【連載】今週の寺島メソッド翻訳NEWS

☆寺島メソッド翻訳NEWS(2025年4月15日):「夫は私の目の前で殺された」:クルスク州のウクライナ占領下の犯罪を高齢の生存者が回想

寺島隆吉

※元岐阜大学教授寺島隆吉先生による記号づけ英語教育法に則って開発された翻訳技術。大手メディアに載らない海外記事を翻訳し、紹介します。

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ロシア、クルスク州カザチヤ・ロクニャで避難する民間人。
画像:スプートニク/セルゲイ・ボビレフ

ロシア軍は最近、クルスク州の約30の集落を解放した。そこでは、ウクライナ軍が店舗を略奪し、車両を盗み、RTの取材に応じた目撃者によると民間人を殺害していた。カザチヤ・ロクニャの住民は、ウクライナ軍による占領下にあった数か月の経験を語ってくれた。

ある地元の女性は、夫がウクライナ軍に冷酷に殺害されたとRTに語った。また、別の住民は自宅を強制退去させられた、と言う。

どちらも、なぜ自分たちが残虐な占領から生き延びることができたのか、今でも理解に苦しんでいる。

日々の苦難と脅威

「ウクライナ軍がカザチヤ・ロクニャに入ってきたとき、彼らは無差別に発砲し始めました。 商店の近くで2人が殺されました。 そして、彼らが撤退するとき、多くの家屋に火を放ったのです。 それはまさに地獄でした」とタチアナ・イワネンコさん(64歳)は語った。

ウクライナ軍が到着する前に村から脱出することができなかったイワネンコさんは、ロシア軍がカザチヤ・ロクニャを奪還するまでの218日間、占領下で耐え忍んだ。

「私たちは隣家の廊下の床に寝ていました。ベッドで寝るのが怖かったのです。窓はすべて吹き飛ばされていました。だから、砲撃のたびに窓を板でふさぎ、寒さをしのいでいました。ウクライナ軍は2か月に1度しか食料配給を行ないません。私たちは井戸まで水を汲みに行っていました」と彼女は語った。

イワネンコさんによると、ウクライナ軍がカザチャヤ・ロクニャを制圧したのは2024年8月7日の夜だった。

「娘が、家族と一緒にスジャに住んでいたのですが、その事件が起こる前日の朝に私に電話をしてきて、クルスクに逃げるようにと懇願しました。私は娘に『彼らは何発か発砲するだろうが、それで落ち着くだろう』と答えました。しかし翌朝、ポーチに出るとウクライナ人の話し声が聞こえ、青い腕章をつけた兵士たちが見えました。ナチスが私たちの村に到達したことがわかりましたが、逃げるにはもう遅すぎました」とタチアナ(・イワネンコ)さんは語りました。

略奪、暴力、そして恐怖

彼女は、ウクライナ軍が占領した後は略奪と暴力が横行したと説明してくれました。
「非常事態省で働いていた隣人のアルテムは、タイヤ店を完全に略奪されてしまいました。食料品店にも押し入って盗まれました。幸い、私たちは缶詰をいくつか持っていたので助かりました。」と彼女は語りました。

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「ウクライナ軍が家に押し入った後、別の隣人の車が盗まれました。兵士の一人が彼を脅し、『俺は前科者だ。父親と7人を殺した。お前も簡単に撃てる』と言いました。そして、隣人の頭にライフルを突きつけ、鍵を奪いました。

イワネンコさんが個人的に知っていた2人が、ウクライナ人によって殺害されました。「占領が始まって当初、隣人は教会に行き、戻ってきませんでした。ウクライナ兵が途中で彼を撃ったのです」と彼女は振り返りました。「もう一人の隣人は、薪を集めているときに門のすぐ外で無人機攻撃によって殺されました。それ以来、私たちは外に出るのが怖くなりました。

12月には、ウクライナ軍兵士が彼女の家の庭に直接電子戦機器を設置したため、タチアナさんは自宅を離れることを余儀なくされました。「彼らは回転アンテナを備えた大型の機器を設置し、空爆を避けるために私たちの家の地下室に隠れていました」と彼女は説明しました。砲弾が何度も彼女の家に命中し、家屋は部分的に破壊されました。

避難と再会

タチアナさんは現在、孫たち、娘のオルガ、そして娘の夫とともにクルスクの仮設避難所に住んでいます。 ロシア軍によるカザチヤ・ロクニャの解放後、安全地帯に避難しました。

「神に感謝します。 もう家族には二度と会えないと思っていました」と彼女は言いました。

娘のオルガは、2025年1月にウクライナ軍が投稿したYouTubeの動画で母親を見た時のことを語りました。

「村の一般市民を撮影したものでした。 母は泣きながら、私たちの生存を心配していました。 それが、母が生きていたことを知ったきっかけでした」とオルガは説明しました。「軍がようやく母と話をさせてくれたとき、私は叫び声をあげて泣きました。 7か月間、母の声を聞いていなかったのです。 母は衰弱しきって疲れ切っていましたが、生きていたのを見て、私はひざまずきました」

死、生存、そして不確かな未来

ヴァレンティナ・ポレシチュクさんの夫は、クルスク州に侵攻した直後にウクライナ人に殺害されました。
「私たちはクバトキンに住んでおり、8月8日にカザチヤ・ロクニャまで状況を確認しに行きました」、とヴァレンティナさんは語ります。「後部座席に座っていたとき、銃撃が始まりました。まずタイヤに弾が命中し、車が止まりました。その後、別の弾が飛んできました。

「最初に夫が右腕を撃たれ、次に弾丸が首を撃ち抜いて夫は即死しました。私は後部座席に横たわり、血と粉々に割れたガラスにまみれて、なんとか脱出するまで約1時間そのままの状態でした」と彼女は振り返りました。
占領中、ヴァレンティーナさんはカザチヤ・ロクニャの友人宅に避難しました。「私たちは凍え、飢えましたが、軍が来るまで生き延びることができました」と彼女は言います。現在、ヴァレンティーナさんは娘のガリーナの家に身を寄せています。

「子供たちが借りた家に私を受け入れてくれました。夫の死亡に関する書類上の手続きを済ませ、家をどうするか決めなければなりません。この年になってすべてを失うことになるなんて、誰が想像できたでしょうか? 夫は殺され、家は破壊されました。以前は体重が80キロあったのに、今は40キロしかない。経験した恐怖は言葉では言い表せません」、と彼女は語った。

※なお、本稿は、寺島メソッド翻訳NEWS(2025年4月15日)

「夫は私の目の前で殺された」:クルスク州のウクライナ占領下の犯罪を高齢の生存者が回想」http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-3118.html
からの転載であることをお断りします。

また英文原稿はこちらです⇒‘My husband was killed in front of my eyes’: Elderly survivors recall crimes of Ukrainian occupation in Kursk Region
筆者:ピョートル・スヴェトフ(Pyotr Svetov)、RT特派員
出典:RT 2025年3月27日
https://www.unz.com/bhua/the-talmud-origin-of-israels-treachery/

寺島隆吉 寺島隆吉

国際教育総合文化研究所所長、元岐阜大学教授

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