第33回 私の夢を壊さないで!法律学を学ぶ女子大生の怒り
メディア批評&事件検証この基準を用意したのは、2002年の大阪母子殺人事件の最高裁判決であり、本件の判決文でもその判例に触れています。
同事件判決の概要は、状況証拠はそろっており、無罪証拠もないことから被告人が犯人である蓋然性は高いが、確かに被告人が犯人でなければ合理的に説明できない事実関係があるとまではいえない。
しかし、被告人の自白は信用に値し、証拠能力が十分にあると評価できるから、被告人を本件殺人事件の犯人としての立証は自白を含めて成立しているのであり、被告人は有罪である、ということでした。
この判決文を読んでみて、つまり何が言いたいのかよくわかりませんでした。被告人が犯人でなければ合理的に説明できない事実関係、以降仮に有罪肯定事実と呼びますが、それがないけれど自白は信用できるので有罪肯定事実の基準はそれを理由に本件では無視する、という風に私は読めてしまいました。
しかし判例に法的拘束力はないので、本件裁判官が有罪肯定事実の基準に従う必要はありません。あくまでも有罪とした説明として援用しているだけなので、判決は説明の最後のフローの、「しかし自白は信用できる」という主張が最終的な有罪判決の理由であると解することができます。
では裁判所が自白を任意性のあるものとして信用した根拠は何なのか。その根拠を判決文から読み解いて見たいと思います。以下、判決文の引用です。
本件自白供述の内容自体は、犯人でなければ語ることのできない具体性、迫真性を有しており、取調官の誘導やそれに基づく被告人の想像の産物としては説明が困難な具体的事実について述べられた部分が多々含まれているほか、一見すると不合理ではないかと思われる部分も含めて、客観的証拠を詳細に検討すれば、その内容が事実と矛盾する点はなく、むしろよく整合していると評価することができるものである。
また、本件自白供述に至るまでの変遷の経緯や供述態度については、被告人の取調べ時の言動から看取される内心における葛藤の対象、すなわち、重い刑罰を受けることや家族に迷惑をかけることへの不安と、被告人が予測する捜査機関の手元にある被告人と事件を結びつける証拠との関係で捉えれば、起訴後の主張の変遷も含め、処罰を免れる術がないかを逡巡する中でのものとして、十分に理解することができる。
被告人が本件自白供述をするに至った動機についても、本件殺人で逮捕され、阿部(健一)検察官から被告人の自白は必要ないと言われるに至って、第三者弁解が全く信用されておらず、このまま同じ弁解を続けていても起訴されて有罪になるものと考え、そうであるならばできるだけ早く自白供述をして、受ける刑罰を少しでも軽くしようという意図に基づくものであるとすれば、本件自白供述をする前後の被告人の言動とも整合していて合理的といえる。
そして、本件自白供述には、被害者の遺体に認められた顔面や頸部の傷害結果が発生した経緯や、わいせつ行為後、被告人方を出発するまでの数時間の行動など、十分な説明がされていない部分、解放するために連れ出したとする被害者が全裸のままであったことなど、不合理と思われる部分が散見されることも、被告人が上記のような動機に基づき本件自白供述をしたために、取調官から追及されなかった不利益な事実については敢えて供述しなかったものと考えれば、十分に首肯することができるといえる。
このようなことからすれば、被告人が認めざるを得ないと考えて供述した本件自白供述における本件殺人の一連の経過や殺害行為の態様、場所、時間等、事件の根幹部分については、十分に信用できるというべきである(宇都宮地裁平成28年4月8日今市事件判決)。
本件判決文から読み取れることは、事実と反する部分も供述にはあるが、そのほかの供述は迫真的でいかにも犯人らしいので、その部分はおそらく自白の動機は量刑の減軽のみである被告人が追及されなかったので適当に嘘をついただけであり、特に問題なかろうということなのでしょう。
裁判官になると、こんな人権侵害の横暴が許されるのかと呆然としてしまいました。これのどこが説明になっているのか理解できません。合理的な疑いを差し挟めない程度の立証とはいったい何なのでしょうか。
司法試験を突破した偉大な裁判官が、このような主観と先入観に染まった言い訳のような判決文を書いてひとりの人権を制限する刑事罰を下すことが許されるのならば、今私が学んでいる法律学はなんのためにあるのでしょうか。
当然弁護人は、自白について強要されたものだったと主張しています。それに対する裁判所の判断とその理由の概要は以下の通りです。
取調官は、そんなことはしていないと証言しているし、取り調べの前には被告人の権利を侵害しないようにとしっかり指導を受けている。また、録音録画がされていないところで脅迫めいたことをされたと被告人は供述しているが、その直後の録画の取調官の態度を見ると、直前までそんなことをしていたとは到底考え難いから、被告人の供述は信用に値しない。
被告人の証言にも、取調官の証言にも、録音録画がなぜかされていない以上どちらにも等しく証拠能力はありません。しかし裁判所は、取調官の証言は無条件に信じ、被告人の証言は一蹴しています。
判決が確定していないうちは被告人を無罪と推定して扱わなければならないという推定無罪の原則がありますが、この判決文を読む限り宇都宮地裁の裁判官はそれを無視しているか、もしくはこの不当な扱いの差に無自覚かのいずれかであるように感じます。
しかしそれをとがめる人は誰もいません。なぜなら、この間違いを犯しているのはアンパイアである裁判所だからです。控訴をすればいいという話でもありません。被告人が主張する通り無実であった場合は、逮捕からそれまでの拘束はすべて全く不当であり、はなはだしい人権侵害になります。裁判所とて間違えることはあります。
しかし、このように少し注意をすれば回避できる先入観による間違いは、絶対にしてはいけないはずです。それが故意なら、なおさらです。故意ではないと思いたいです。裁判所が、警察が、検察が、故意に無実の人を貶め、人権を侵害している。そんなことがこの国で起こっているなんて、信じたくないです。
なぜ、未熟な法学初学者である私でもわかるような明らかな論理の破綻を裁判所が犯すのか、私には理解できません。被告人に不利な方向に、不当な説明をしている、それだけはまぎれもない真実です。
この寄稿の前半で、私は自分なりにできうる限り勝又被告擁護派に対して批判的な立場で事実関係を整理しました。その結果、勝又被告が犯人であるという直接証拠は一つもないうえ、供述内容と違う事実が出ていることが整理されました。これらが正しく裁判で議論されれば、勝又被告は無罪となるのは社会通念上自明のことだと思います。少なくとも、法学初学者である私は当然そう思いました。
しかし、検察が法廷に提出した証拠はこれらの事実がほとんど覆い隠されたもので、わかっていることはたくさんあるのにメインの証拠として採用されたのは自白の映像でした。裁判所も、その理由について質問していません。勝又被告を無理やり有罪にしようとしていなければとらない行動です。
すると、警察、検察、裁判所は信用できないということになります。そうなると勝又被告や本田元教授の警察に不利な証言は信用できる蓋然性がとても高いということになります。
もしそうであるなら、違法捜査です。未熟な法学初学者である私でさえ、論理をひとつずつ追うとこのような結果にたどりつきます。明らかにおかしい裁判だからです。にもかかわらず、この判決は現在控訴審で無期懲役の自判が下され、勝又さんは今も服役しています。このような不正が許されているということです。
私は現在、公務員を目指しています。公務員になるには当然試験があり、より高次の、例えば法律により密接にかかわる仕事であればあるほど、試験内容も難しくなっていきます。毎回の大学の授業を漏らさず聞き、予習・復習をして、試験前にはこもって勉強をして、やっと入れる法科大学院。その先にある、さらに難関の司法試験。それを経て入る法曹の世界の、現実はこうなのでしょうか。すべてを操作し、支配することが許されているのが、公権力なのでしょうか。
今市事件の捜査・裁判は、不当です。故意に勝又さんを貶めています。私ができることは、今こうして言論の場に寄稿することくらいです。勝又さんの人権を正統に保護する正しい判決を、願っています。
梶山は思う。誰かに強い意志があれば、そこに人は集まる。人が集まれば、それは大きな力になる。この大学生の叫びに一言。あっぱれ!!目を覚ませ、裁判官。
連載「データの隠ぺい、映像に魂を奪われた法廷の人々」(毎週月曜、金曜日掲載)
https://isfweb.org/series/【連載】今市事件/
(梶山天)
※ご支援のお願いのチラシ作成しました。ダウンロードはこちらまで。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。