
「知られざる地政学」連載(93):「安楽死」をめぐる世界情勢(下)
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「自己決定権」
私は、2010年刊行の拙著『核なき世界論』のなかで、つぎのように記述した。かなり長い引用(9~12頁)だが、そのまま紹介しておこう(サービスのつもりである)。
「ブッシュを支えたイデオロギーである新自由主義は、市場における規制撤廃を声高に叫び、自由競争や自由貿易を主張した。そこでは、個人や企業の自己決定権が重視されている。それだけではない。生命倫理分野においては、判断能力をもつ成人は私的所有物とみなしうる自己の身体について、自己決定権をもつとして、人工妊娠中絶、安楽死、臓器摘出などの医療行為の自由度が大幅に拡大してきた。こうしてみると、選択肢が急増しているかにみえるから、自由の度合いも一段と高まっているように思えてくる。だが、その一方で、これまでは「私的領域」に属するとして規制の緩かった、喫煙や家庭内の暴力、家庭内の食事、つまり食育などの分野にかかわる規範が選択肢を狭めている。
だから、大澤真幸はつぎのように指摘している。
「現代社会において、一方では、行為に対する許容度は著しく高まりながら、他方において、同じ領域に属する行為に対する規制が急速に増大している。規範をめぐるこうした背反するベクトルは、実は、極限において一致してしまう。それが、現代における「自由の困難」として現れるのである。」(『自由の条件』)
選択肢が過度に減少すれば、自由がないように思われるのは当然だろう。だが、逆に、選択肢が過度に増えると、かえって不自由に感じるというのも事実である。これが、消極的自由というものだ。これは他者からの干渉のない状態を意味し、それが過度の選択肢を認める状態につながっているのだ。テレビCMでも流れているとおり、まったく同じ商品について、二十色も三十色も違った色の外観だけを差別化した商品のなかから、一つを選べて言われても、困ってしまうだろう。つまり、選択肢が多すぎると、かえって選択しにくくなるから、自由でないかのように感じられる。
個人について言えば、「個性」は豊かになったかにみえても、「人格」はみな透明なガラス容器程度の薄っぺらな記号、つまり、他の動物と区別するための記号でしかなくなり、「個性」の違いはほんのわずかな選択肢のなかから選ばれた部分的自由にすぎないということになっているのではないか。あるいは、他者が自分と同じガラス容器になってしまうと、その透明なガラス容器に自らの姿を映して、自らのなかに新たな他者を見出して自らの人格を形成することという、個人の主体性の確立という作業を困難にしてしまう。こうなると、人は個性といううわべだけを尊重するようになるのかもしれない。透明なガラス容器に貼られたラベル程度の個性など、ある意味でどうでもいい問題だから、「好き勝手にせよ」というところにまで至ってしまっているのかもしれない。ゆえに、大澤は、「われわれの社会は、現在、自己決定することを、好き勝手にやること自身を、規範化された義務として引き受けなくてはならない段階に達しているのだ」と主張している。
考えてみれば、インターネットに代表される高度情報化時代に入って、他者という不可解なものをデジタル信号に置き換えて、透明なガラス容器という記号に貶めることは好都合となった。コード化という同じ信号に基づく共同了解の輪のなかに加わることで、知らず知らずのうちに他者指向が染みついていくようになる。みなが他者指向を強めるのには、伝達自体が容易で高速で、複製可能な情報は便利であった。そう、高度情報化は透明なガラス容器という「画一化された記号としての人格」を量産することを可能にしたのである。
だが、それは自由の困難として現れている。他者指向は選択の自由が奪われることでもあるからだ。「好き勝手にせよ」と言われても、それはラベルにあたる個性という人格の一部についてだけであることに注意しなければならない。同じコードのなかから逸脱し、透明なガラス容器という「画一化された記号としての人格」から脱しようとすることは、基本的に許されていない。その行為は同じコードをもつ集団や共同体からの離脱を意味し、排除の対象となる。こうした脅迫観念がうすうす感じられるからこそ、操作や誘導によって透明なガラス容器という「画一化された記号としての人格」をつくりやすいとも言える。
消極的自由の困難は、実は、平等の困難と並行している。平等を自由の優位に置く通俗的な社会主義や共産主義は、ソ連崩壊で頓挫したわけだから、平等優先も挫折済みということになる。平等を実現することに躍起になると、国家といった共同体がせり出してきて、結局、積極的自由も消極的自由も奪われてしまう。だからこそ、この試みは自由への渇望によって頓挫した。」
ここで語っているのは、自己決定権なるものが本当は、社会的事実によって、他者指向となり、結局、自己による自由な決定とは言い難い状況を生み出してしまっているのではないか、ということである。
フランスの事例
今回、フランスの国民議会が採択した二つの法案のうち、一つは緩和ケアに関連しており、積極的安楽死とは無関係だ。もう一つの法案である、致死的薬物療法に関する対策案では、一定の条件下で死への幇助を認めると定義している。一人では死ねないような体調の人だけが、医師や看護師の助けを借りることができる。
恩恵を受けるためには、患者は18歳以上で、フランス国民であるか、フランスに住んでいる必要がある。また、医療専門家チームが、患者が「進行期または末期」の重篤かつ不治の病に罹患しており、耐えがたく治療不可能な痛みに苦しんでおり、自らの自由意志で致死薬を求めていることを確認する必要がある。重度の精神疾患やアルツハイマー病などの神経変性疾患の患者は対象外となる。
本人が致死的投薬の要求を開始し、熟考の後、要求を確認する。承認されれば、医師が致死薬の処方箋を交付し、自宅または老人ホームや医療施設で服用することができる。なお、現在のフランスの法律では、人工的な生命維持装置の停止などの受動的安楽死が認められており、2016年からは、苦痛を訴える末期患者に対して医師が「深く持続的な鎮静」を行うことも認められている。
ただし、「ル・モンド」は、「この法案は、カトリックの伝統が長いフランスでは、宗教指導者や多くの医療従事者の反対に直面している」と指摘している。敬虔なカトリック教徒であるフランソワ・バイル首相は5月27日、「疑問」が残るため、自分が国会議員なら棄権するとのべたという。さらに、カトリック、正教会、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教、仏教の各コミュニティを代表するフランスの宗教指導者会議(CRCF)は5月、提案された措置は高齢者や病人、障害者を圧迫しかねないとのべた。
カトリックが急増するフランス
蛇足ながら、2025年5月26日付のThe Economistの記事「フランスのあり得ない成人洗礼ブーム 世俗的な国が教会に戻る」は興味深い。社会的事実の重みを考察するうえで、避けては通れないので紹介しておきたい。
下図は、フランスの復活祭における成人の洗礼者数を示している。記事によれば、今年の復活祭には1万384人の成人が洗礼を受けたが、これは昨年より46%も急増し、2023年に比べてほぼ2倍になる。フランスの司教協議会が20年前にこのような記録を開始して以来、最高の数であった。今回の復活祭で洗礼を受けた10代の数は7404人で、2023年の2倍以上、2019年の10倍だったという。成人の洗礼の急増を報告しているのは、ヨーロッパではフランスだけではない。オーストリアとベルギーも今年大きな増加を報告したが、それぞれ240人と536人というわずかな数だった。
フランスの傾向をこれほど注目させるのは、その規模と背景である。大まかな説明として、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の永続的な影響がある。COVID-19の結果、課せられた孤独、そして「監禁」が生み出した目的の探求かもしれない、とThe Economistは指摘している。ある人はヨガを始め、またある人は神に目覚めたというわけである。フランスで洗礼式の急増が始まったのは2023年で、「監禁」が終わって2年後だった。
「在宅勤務が長すぎることも一因かもしれない」し、「人々は今、バーチャルではない共同体を求めているのかもしれない」とも書いている。2024年のフランスの復活祭に洗礼を受けた成人の4分の1近くは学生で(残りはホワイトカラーとブルーカラーの混合)、36%が18~25歳、5分の3が女性だった。「驚くべきことに、4分の1近くが非宗教的背景をもつ人々だった」とものべている。
いずれにしても、安楽死だけでなく、さまざまな事象を分析するに際して、社会的事実に注目することの重要性を肝に銘じてほしい。
フランスの復活祭での成人の洗礼者数の推移(単位:1000人)
(出所)https://www.economist.com/europe/2025/05/26/frances-improbable-adult-baptism-boom
日本の場合
日本では、初めて医師による安楽死の適法性をめぐる事件、すなわち、東海大学病院安楽死事件が1995年に横浜地裁で争われた。ほかにも、1996 年4 月27 日、京都府北桑田郡京北町の町立国保京北病院院長の山中医師(当時58 歳)が、末期胃がんで苦しんでいた男性患者(当時48 歳)に、筋弛緩剤を投与し、死亡させていた町立国保京北病院事件がある。
冲永論文は、「これまで日本においては、「自己決定権」にもとづいてみずから死を選ぶことが日本人の感情にそぐわないのではと論じられてきた」とのべている。そこで、現代の終末期医療の現場において、「自死」が尊重される基盤が根づいていないのはなぜだろうかと問っている。その理由としては、第一に、現代において「死生観が変化したこと」、第二に、「死を看取る場が病院になったこと」、そして第三に「医師だけが患者の死にたいする責任を負っていること」を挙げている。
ここでは、これ以上、この問題について踏み込むつもりはない。ただ、前述した社会的事実を前提にすると、日本には日本独特の社会的事実が自己決定権の問題にかかわっているはずだとだけ指摘しておきたい。
「比較」の重要性
わかってほしいのは、地球上に生きるすべての人々が「死」をめぐる問題に直面するとき、そこに社会的事実が深くかかわっていることである。だからこそ、「集合的な規範・思考・法則のようなもの」について、無関心であってはならない。人間の「生と死」の営みを決定づけている集合的事実に注目しなければ、今後の世界を展望することはできない。そのためには、「比較」という視角がきわめて重要であると強調しておきたい。
たとえば、先に紹介したフランス人のカトリック信者の急増の話は、日本人の宗教心への影響とどう違うのだろうか。そもそも、近年、日本人のカトリックへの洗礼が増加したり、あるいは、仏教への入信が増えたりしたのだろうか。
地政学・地経学にあっては、各国ベースの比較はもちろんだが、法律、宗教、倫理、道徳などの比較のもとに、社会的事実の差異にスポット当てることが重要となっている。そのためには、広範な知識が必要なことは言うまでもない。社会的事実を把握するためには、勉強するしかない。
【注】
(注1)カトリックであったモアが安楽死を肯定していたかどうかは別の問題である(David Albert Jones, Did Thomas More and John Donne Assisted Suicide?, 2021])。なお、拙著『ロシア革命100年の教訓』に書いたように、理想郷としてのユートピアについて論じたハンナ・アーレントの主張に興味をもった私は、このユートピアについてかなり詳しく論じたことがある。彼女はマルクスに典型的にみられる労働からの解放というユートピアを批判した。マルクスの理想社会では、「労働」が自己目的として営まれるようになり、強制的な労働からの解放が実現される。いわば、労働と政治からの二重の解放をめざすことになる。だが、アーレントはこのユートピアを強制的に実現しようとする試みが逆に全体主義を招き寄せていると考えたのである。必要なことは「労働」からの解放ではなく、「労働」と「活動」を区別し、人々の自律的な「活動」を政治のうちに取り戻すことであった。
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1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。『帝国主義アメリカの野望』によって2024年度「岡倉天心記念賞」を受賞(ほかにも、『ウクライナ3.0』などの一連の作品が高く評価されている)。 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。