
「沖縄通信」第181号(2025年6月)
琉球・沖縄通信安保・基地問題「沖縄通信」第181号(2025年6月)
西浜 楢和
fwnh9861@nifty.com
トランプ時代の東アジア、沖縄、「台湾有事」(岡本 厚講演録)
大阪教区沖縄交流・連帯特別委員会(森口あおい委員長)は、2010年より「慰霊の日に思いを馳せ、沖縄とつらなる集い」を毎年開催してきた(2021年はコロナのため中止となったので、今年が第15回となる)。
今年の「集い」は6月15日東梅田教会で、元・岩波書店社長の岡本厚さんを講師に開催。70名になろうとする参加者があった。椅子が足らなくなり追加して運び込む盛況だった。感銘深い講演に一同集中して聞き入った。
以下、講演録をレポートする。文責は筆者の西浜にあります。
トランプ時代の東アジア、沖縄、「台湾有事」
今年は戦後80年、沖縄戦80年でもある。80年前の今日、6月15日、中部での激戦に敗れ、首里の司令部壕を放棄した日本軍は南部に移動、そこにはすでに多くの住民が避難していたし、軍といれば安心と考えて軍を追った住民もいた。米軍の圧倒的な攻撃に追われ、莫大な犠牲を出しながら、最後の地・摩文仁に向けて絶望的な歩みを続けていたのが80年前の今日であっただろう。
(
1) 沖縄戦をめぐる最近の動き二つ
はじめに、最近起きた二つの出来事を見るところから始めたい。
第一は、5月3日の那覇市での講演で、「ひめゆりの塔」の展示説明を「歴史の書き換え」などとした自民党の西田昌司参議院議員の発言である。彼は「日本軍がどんどん入ってきてひめゆり隊が死に、米国が入ってきて、沖縄が解放されたという文脈で書いている」と言ったというのだが、ひめゆり平和祈念資料館・館長は「過去にも
現在にも、西田氏の言うような説
講演する岡本 厚さん(その1)
明はしていない」と否定、西田氏は「数十年前に見た記憶がある」という極めて曖昧なうろ覚えでの発言であったことを認め、さらに傷口を広げた。地元住民も、沖縄県議会も、玉城デニー県知事もただちに反発、批判。5月20日、石破首相はデニー知事に謝罪、自民党の森山幹事長も5月29日、沖縄県議会の抗議文を受け取り「県民の苦労を軽んじることはない」と述べた。6月4日には、西田氏の地元の京都市議会でも抗議の決議が採択されるなど、怒りと批判はなお収まってはいない。
西田氏は「TPOを欠いた」として沖縄県民へ「おわび」はしたものの、「事実は事実」などと居直り続けている。事実も何も根拠も示せないいい加減な記憶をもとにしたでたらめな発言でしかないのだが、彼が言いたかったのは、ひめゆりの学徒も日本軍とともに戦って亡くなったのだ、ということらしい。
第二は、陸上自衛隊第15旅団(那覇)のHPに、沖縄戦の最高司令官であった牛島満の辞世の句が掲載された問題である。2018年から掲載され、昨年6月地元紙の批判を受けて削除されたが、今年1月、再掲載されている。
秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 蘇らなむ
国会で追及された中谷防衛大臣は「さまざまな意見があることは承知しているが、平和を願っているという意味の印象が強い」と述べ、掲載を擁護した。
牛島司令官は沖縄戦を指揮し、1945年6月23日(22日説あり)に自決、こ
の日をもって日本軍の組織的な戦闘が終わったとされている。日本本土の防衛のため、沖縄の人びとを動員し、戦闘に巻き込み、おびただしい命を奪った最高責任者であり、何より自決の前、6月18日、最後の指令「今後は上級者の指揮のもと、死ぬまで戦闘を止めるな。悠久の大義に生きよ」(注1)と全軍に徹底抗戦を指示した人物である。最高指揮官がこう言い残して死んでしまえば、残った将兵たちは降伏することは出来ず、実際沖縄では本土が降伏した8月15日を過ぎても戦闘が続き、犠牲も増え続けた。兵士だけではなく民間人にも降伏を許さず、「集団自決(強制集団死)」を起こさせ、無益な死を強制し続けたのである。徹頭徹尾大日本帝国憲法下の軍人であり皇国史観の持ち主であり、現在の日本国憲法の平和主義とはいかなる接点もない。これを「平和を願っている」と読む感覚が分らない。旧日本軍と自衛隊は継続している、あるいは継続させようとしていることを示すのではないか(しかも「皇国(みくに)」を勝手に「御国(みくに)」に変えている)。
さらに、5月15日付琉球新報は、「陸自、32軍は『偉大な貢献』-24年度 幹部候補生の学習資料に」という記事を一面トップに掲載した。同社が情報公開で入手した文書で「学習資料 沖縄戦史 令和6年度」。「序」では「沖縄作戦は本土決戦の準備を整える時間の余裕を得るために、第32軍が行った持久作戦」とし、沖縄や住民を守るためではなかったことを明記。「孤軍奮闘3ヶ月にわたる強靱な持久戦を遂行し、米軍を拘束するとともに多大の出血を強要して、本土決戦準備のために偉大な貢献をなした」としている。「捨て石」は認めているわけだ。牛島、長の自決については「従容として見事な自刃を遂げられた」としているという。どういう精神構造なのか。
この二つの動きについて、沖縄では大きく問題として取り上げられたにもかかわらず、全国的な問題として取り上げられたとはいえず、問題の本質も伝わっていないような気がする。
つまり沖縄戦は未だ「遠い」ところのローカルな「戦争」の話であり、国民的な教訓になっていないということである。
(2)「沖縄戦」とは何であったか
西田議員が言いたかったのは、日本軍は「沖縄を守るために」戦い、住民たちも一心に協力し、最後まで戦ったが刀折れ矢尽き、敗北した。それをこそ顕彰すべきで、米軍の方が解放したなどという見方は誤っているということではないか。
もちろん米軍が解放したなどということはない。占領した後、どれほどの理不尽を沖縄の人びとに押しつけ、女性への性暴力を繰り返してきたか。
沖縄戦の後の朝鮮半島で、ベトナムで、アフガンで、イラクで、米軍はいかに殺戮を繰り返してきたかをみれば、解放者であるはずはない。
ただ次のような事実はある。米軍上陸直後の読谷で、チビチリガマに逃げ込んだ住民は自決し、シムクガマに逃げ込んだ住民1,000人は助かった。ハワイから帰っていた住民の一人が米軍と話し、住民を説得して壕から出したからだ。
いくつも例は引けるが、もっとも新しい『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(林博史著、集英社新書)から引こう。「3月26日に慶留間島に上陸した米軍部隊は、その日の日誌に『住民たちは、殺されないことがわかると、人間的な扱いに好意的な反応を示し、協力的になってきている』」と記している。
現地部隊の上官への報告であるから、割り引いて考える必要がある。しかし基本的な構造は、様々な証言や資料からこの通りであったことを示している。それまでの日本軍の態度や行動があまりに非道すぎたのである。「敵軍より友軍の方が怖かった」とは、沖縄戦の住民の証言で必ずのように聞く言葉である。
「鉄の暴風」が吹きすさぶ中、逃げ惑う住民を、日本軍兵士は壕から追い出し、食料や水を奪い、泣く子どもを殺させ、女性、子ども、老人たちを「自決」に追い込んだ。米軍に降伏したり捕虜になると惨殺されると脅し、住民が降伏することを妨げただけでなく、白旗を掲げようとした住民を後ろから撃った。方言を使えばスパイとして処刑した。このような日本軍の行動は一部の敗残の兵士が血迷って行ったのではない。個々の人間の問題ではなく、日本軍の組織的な問題、ないしは当時の日本全体の構造の問題と考えなければならない。
住民だけがこのように扱われたのではない。兵士もまた命は軽く、使い捨てにされた。降伏は許されず、重症を負って動けなくなれば見捨てられ、青酸カリ入りの水や手榴弾を渡され自決が強要された。命と人権を軽視された兵士が住民たちの命と人権を軽視したのである。そこには沖縄に対する差別、蔑視も当然含まれていたであろう。
西田議員の発言は、戦後しばらく日本にもあった「軍国美談」「愛国美談」そのものである。天皇や指導部の戦争責任を問わず、教訓・反省も語らず、再び戦争になれば民は軍に従い、愛国すべきという価値観であろう。こういう発想は決して珍しいものではない。岩波書店と作家の大江健三郎氏が被告となった「沖縄『集団自決』裁判」(大江・岩波裁判、2005~2011)において、原告の部隊長らは住民に軍は「自決」を命じていない、住民自らが軍の足手まといにならないために命を絶ったのだと主張した。作家の曾野綾子氏はそれを「美しい心で」と言った。
実は沖縄でも、1960年代、70年代までは、こうした「軍国美談」が優勢であった。その方が本土の同情も引くことができた。しかし、沖縄の研究者たちは住民たちからの聞き取りを熱心に重ねて、戦後30年近くが経って、語るどころか思い出すのも辛いという経験をようやく語り始めた。何が起きていたか、
沖縄の研究者、ジャーナリストたちが執念を燃やして掘り起こし、「なぜ家族は友人は同僚はあのように無残に死んでいったか」後悔に身もだえるようにして、自らを問い、教訓を引き出していったのである。
西田発言にしろ、陸自HPへの牛島辞世の句掲載にしろ、こうした沖縄の人びとの戦後の苦しみに満ちた営為とそこからの教訓を軽視し、あるいは意図的に無視して、かつての皇国史観に基づく「軍国美談」「愛国美談」に戻ろうとするかに見える。
西田議員が右派を自認するのなら、太田実海軍少将1945年6月6日の海軍次官への決別電報をよくお読みになればよい。有名な「沖縄県民斯く戦へり 沖縄県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」(注2)電報だ。そして彼は
講演する岡本 厚さん(その2)
13日海軍壕で自決した。
もちろんここにあるのは、軍国主義の価値観である。しかし右翼や軍国主義者はこの言葉をもっと受け止めたらどうかと思う。後世、日本は沖縄をどう扱ったのか。「天皇メッセージ」により、1952年、沖縄を米軍施政権下に切り離し、その後「銃剣とブルドーザー」で沖縄を軍事植民地とし、人権も平和もない状態に置いた。それにたまりかねた沖縄の民衆運動(復帰運動)によって1972年、本土に「復帰」したが、米軍基地はさらに強化され、問答無用で県民の圧倒的な反対の声を押し切って辺野古に新基地建設を行っている。米軍の犯罪や事故も放置したままだ。これが「特別のご高配」なのであろうか。恥ずかしくないのだろうか。
そしてもう一つ、美談は決して美談ではなかったことを指摘しておきたい。つまり、自決を命じた部隊長(慶良間列島)3人は3人とも自分たちは自決せず、戦後も生き延びたのだ。渡嘉敷島の「集団自決」の生き残りの金城重明さんは、子どもだったが、島の人びとや家族が「自決」した後、その場から抜け出して米軍に切り込みをかけようとしたが、そこで生き残った兵士らに出会い呆然としたと後に証言している。すでに兵士は切り込みに行って死んでいると思っていたからだ。
部隊長とはいえ、20歳前後の若者。戦時におかれ、発した命令を問題にするのは酷かもしれない。しかしそれを「正しかった」とか「俺は命じていない」などと居直るのはどうかと思う。「軍国美談」は彼らにとってとても都合のいい物語なのだ。
また戦争が迫る中、1944年の「10・10空襲」の後、沖縄から多くの本土出身者が逃げている。知事も県官房長、内政部長、衛生部長、水産課長、工業指導所長、薬剤主任、那覇市長なども。「出張」とか「会議」とか言って出かけて戻ってこない。大岡昇平『レイテ戦記』でも同じ現象が描かれている。勇ましいことを言って煽っている人間は最初に逃げる。必死に戦うのは下の者だ。これを反省しなければ、何かの時に必ず繰り返すだろう。
沖縄戦(1945・3~6)の特質を一言で言えば、
第一は、初めから本土防衛の「捨て石」とされ、連合軍の本土上陸を一日でも遅らせるための作戦であった。勝つことは想定されていなかった(軍人は命令に従う存在なのでやむを得ないかもしれないが、住民を巻き込み、初めから無駄だと知っていた戦いに巻き込んだ)。
第二は、住民は保護の対象ではなく、軍に動員され(防衛隊、鉄血勤皇隊、ひめゆり部隊などの学徒隊)「戦力化」、協力させられ(飛行場建設、壕の建設、弾丸運び、伝令など)、役に立たない者は戦場に捨てられ、自決を強いた。圧倒的な力を持っていた軍によって「軍官民共生共死の一体化」が強調され、住民は逃げ場もなく、戦争に駆り立てられ巻き込まれた。軍人の死者より住民の死者が多かった。20万人の死者のうち、沖縄県出身軍人軍属2万8,000人、民間人9万4,000人、他府県兵士6万5,000人。米軍兵士1万2,000人である(総務省)。
第三は、牛島司令官や長参謀長の自決により、戦闘が終わらなくなったこと。あの段階で降伏を許さないということは、沖縄の人びとは滅びてもよいということだ。無責任の極みである。
本土の人間として考えるべきことは、二度と沖縄を「捨て石」にしないことではないか。そのことを沖縄の人間よりも重い責任感を持って、真剣に捉え直すことではないか。地理的なことは理由にならない。そこに私たちと同じ人間が生き、喜びも悲しみも抱えつつ、日々暮らしている。豊かな文化と歴史を持っている。それを、自分たちが生き残るために「犠牲」になって「やむを得ない」とか「必然だ」などというのは、戦前の「捨て石」作戦の本質と変わるところがない。
勇ましい「軍国美談」に酔っているのは、再び沖縄の民衆を戦争に動員するという下心があるのではないのか。それがいわゆる「台湾有事」だ。「有事」という曖昧な表現であるが、端的に言えば、戦争のことだ。大陸(中国)が台湾に軍事的に侵攻することが想定されていて、それに備えて今、自衛隊の南西諸島シフトということがなされている。米軍が中国軍に反撃すれば、中国もそれに反撃する。沖縄は最も台湾に近いから、まさに「戦場」になりかねない。
しかし、台湾と中国の問題はいわば民族統一の問題であり、沖縄の人間に何の関係もない。日本の自衛隊にも防衛にも関係がない。それを巻き込むトリガー(引き金)が「集団的自衛権」の行使である。安倍政権の「置き土産」だ。
もし「有事」が起きた時、最初に逃げるような人間がいま煽っている人間だ。
(3)戦後、沖縄の人びとがつかみ取った教訓
沖縄の人びとは二度とそのようなことがないように、必死に戦っている。抗議の声を挙げ続けている。
沖縄戦の「教訓」とは何か。
いかなる大義も、命に勝る価値はない。ヌチドゥタカラ(命どぅ宝)は、ただ「命が大切」というような一般的な標語ではない。決してどんなことがあっても戦争(いくさ)はしないという決意、覚悟の言葉だ。その背景にはいかなる大義を振りかざそうと、煽ろうと、戦争してまで守る価値のあることなどないということだ。
戦争は必ず大義や正義を振りかざす。人びとに命を投げ出させるには大義、正義がなければならない。いわば戦争は正義と正義、大義と大義のぶつかり合い。日本もまたかつて大義を掲げた。
それより自分たちの命が大事といわれれば戦争は成り立たない。忠誠心の否定、ナショナリズムの否定、正義大義の否定である。
辺野古に座り込む友人から聞いた話だが、辺野古で座り込んでいると、本土の観光客や右翼が来て、「中国が攻めてきたらどうするんだ」と言ってくる。彼はすかさず「私たちはすぐに白旗挙げるよ」と答えるという。決して戦争はしない、と。
平和は日常である。散文的であり、日々日常のくり返し。ある意味退屈でもある。戦争は詩的であり、英雄的でもあり、激情を呼び起こし、心を躍らせることが出来る。しかし戦後沖縄の人びとは瓦礫の中から生活を始め、様々な経験(苦しい事も楽しいことも)をしてきて、その上でどんなことがあっても「生きていたほうがよかった」というのが実感なのではないか。大義正義は相対的であり、いつでも変わる(実際、当時の大義を今、真面目に継承している人はいない)。そんなものを信じてはならないというメッセージだ。
南部摩文仁にある「平和の礎(いしじ)」には、24万人の名前が沖縄人も本土日本人も米国人も朝鮮人も台湾人もイギリス人も刻まれている。かつての「敵味方」を問わず、「軍人民間人」を問わず、同じ配列で同じ字の大きさで刻んでいる。軍の司令官も生まれたばかりの赤ん坊も同じように刻まれている。ここにある考え方は戦争の秩序の否定だ。命として平等という考えだ。
ほかの供養塔などは「大義のもと、勇敢に戦った」ことを称賛するものが多い。他国にこうした記念碑は例がないのではないか。
沖縄では毎年、この刻まれた名前を読み上げる運動が行われている。順番に何十人かずつ、インターネットで読み上げる。名前と年齢。死者を「数」ではなく、「名前」を持った人間として受け止め記憶しようとする。それが、人が人を送り、埋葬することではないか(いつかガザの子どもたちを名前で読み上げていく日が来ることを祈りたい)。
いわゆる「台湾有事」に、一体どんな大義があるのか。大陸には近代化200年の民族統一という大義があるかもしれない。中国は19世紀以降西欧列強から侵略を受け、革命と内戦の凄惨な100年を経験した。辛亥革命で清朝を倒し中
会 場 風 景
華民国として近代国家をつくった国民党と、共産主義を掲げて中華人民共和国をつくった共産党は時に合作し時に戦争して、1947年以降今の台湾と大陸の姿になった。大陸がいくつもの混乱を克服して経済的にも軍事的にも大きくなり、台湾が国民党の軍事独裁を民主化して、かつてより変容したけれども基本的な構図は変わらない。
香港を99年の租借から取り戻したのと同じように、大陸は台湾を回収するのが民族的な責務と考えており、それへの外国の介入はかつての列強からの妨害と見えているだろう。日本はその帝国主義の時代、日清戦争で台湾を奪って植民地化し、大陸に攻め込んで多くの人びとを殺し、財産を奪い文化を破壊した。
1972年の日中共同声明で、日本は「一つの中国」という中国の主張を尊重すると宣言して国交を正常化した。それは日中両国関係の基礎である。この基礎の上に両国関係(経済、政治、文化)は成り立っている。米国も上海コミュニケなどで、基本は「一つの中国」を認めて国交を正常化した。中国は「ソ連の脅威」に怯え、かつての敵国である米国、日本と手を結んだ。
1978年の日中平和友好条約では、領土・主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉を約束し、紛争の平和的解決、武力による威嚇、行使を禁じている。
少なくても「台湾有事」に日本は介入する大義はない。歴史から言っても、協定から言っても、中国と戦いを交えることはありえない。
中国は1949年の建国以来、一貫して台湾統一を主張し、1979年米朝正常化で平和統一が主軸になった。「軍事力の行使をしないとは明言しない」の前に「平和的な統一」が基本であることを強調している。また中国は1980年代初めの「中越戦争」以来大きな戦争はしていない。米国は戦争ばかり。これが経済的な勃興と衰退の理由である。
中国を弱らせるには戦争に引き込むことが一番だが、ただしウクライナ戦争を見ても、米国は直接には戦わず、武器の支援などで利益を得る立場になるだろうと私は思う。
(4)「戦争」とは何か
ここで「戦争」とは何か。なぜ人は「戦争」をするのかを考えてみたい。現代の戦争の特質を示すことにもなるからだ。
戦争は人間のある限りなくならないとか、人間の本質によるとかいろいろな説がある。諸々の定義はあるが、私には「戦争論」の古典中の古典、カール・フォン・クラウゼヴィッツの「戦争論」(1832―34)の次のような定義が一番しっくりくる。
「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」(岩波文庫 上 14ページ)。「およそ戦争は拡大された決闘にほかならない。
…要するに決闘者は、いずれも物理的な力を行使して我が方の意志を相手に強要しようとするのである。…してみると戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」(同上 28~29ページ)。
これであれば、近代国家間の総力戦だけでなく、民族間の戦争や宗教戦争、利害をめぐる戦争までを定義できる。
戦争は人間の集団的行為だが、それを決闘者という個人の行為の延長と考えるところに卓越を感じる。ロシアはウクライナに対して、安全保障的な脅威を感じ、それを取り除き、かつクリミア、ドンバス地方のロシア系住民の保護をその侵攻の目的と言っている。イスラエルはパレスチナ人の追放を目的とし、ハマスは逆にイスラエル国家の覆滅とユダヤ人の追放を目的としている。
近代国家同士の戦争の場合、相手国の憲法を変えること(体制を変えて脅威でなくすること)ということも言われている(長谷部恭男氏など)。
ここで考えるべきは、1945年8月6日以降、かつてのような戦争はありうるのかということだ。これは核兵器というそれまでとは比べものにならないほどの破壊力をもった兵器が出現したということだ。つまり「我が方の意志を相手に強要する」という「相手」が消滅しかねない事態になったのである。
まずは米国がその兵器を手にした。いわば世界に自分たちの意志を強要できる立場になった。それを恐れたソ連が続いて核を持ち、米国に全面的に覇権を握られることを警戒したイギリス、フランスが核を持ち、米ソに対立した中国も核を持った。
核兵器は戦争の概念を大きく変えたといえる。ある意味で戦争は不可能になった。戦争でお互いが無限の破壊力を行使するなら、人類そのものが消えてしまう。
1945年以降も戦争はおびただしく起きたが、核保有国同士の戦争は起きなかった。戦争は管理され、戦域も兵器もコントロールされた。ほとんどは植民地から解放された国々の民族解放闘争への大国の介入の戦争であり、米ソの代理戦争であった。
戦後日本の平和論に「非武装中立」というスローガンがあった。これは核兵器のような破壊力をもった時代に、「少しばかりの」武装は無意味という核時代のリアリズムから生まれた思想であった。当時は3発の爆弾で日本は壊滅すると言われていた。戦争の不可能性を踏まえた議論であったのである。
1945年以降、二つの点でそれ以前とは違う。
第一は、先ほど述べたように「核兵器」の登場。
第二は、国際連合(世界190カ国が加盟する議論の場、対話の場)の存在。北朝鮮も入っているし、ロシアもウクライナも入っている。
1945年以降、希望もあったが限界もあった。しかしそれ以前とは違う世界に私たちは生きている。それ以前とアナロジーすることに意味はないと思う。ロシアの侵攻を満州事変と同じと言ってみたり、ロシアの侵攻を放置することはかつてのミュンヘン会談と同じなどと言うような言説をよく聞くが、意味のある解説とは思えない。
米ソの核兵器が対峙した冷戦時代、様々な核戦略が模索された。大量報復戦略とか、ニュールック戦略とか。相手の意志をくじくため、双方とも核兵器やその使用のための支援(通信とか相手の標的の探索とか)の能力を必死で高め、戦略を練ってきた。
結局、米ソはお互いに疲弊し冷戦を終わらせ、対立の時代が終わったかのようだった。しかし人間は度し難い。前へ進もうとして後ろに引きずり戻される。どうしても自分の意志を強要したい人間がいるということだ。「資本主義と自由民主主義が全世界に共通の価値であるべきである、そのためには謀略や武力の行使も辞さない」という人びと(いわゆるネオコン)が一時、力を振るった。
意志の強要ということでは、それは姿を変えた戦争の政策であった。エリツィンの後を継いだプーチンは最初の頃、欧米にも融和的だった。2000年始めはG8の一員であり、例えば印パの核戦争危機には、アーミテージ元国務副長官と手を携えて両国をシャトル外交して、核戦争を防ぐ努力をした。NATOに加わりたいとさえ言った。それを阻みロシアを孤立させ、弱体化させようとしてきたのは誰だったか。2008年頃からプーチンは欧米に決定的な不信感を抱くようになった。2014年ウクライナのマイダン革命は背後に米国がいる欧米派のクーデタと見えた。この頃から完全に軍事的な行動に踏み出した。クリミアの占領である。この行動でロシアはG8からも追放された。
ウクライナ戦争はロシアの弱体化とヨーロッパの弱体化が同時に成し遂げられる、ネオコンにとってこれほどおいしい話はなかったのではないか。ロシアの資源とヨーロッパの産業の結合は、米国にとって悪夢であった。それを離間し、しかも武器を売って儲けることも出来たのだから。
(5)第2次トランプ政権の「停戦」政策
その意味で、トランプの言っていることが100%間違っているわけではない。第1次政権で、北朝鮮の金正恩氏と直接対話しディールを成し遂げようとしたことは間違っていない。妨害したのはボルトンなどネオコン派だ。第2次政権にはネオコンはいない。
トランプ政権が発足してから約半年、この間、移民排除や名門大学への介入、相互関税とその延期などなど米国内外を大きく動揺させ、世界を引っかき回してきた。
そのやり方は次第に理解されるようになった。TACO(トランプ・オルウェイズ・チキン・アウト)“トランプはいつも最後はビビって止める”。相互関税の公表で株、通貨、債券が暴落すると直ちに延期した。中国との交渉でもたちまち115%引き下げに合意し、レアアースの規制について取引しようとしている。
初めはトランプが何を言うか相手が不安になるように仕向け、その後その不安を抱えた相手と取引を始め、自国に有利な結果を得る。そのたびに相手も世界も大混乱に陥る。
しかし彼の世界観はせいぜい1980年代までであり、歴史の教訓を何も学ばず、予想された結果に振り回されている。第1次トランプ政権の言動から学び、身構え、腰を落として準備してきた中国の習近平政権とは真逆の対応のようだ。学問は過去の経験、失敗に学ぶことである。その学問を軽視し侮蔑している彼に長期的な戦略があるとは思えない。
バイデン政権で起きた二つの戦争(ウクライナ戦争とガザ戦争)につい
てはどうか。一日で停戦に持ち込めると大口を叩いていたが、いずれもうまく行っていない。ウクライナでは直接の協議まで始まったが、ウクライナによるロシア全土への基地へのドローン攻撃で交渉はしばらく頓挫するだろう。イスラエルはガザでの停戦がしばらく続いたが、それは長く続かずガザは瀕死の状態に追い詰められている。その上レバノン、シリア、イエメンでの戦闘に加え、ついにイランの核施設やエネルギー施設などを攻撃しレッドラインを超えた。イランは反撃を始めており大戦争になる可能性がある。
トランプは流血を嫌い平和を志向していると言われてきた。それは全く根も葉もないことではないと思う。ノーベル平和賞がほしいのも事実だろう。
しかしある戦略をもって、戦争をしている二つの国の利害を調整していく外交術も、調停する手腕を持った人も知恵もないようだ。むしろイスラエルやロシアに手法を見破られ、トランプの方が翻弄されているように見える。
トランプは世界をどう見ているのかヒントになるのが、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の寄稿(『日本経済新聞』2025年5月9日付)だ。トランプの政策は一貫しており、自由主義的な秩序を「力による支配」に変えることだと彼は言う。つまり19世紀の帝国主義の時代を再び復活させようというのである。帝国主義の時代は世界における弱者を植民地に変え、それを搾取
講演する岡本 厚さん(その3)
し差別と対立を生み出し、ついに世界全体を二度の大戦に巻き込んだ。その惨禍を繰り返さぬように、国連を創出し自由主義経済とその仕組みを生み出した。
「数千年の歴史が教えてくれるように、どの要塞国家も近隣諸国を犠牲にして自国の安全や繁栄、領土を少しでも多く確保しようと欲する。欠いているのは、普遍的価値観や国際機関、国際法なしに、対立する要塞国家同士がどう紛争を解決するのか、という点だ。トランプ氏の解決策は単純だ。弱者は強者のいかなる要求にも従えばよいというものだ。この考え方では、紛争は弱者が現実を受け入れない場合にのみ発生する。したがって、戦争は常に弱者の責任ということになる。」
帝国主義の時代が平和の時代であった筈はない。帝国が求めるのは同盟ではなく属国である。
では「台湾有事」は? すでにその大義については話した。トランプの世界認識からすれば、もし仮に大陸が台湾に侵攻しても(しないと思うが)、「強者が弱者を飲み込んでも当然」だし、「それに備えなかった台湾が悪い」ということになるだろう。何かのディールの材料にするかもしれない。
ある時、トランプに「中国が台湾に侵攻したら」と言う質問があった。トランプは「高い関税をかける」と答えたのである。
(6)分断と対立の時代
私はバイデンやハリスの民主党政権が良かったとは思わない。世界戦略からすればロシアを弱体化させ、ヨーロッパを混乱させて米国依存に導き、武器を輸出して大いに儲け、中東から抜け出して自分は手を汚さずに世界をコントロールしようとしてきた。どちらかといえばずる賢い政権である。
台湾についても、ずっと曖昧戦略を続けてきた。はっきりと「台湾の独立は支持しない」と言ったのは2023年秋の米中首脳会談の時であり、ガザで戦争が起き、さすがに三つの戦争には対応出来なくなってからである。日本の政権もバイデン政権に引きずられ、「台湾有事」に戦々恐々としてきた。もちろん、大陸が台湾に侵攻しても米国自身が軍事介入するつもりはなかったであろう。戦うのは台湾であり場合によっては日本であって、核保有国の中国とアメリカが直接に戦火を交えることはあり得なかった。
だからと言ってトランプ政権の方がいいとは言えない。トランプの行き当たりばったりで反知性的な振る舞いが引き起こすのは、間違いなくアメリカの衰退であり、世界からの信頼の失墜である(トランプ自身がアメリカ衰退の結果であるし、すでに信頼は落ちていたが)。「何をするか分からない」ということは、ある時は「平和の使者」になるかも知れないが、ある時は「核の引き金を平気で引いてしまう」かも知れないのだ。
米国内では、司法も地方政府もジャーナリズムも市民も戦うだろう。それは信頼に値する。外の私たちは国際的に連携してトランプの帝国主義を抑えるしかない。ヨーロッパとも、グローバル・サウスの国々とも、そして何より東アジアの韓国、中国、そしてASEAN諸国とも連携して、もう再び帝国主義の時代は来ないことを知らしめることが大事だと思う。普遍主義の鍛え直しである。
現代は分断と対立の時代と言われる。米国でもヨーロッパでも韓国でも、そして日本でも分断の溝が深まっていて、暴力の発動ギリギリとさえ言われる。
私は、その原因は新自由主義政策によって、どの国でも格差が拡大し、もはや希望が持てないところにまで至ったことだと思う。日本でも一方には1億円のマンションが次々に売れていくのに、一方にはお米が買えない多数の人がいる。アメリカには錆び付いた地域がある。ずっと続いていた成長がいつの間に滞り、よほどでない限り上の階層に上がることが出来ない。そうした時、「自分でない誰か」に責任があるという考えに引きずられがちである。「悪い」のは外国人であったり、財務官僚であったり、特権階級であったり、メディアであったり。SNSを介して情報は混乱し操作され、人びとの感情が誘導されていく。
では、分断と対立を乗り越えるにはどうしたらいいだろう。「対話」しかないのではないか。極端な話、イスラエル人とパレスチナ人の間にも、ロシア人とウクライナ人の間にも対話以外の方法で平和を獲得することは出来ない。同時に今すぐに出来るとは思わない。「話せば分かる」ではない。両者が相互に存在を認め合い、「理解しようと努めること」からしか対話は始まらない。相手は「間違っているから説得する」のではない。自分の意志を相手に強要してはならない。それこそが戦争である。いますぐでなくても、対話する姿勢が双方に出来るまで待てばよい。時間がかかる。
逆に戦争して暴力で相手を破壊しても、安心は得られない。同じように自分たちも「報復される」と思うからだ。常に武装し相手を警戒し報復を恐れるなら真の平和は訪れない。
(7)本当の安全保障とは-「敵を友にすること」
分断の向こうにいる「敵」とは誰なのか?
カトリックとプロテスタント、クリスチャンとイスラム、富裕層と貧困層、日本人と韓国人、中国人…。本当に壁の向こうにいるのは、こちらを脅かそうと日々牙を研いでいる訳の分らない人たちなのだろうか?
政党や市民運動の中にも、「私たちが正しい」「正しい人を増やし、多数派にする」という考え方がある。
ここで「チッソは私であった」と悟った水俣病患者の緒方正人さんを紹介する(河出文庫)。
緒方さんは、自身も患者であり父親は水俣病で狂死した。激しい敵意をチッソへ向けて、デモをし、海上デモで押しかけ、チッソの幹部をつるし上げたりした。怒りのあまり、チッソをダイナマイトで爆破することさえ考えた。
ある時、敵の幹部たちは次々と代わってしまう、彼らはシステムなんだと気づく。そしてもし自分がチッソにいたらどうしたか、彼らと同じようなことをしたのではないかと思うようになった。彼は考え続けた。自分の船もプラスチック製であり、そのシステムが作り出しているものの中で生きているのではないか、と。
遂にチッソは私であった…。壁の向こうにいる敵とは、自分であった。彼はこのような考えに至ったのである。分断や対立を考える上でとてもヒントになる転回ではないだろうか。
本当の安全保障とは、「敵を友にすること」である(ユダヤ教の教え)。
敵を攻撃し、打ち破ることではない。報復されるから攻撃しないだろうという考えは「抑止」の考えである。
原爆を落とされた日本、いつしか報復を考えなくなった(被爆直後には「仇をとってくれ」という声があった。しかし今、米国に「やり返せ!」と言う人はいるだろうか)。韓国の人びとは「日本を植民地にしてやろう」と思っているだろうか。中国の人びとは「日本を侵略し仕返してやろう」と思っているだろうか。ベトナムの人びとは米国に報復しようとしているだろうか。もしそうであったら、狙われた側は夜もおちおち寝られない。「やられる前にやってしまえ」となるのではないか。イスラエルの考え方には根本的な問題があると私は思う。
国連憲章(自衛権の容認)と、日本国憲法(非武装、交戦権の否認)の間に、原爆投下がある。凄まじい被害と加害の側の贖罪意識が合致して、奇跡のような憲法が生まれたことは、加藤典洋氏を引用して昨年安里教会で話した(『地平』2024年10月号)。
「報復をしない」というのは、アフガンで医療や地域開発を行った中村 哲さんの哲学である。どんなことをされてもやり返さない。対話を諦めない。そこにしか平和は来ないと私は確信
する。
第1080回(6月7日)大阪行動での筆者
最後に、アンパンマンの作者であるやなせたかしさんの文章を引用して終わりたい。
「しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義は或る日突然逆転する。正義は信じがたい。ぼくは骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の基本になる。逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、目の前で餓死しそうな人がいるとすればその人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点になる」(『アンパンマンの遺書』岩波現代文庫)。
戦後の日本が生み出した平和の思想は、現代の危機を救う重要な思想なのではないか。大事にしていきましょう。
これで終わります。ご清聴ありがとうございました。
(注1)
全軍将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり 然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る 既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり 爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし
(「牛島司令官 最後の指令」 沖縄県平和祈念資料館・常設展示)
(注2) 若き婦人は率先軍に身を捧げ看護婦烹炊(ほうすい)夫はもとより砲弾運び挺身切込み隊すら申し出るものあり(中略)/看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し身寄り無き重傷者を助けて××真面目にして一時の感情に駆られたるものとは思はれず(略)/更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来終始一貫勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ只ひたすら日本人としての御奉公の誇りを胸に抱きつつ遂に(一部不明)一木一草焦土と化せん 糧食六月一杯を支ふるのみなりという/沖縄県民斯く戦へり 沖縄県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを
(「沖縄通信」第181号(2025年6月)からの転載)
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