の航空産業用のアルミ製造に必要な純度の高い石炭の需要が世界的に急増している事を知った。石炭を生成するには、石油をガソリンにする過程で発生する廃棄物の石油コークス(ペットコーク)を利用すれば良い事も祖父は知っていた。石油業界は廃棄物の山を地元の川に廃棄していた。そこで祖父は、石油各社の手持ちのペットコークを1トン当たり何セントかで洗いざらい買い取り、事実上の独占体制を築き上げた。続く10年間に石炭に替わる家庭用燃料として…電気化学・冶金産業向けにアメリカ東部で何百万トンものペットコークを売り捌いた。

1935年、祖父とパートナーたちは5万ドルを投じて、テキサス州ポートアーサーに巨大な石油コークス精製炉を建設した。祖父たちは、アルコア、レイノルズ、カイザーその他の主なアルミメーカーに自社製品を売りつけた。新設の炉は6週間ごとに建設コストの元を取ってくれたと祖父は自慢する。

その会社、グレート・レイクス・カーボンは世界各地に製造工場を展開していく。1941年はイリノイ、カリフォルニア、ワイオミング、テキサス、ニューヨークの各州に、カナダ、ポルトガル、スペイン、イギリス、スウェーデン、インドにもプラントを建設し、アルミ業界や黒鉛業界、鉄鋼業界を相手に膨大な精製石炭を販売するようになっていた。戦時中は軍事契約を獲得し潤滑油や珪藻土を製造した。

…母が12歳になる頃には、祖父(ジョージ・スケイケル)の会社は米国有数の大手民間企業へと成長しつつあった。大恐慌時のアメリカにはミリオネア(百万長者)は24人しかいなかったが、その中にジョセフ・P・ケネディとジョージ・スケイケルもいた。』☞181~190頁

『…権威に対する反抗心と、どうでもよい規則を無視する癖は、母がまだ年若い頃に芽生え、一生続く習性となる。』☞203頁

☞1962年のジョセフ・P・ケネディ・ジュニア財団第1回国際表彰式でのローズ・ケネデイ(当時72歳)とジョン・F・ケネディ大統領☞ボストン・ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館所蔵の写真(パブリック・ドメイン)

『両家(ケネディ家とスケイケル家)は理想的な組み合わせのように思われた。どちらもカトリック教徒で…スポーツ、アウトドアの冒険が好きなのも一緒。…ケネディ家同様、スケイケル家の兄弟全員が第二次大戦中は海軍軍人だった。』☞210、211頁

『…ケネディ家はどちらかと言えば質素で倹約家だったのに対し、スケイケル家は節操のない浪費にふけった。…母がスケイケル家の浪費癖を受け継いだのに対し、父はケネディ家祖父の倹約家揃いの子供達の中でも一番のケチだった。』☞210頁

『ケネディ家にとって富は神から託されたもの、人のために使うべきものだった。これに対してスケイケル家は富は単なる事業利益に過ぎず、何の責任も伴わないと見る傾向があった。』☞218頁

『私の伯父ジョージ・スケイケル・ジュニアは、…グレート・レイクス・カーボンの社長に就任した。1966年9月24日に乗っていた飛行機が墜落して死亡した。…彼の死後は会社経営に殆ど関心を示さなかったジミー伯父とラッキー伯父がいい気になって暴走した。やがて社が立ち行かなくなると二束三文で売り払った。有能な新経営陣のもと、会社は速やかに立ち直り、実業家コーク兄弟の石炭・石油産業ポートフォリオ中の輝ける星となった。』☞226~230頁

大竹 一郎(市民記者) 大竹 一郎(市民記者)

1947年生まれ。1970年、慶応義塾大学法学部政治学科卒。 ジャーナリスト志望でしたが、文章力が足らず、惜敗。 サラリーマン生活50年。 現在、マスコミが報道しないすき間の真実を市民・国民に伝える『すき間ジャーナリスト』を自称。歴史家、画家、写真家でもある。

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