【連載】今週の寺島メソッド翻訳NEWS

☆寺島メソッド翻訳NEWS(2025年4月28日):やっとオデッサ労働会館虐殺事件に有罪判決―キット・クラレンバーグの筆による精緻な分析

寺島隆吉

※元岐阜大学教授寺島隆吉先生による記号づけ英語教育法に則って開発された翻訳技術。大手メディアに載らない海外記事を翻訳し、紹介します。

欧州人権裁判所(ECHR)は、2014年に起きたナチス反対活動家数十人が生きたまま焼かれた大虐殺を阻止できなかったとしてウクライナ当局を非難したが、裁判官の政治的偏向により、暗黙のうちに犠牲者が自らの運命の責任を負わされ、遺族が受け取った賠償金はわずか1万5000ユーロにとどまった。

同裁判所は、2014年5月2日のオデッサ虐殺において、ウクライナ政府が人権侵害を犯したとして有罪判決を下した。この虐殺では、ロシア語話者のデモ参加者数十人が市内の労働組合会館に押し込められ、超国家主義の暴漢によって生きたまま焼かれた。

同裁判所は、「関係当局がオデッサでの暴力行為を防止するために合理的に期待されるあらゆる措置を講じなかった」ことを理由に、ウクライナは生命権を保障する欧州人権条約第2条に違反した、と全員一致で判決を下した。判事らはまた、ウクライナ政府が「暴力行為の発生後にこれを阻止し、火災に巻き込まれた人々を迅速に救助し、事件に関する効果的な調査を開始・実施しなかった」ことを非難した。

この火災で42人が死亡し、2014年に西側諸国の支援を受けた武力政変によって民主的に選出されたウクライナ大統領が退陣させられた、いわゆる「マイダン革命」の血みどろの幕引きとなった。ウクライナ当局と既存報道機関は、一貫してこの死者を悲劇的な事故の被害者として報道しており、中にはマイダン反対派のデモ参加者自身が放火の原因だと非難する者もいる。しかし、ウクライナ人判事を含む7人の判事による判決は、この見解を完全に覆した。

数十人の反マイダン活動家が焼死した際、地元の消防署がわずか1キロしか離れていないにもかかわらず、現場への消防車の出動が「意図的に40分間遅らされた」とECHRは認定した。

最終的に同司法機関は、ウクライナ当局が暴力行為を「回避するために合理的に期待されるあらゆる措置を講じた」ことを示す証拠は何もなかった、と判断した。そして同裁判所は、キエフ当局は、マイダン支持派と反対派の活動家間の小競り合いが起こり、死者を出した炎上につながるのを防ぐための「いかなる努力も」怠った、とした。こうした衝突が発生する可能性を事前に認識していたにもかかわらず、当局の「過失は…誤判断や不注意の域を超えている」と。

この訴訟は、ネオナチによる放火事件とそれに先立つ衝突で家族を失った25人と、様々な怪我を負いながらも火災を生き延びた3人によって提起された。欧州人権裁判所はウクライナによる人権侵害を認めたものの、裁判所はウクライナに対し、1人当たりわずか1万5000ユーロの損害賠償の支払いを命じただけだった。

この判決は、オデッサ虐殺の実態を完全に認めるには至らず、西側諸国が支援するネオナチ勢力の役割と、2014年2月にマイダン広場で発生した狙撃事件(偽旗作戦と断定されている)との密接な関係をほとんど無視している。判決の中で、裁判官らは暴力的なウクライナのサッカーファンや剃髪頭の人々による暴力を軽視、あるいは正当化し、彼らのことを「統一派活動家」と好意的に表現した。

https://x.com/OlgaBazova/status/1786074721676640492

ウクライナ当局が目を背けている間にロシア人は生きたまま焼かれた

ウクライナのマイダン抗議運動は、ヤヌコビッチ大統領が欧州との貿易協定の締結を拒否し、ロシアとの対話を再開しようとしていたことを受けて、2013年11月に始まった。オデッサの相当数のロシア語話者とウクライナ民族主義者との間で緊張が急速に高まり始めた。欧州人権裁判所の判決が指摘したように、「暴力事件は全体として稀であったものの…状況は不安定で、常に激化する危険性を伴っていた」。2014年3月、反マイダン活動家たちはクルィコヴェ・ポーレ広場にテントキャンプを設置し、「オデッサ自治共和国」の設立に関する住民投票の実施を訴え始めた。

翌月、オデッサ・チョルノモレツとハリコフ・メタリストのサッカークラブの支持者らは、5月2日に「統一ウクライナのために」と題した集会を開くと発表した。欧州人権裁判所によると、この時から「ソーシャルメディア上で、この集会をナチスの行進と表現し、阻止を呼びかける反マイダンの投稿があらわれ始めた」という。欧州人権裁判所はこれらの情報をロシアによる「偽情報」と判断したが、両クラブに所属するフーリガン(暴徒スポーツ支持者)が公然とネオナチに共感し、関係していたこと、そして暴力的な評判が確立されていたことを示す証拠は数多く存在する。このサッカークラブは後に、悪名高いアゾフ大隊を結成した。

反マイダン活動家たちは、テントキャンプへの攻撃を恐れ、「統一推進派」のデモが到着する前に阻止しようと決意した。欧州人権裁判所は、ウクライナの治安機関とサイバー犯罪対策部隊が、当日「暴力や衝突、無秩序状態」が確実に発生することを示す実質的な情報を入手していたことを明らかにした。しかし、当局は「入手可能な情報と関連する警告の兆候を無視し」、いかなる「挑発行為も排除」するための「適切な措置」を講じなかった、と断じた。

2014年5月2日、反ナチス活動家はデモ行進開始と同時にデモ隊と衝突し、直ちに激しい衝突が発生した。判決文によると、午後5時45分頃、3ヶ月前のマイダン広場での狙撃による偽旗事件と全く同じ方法で、複数の反マイダン活動家が「近くのバルコニーに立っていた何者か」に「猟銃」で射殺された。その後、「統一派デモ参加者は…衝突で優位に立って」、クリコヴェ・ポーレ広場へと突撃した。

判決によると、反マイダン活動家たちは広場を見下ろす5階建ての労働組合会館に避難したが、超国家主義派の敵対勢力は「テントに火をつけ始めた」という。双方は銃撃戦と火炎瓶の応酬を繰り広げ、まもなく建物は炎に包まれた。警察を含む地元の消防隊に「何度も通報」があったが、「何の動きもなかった」。裁判所は、消防署長が「明確な指示がない限り、クルィコヴェ・ポーレに消防車を派遣しないよう部下に指示していた」ため、実際には出動しなかった、と指摘した。

建物に閉じ込められた人々の多くは、上階の窓から飛び降りて脱出を試みて亡くなり、生き残った人々は外の暴力的なデモ参加者からさらなる「団結」を示された。「動画映像には、団結を支持するデモ参加者が飛び降りたり転落したりした人々を攻撃する様子が映っている」と欧州人権裁判所は指摘している。消防隊がようやく建物内に入り、鎮火したのは午後8時30分になってからだった。その後、警察は建物内や屋上に残っていた生存活動家63人を逮捕した。拘束された人々は2日後、数百人規模の反マイダンデモ参加者集団が警察署を襲撃し、彼らを拘束するまで釈放されなかった。

その日、当局による安全確保上の不備と関連機関全体にわたる過失が相次いだことがさらに深刻化したのは、偶然にもウクライナの副検事総長との会合に出席していたため、「地方検察官や警察官、そして軍関係者」が「大部分、あるいは全時間、連絡が取れなかった」ためだった。欧州人権裁判所は「これらの当局者の態度と消極的な態度は不可解である」と判断した。つまり同裁判所は、ウクライナ当局が、最大限の混乱と流血を招き、法的責任を逃れるために意図的に連絡を絶ったという明白な可能性を考慮しようとはしなかった、ということのようだ。

欧州人権裁判所は、ウクライナ当局が「暴力行為を阻止するために合理的に可能なあらゆる措置を講じなかった」だけでなく、「人々の命を救うために合理的に期待される措置すら講じなかった」ため、ウクライナ当局が欧州人権条約第2条に違反した、と判断した。また、欧州人権裁判所は、当局が「オデッサでの事件に関する効果的な調査を開始し、実施しなかった」と結論付け、第2条の「手続き的側面」に違反している、ともした。

ウクライナ当局側による隠蔽工作の解剖

同裁判所によるオデッサ虐殺と最も基本的な職務を果たせなかった当局者に対する司法判断は、明言されていないものの、国家段階での意図的な隠蔽工作を示唆する内容となっている。

例えば、事件後、「市中心部の被災地域」を封鎖する努力は全くおこなわれなかった。それどころか、地元当局が「まず最初に行なったのは、当該地域に清掃・整備業者を派遣すること」であり、そのため貴重な証拠がほぼ必然的に消失した。

当然のことながら、2週間後にようやく現地調査が実施されたが、調査は「有意義な成果を何も生み出さなかった」と欧州人権裁判所は指摘した。労働組合会館も同様に「事件発生後17日間、一般人が自由に立ち入ることができた」ため、悪意のある者が現場で証拠を操作、削除、あるいは設置する十分な時間を与えてしまった。一方、「容疑者の多くが逃亡した」と欧州人権裁判所は指摘した。複数の刑事捜査が開始されたものの、何の進展もなく、ウクライナ国家の時効期限となり、時効が成立した。

裁判に至った他の事件は、「市内中心部での衝突と火災の両方に関する膨大な写真と映像の証拠」があり、犯人の身元は容易に特定できたにもかかわらず、「何年も係争中」のまま取り下げられた。欧州人権裁判所は、ウクライナ当局が「すべての加害者を特定するために真摯な努力を払った」という確信を示さず、いくつかの法医学報告書は基本的な手続きに違反し、長年にわたり公開されなかった。また、欧州人権裁判所は、反マイダン活動家への発砲容疑者に対する刑事捜査が、全く同一の理由で4回も不可解な形で中止されたことを指摘した。

同裁判所はまた、ウクライナ当局の虐殺への関与に関する捜査に「重大な欠陥」があった、と指摘した。これは主に、事件開始における「大幅な遅延」と「説明のつかない長期間の不活動および停滞」という形で現れた。例えば、「クルィコヴェ・ポーレへの消防車の配備が遅れたのは、消防署の地方長官の責任であることはこれまで一度も問われていなかった」にもかかわらず、ウクライナ政府が公式に捜査を開始するまでに2年近くもかかった。

同様に、オデッサ地方警察署長は、義務付けられていた「大規模騒乱発生時の緊急時対応計画」を一切実施しなかっただけでなく、実際には安全対策が講じられていたと主張する内部文書が偽造されていたことが判明した。署長に対する刑事捜査は開始までに約1年を要し、その後「約8年間」保留されたまま、時効成立により打ち切られた。

ジョージア(旧称グルジア)とのつながり

2014年5月に起きた反マイダン活動家焼却事件が、ウクライナ当局の極右政権(米国設置による)が企て、指揮した、意図的かつ計画的な大量殺戮行為であったという見解は、欧州人権裁判所では明らかに考慮されなかった。しかし、虐殺直後に設置されたウクライナ議会委員会の証言は、この暴力行為が、判決が示唆するように、オデッサで衝突した二つの敵対勢力によって自然発生的に引き起こされた、偶然の産物ではなかったことを示唆している。

この議会委員会は、ウクライナの中央政府および地方当局が、ファシスト組織「マイダン自衛軍」から選抜された極右活動家を用いてオデッサの分離独立派を暴力的に鎮圧し、労働組合会館付近に陣取る者全員を解散させるという明確な計画を策定していたことを明らかにした。さらに、悪名高い超国家主義ウクライナ政治家アンドリー・パルビーと、同組織所属の武装した「マイダン自衛軍」構成員500人が、虐殺の前夜、キエフからオデッサに派遣されていた。

パルビーは1998年から2004年まで、ネオナチ準軍事組織「ウクライナ愛国者」の創設者兼指導者を務めた。また、オデッサ虐殺当時はウクライナ政府の国家安全保障・防衛評議会の議長も務めていた。ウクライナ国家捜査局は、2019年の総選挙後にパルビーが国会議長の座を解任された後、直ちに2014年5月の事件におけるパルビーの役割を精査し始めた。この捜査はその後、何の成果も上げていないように見えるが、1年前にジョージアの武装勢力がイスラエルのドキュメンタリー制作者に証言しており、オデッサ虐殺においてパルビーの指示の下、「挑発行為」に関与したとされている。パルビーは彼に、反マイダン活動家を攻撃し「すべてを焼き尽くせ」と指示していた。

この戦闘員は、2014年2月にマイダン広場で起きた偽旗狙撃事件に自ら関与したことを認めた数名のジョージア人戦闘員の一人だった。この事件は、パルビーのような極右ウクライナ人指導者や、悪名高い傭兵旅団ジョージア軍団の創設者ミハエル・サアカシュヴィリの指揮下で発生した。マイダン広場での虐殺は、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権の終焉をもたらし、ウクライナをロシアとの戦争へと突き落とした。

オデッサの虐殺は、ウクライナとロシア間の陰惨な物語の新たな一章として捉えるべき事件であり、欧州屈指の人権裁判所は今や正式にこの惨劇の責任をウクライナ当局に負わせた。

※なお、本稿は、寺島メソッド翻訳NEWS(2025年4月28日)「やっとオデッサ労働会館虐殺事件に有罪判決―キット・クラレンバーグの筆による精緻な分析」
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からの転載であることをお断りします。

また英文原稿はこちらです⇒Ukraine guilty of human rights violations in trade union massacre, top European court finds
筆者:キット・クラレンバーグ(Kit Klarenberg)
出典:The Grayzone 2025年3月24日
https://thegrayzone.com/2025/03/24/ukraine-guilty-violations-union-massacre-court/

寺島隆吉 寺島隆吉

国際教育総合文化研究所所長、元岐阜大学教授

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