
【櫻井ジャーナル】2025.06.12XML:日本の原発再稼働は核兵器開発の再開である可能性がある
国際政治日本では原子力発電所を推進しようとする動きが強まっている。東京高裁(木納敏和裁判長)は13兆3210億円の支払いを命じた東京地裁の判決を取り消し、東電旧経営陣の責任を認めなかったが、これもそうした流れの中での出来事なのだろう。
日本の核開発は1943年にふたつのグループによって始められたと言われている。ひとつは理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究、もうひとつは海軍が京都帝大と検討していたF研究だ。仁科を中心とするグループは福島県石川郡でのウラン採掘を決定、海軍は上海の闇市場で130キログラムの二酸化ウランを手に入れたという。
それに対し、ドイツは1945年の初め、日本へ1200ポンド(約540キログラム)の二酸化ウランを潜水艦(U234)で運ぼうとしたが、アメリカの軍艦に拿捕されてしまう。日本の士官が乗り込んでいたこともあり、日本へ向かう予定だと考えられている。
拿捕後、この潜水艦に乗り込んでいた日本人士官は自殺、そのウラン化合物はオーク・リッジへ運ばれたという。アドルフ・ヒトラーが最も信頼していた側近だというマルチン・ボルマンはこのUボートに対し、アメリカの東海岸へ向かい、暗号などを除く積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命じていたとされている。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)
連合国側でも原子爆弾の製造計画は存在した。アメリカの原爆製造計画は「マンハッタン計画」と呼ばれている。開発は1939年8月にアルバート・アインシュタインがアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領へ出した勧告書から始まるのだが、その後、アインシュタインは核兵器に反対するようになった。1941年6月にルーズベルト大統領がEO(行政命令)8807という大統領令を出し、OSRD(価格研究開発局)が設置される。
しかし、連合国側で最も核兵器の開発に積極的だった国はイギリスであり、1940年2月にはバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会が設立された。1941年8月にMAUD委員会のマーク・オリファントがアメリカへ派遣されてアーネスト・ローレンスと会い、アメリカの学者も原子爆弾の可能性に興味を持つようになったと言われている。日本軍が真珠湾を奇襲攻撃する2カ月前の1941年10月、ルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まった。
マンハッタン計画を統括していた陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
1945年4月12日にルーズベルト大統領は急死、ハリー・トルーマン副大統領が昇格した。1945年7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功。トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可する。そして26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型が、またその3日後には長崎へプルトニウム型が投下されている。
第2次世界大戦後、原子力政策を推進したのは中曽根康弘にほかならない。中曽根が権力の階段を上り始めるのはCIA系の疑似宗教団体、MRA(道徳再武装運動)に関わるようになってから。その団体には岸信介や三井本家の弟、三井高維(みついたかすみ)が参加していた。中曽根はMRAでヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合ってもいる。(グレン・デイビス、ジョン・G・ロバーツ著、森山尚美訳『軍隊なき占領』新潮社、1996年)
1953年に中曽根は「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに参加。このセミナーの責任者はキッシンジャーで、スポンサーにはロックフェラー財団をはじめ、フォード財団、「中東の友」といった団体が名を連ねていた。この「中東の友」はCIAが隠れ蓑に使っていた団体だと言われている。
中曽根をはじめとする34議員は1954年3月、原子力予算(2億3500万円)を国会に提出、修正を経て予算案は4月に可決された。ドワイト・アイゼンハワー米大統領が1953年12月に国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言を受けてのことだ。
1954年12月に藤岡由夫を団長とする原子力海外調査団が欧米の原子力事情を調査するために出発した。1955年4月には通産省工業技術院に原子力課が新設され、経団連は「原子力平和利用懇談会」を発足させ、6月には日米原子力協定が仮調印、12月に成立した。1955年12月に中曽根は原子力基本法を成立させている。1956年1月には原子力委員会が設置され、初代委員長には読売新聞の社主だった正力松太郎が就いた。
こうした核開発は「平和利用」だとされたが、この段階から核兵器を開発しようという動くはあった。1957年5月には総理大臣に就任して間もない岸信介が参議院で、「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、1959年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張。岸の弟、佐藤栄作が総理大臣だった1964年になると、日本政府内で核武装への道を模索する動きが具体的に出始めた。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)
佐藤政権で核武装を目指す活動を始めたグループは10年から15年の間で核武装できると想定し、具体的な調査を開始。その中心は内閣調査室の主幹だった志垣民郎だった。原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになり、志垣らは高純度のプルトニウムを年間100キログラム余りを作れると見積もった。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)
ところで、内閣調査室は1952年4月に創設されている。初代の室長に就任した人物は国警本部警備第1課長だった村井順。後に綜合警備保障を創設する人物だ。村井は1953年9月から3カ月の予定で国外に出ているのだが、その名目はスイスで開かれるMRA大会への出席。この人物もCIAにつながっているということだろう。
村井が国外へ出た本当の理由は、当時西ドイツのボンに滞在していたアレン・ダレスCIA長官に会い、新情報機関に関する助言を得ることにあったとされているが、ボン空港に到着すると間もなく村井はイギリスの情報機関員と思われる人物につきまとわれ、ロンドンの税関では腹巻きの中に隠していた闇ドルを発見された。日本の核兵器開発にはCIAの関係しているように見えるが、これは秘密工作部門。分析部門は日本の核兵器開発を警戒している。
1980年代後半から日本の電力業界がアメリカの一部勢力と連携して核兵器の開発に乗り出したことは本ブログでもすでに書いた通り。それ以降、日本における核兵器開発では電力産業が重要な役割を演じているわけで、その電力産業が主張する原発再稼働の目的を単なる発電だと考えるべきではないだろう。
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のテーマは「 日本の原発再稼働は核兵器開発の再開である可能性がある 」(2025.06.12ML)
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