【特集】日航機123便墜落事件

日航123便墜落事故(第22弾):フランスでは日本時間の22時に「墜落場所はGUNMAのOSU」と報じていた

市民記者:小幡瞭介(おばた りょうすけ)

今回の記事では、フランスでは日本時間の22時に「墜落場所はGUNMAのOSU」と報じていたことがわかる資料を紹介する。

1989年出版の藤本義一氏による著書『東京非首都論 : 究極カンフル注射』161ページに、以下の通り記載されている。

≪さらにいおう。東京発信の他国の報道の方が実に敏速だという事実がある。その一例が羽田発日航123便が群馬県御巣鷹山に墜落した時、日本・東京発信の情報は午前零時を過ぎた時点でもなお墜落場所が不明と報じていたのに対し、フランスのテレビは午後十時(日本時間)に地図入りで日航機墜落場所がGUNMAのOSUという場所だと報じていたのである。

この日、女房はニースのホテルにいて、午後十時にわが家に電話を入れたきた。なぜかというと、私はこの123便をよく利用して大阪-東京間の日帰りに使っていたからである。

「群馬県のオスという地名のところだって……」

とまで午後十時の時点でいっている。が、日本列島のテレビ情報網で墜落場所が報道されたのは約八時間後である。≫

上記の通り、フランスでは日本よりも何時間も早く「墜落場所は群馬県のオス」と報じていたのである。

日本国内では、事故発生から翌日の明け方まで情報が錯綜していたのは事実だろう。しかし「オス」という地名が事故当日にフランスでは報道されたのにもかかわらず、なぜ日本国内では報道されなかったのか、大きな疑問が残る。

なぜなら「墜落場所は長野県の御座山あるいは群馬県の御巣鷹山の可能性がある」といった具合に報道することもできたはずだからである。

なぜ日本発信の貴重な情報が外国ではいち早く報道され、日本国内では報道されなかったのか。報道統制があったのではないかと疑われても仕方ないだろう。

なお、上記の情報と類似した情報について、ワタナベケンタロウ氏の動画「日航機墜落事故81」でも取り上げられている。(https://m.youtube.com/watch?v=5NIbWFC8gtQ&t=911

事故から40年を迎える8月12日には、テレビ各局が事故に関する特番を組むと思われるが、その際には上記の情報についても触れていただきたい。

また、フランスのテレビ局や学術機関などに当時のニュース映像が残っている可能性もあるだろう。「墜落場所はGUNMAのOSU」と報じた事故当日のニュース映像が発掘・公開されることを願っている。

付記:是枝孝空港長が123便の異常事態を初めて知ったときの状況について

実は、事故当時羽田空港長を務めていた是枝孝氏が123便の異常事態を初めて知ったときの状況を記した資料が複数ある。今回、それらの資料を読み比べたところ、不自然な点が浮かび上がったので紹介する。

まず、『朝日新聞の24時』と『航空事故調査委員会20年のあゆみ』には、以下の通り記載されている。

・『朝日新聞の24時』18ページ
≪是枝空港長はこの日、近江章次長らと、羽田を視察に来た総務庁や運輸省の担当者の応対に当たっていた。消防課のライトバンに同乗して空港施設を案内、空港ビル玄関に車が着いた時に、消防課の無線が、日航123便の「緊急遭難信号」を知らせて来た。しばらくして「R5ドア故障」の連絡が日航から入った。≫

・『航空事故調査委員会20年のあゆみ』42ページ
≪その日のこと

佐藤和男元総務課長

(1.7.1〜4.4.1)

その日(昭和60年8月12日)のことは、忘れようとしても忘れられない思い出となってしまった。

その日、私は大臣官房人事課の定員担当補佐官として、行政管理庁の担当官を航空現場の仕事を視て貰うため、羽田に案内していた。(中略)

消防署での説明を終え、空港事務所に戻ったのは、18時30分を過ぎていたであろうか。玄関に入るやいなや同行していた空港長に職員が歩み寄り何やら耳打ちをする。

空港長は行政管理庁の担当官に「ちょっと急用ができましたので・・」と足早やに立ち去って行った。その後、行政管理庁の担当官との総括を行ったが、解散するまでとうとう空港長は姿を現さなかった。≫

上記の通り、『朝日新聞の24時』と『航空事故調査委員会20年のあゆみ』では「是枝孝氏は123便の異常事態を空港事務所の玄関に着いたときに初めて知った」かのような書き方がされている。

ところが、是枝氏本人は『羽田開港60年 : 東京国際空港1931-1991』において次のように述べている。

・『羽田開港60年 : 東京国際空港1931-1991』61ページ

≪是枝孝(第11代)

1983(昭58)年6月~1985(昭60)年9月

(中略)

私にとって最も忘れることができないのは、1985年8月12日の日本航空機の御巣鷹山事故です。話はさかのぼりますが、その日の上り便の日航機で福岡から山下徳夫運輸大臣が福岡から到着されるのを、お迎えに出ました。このとき到着がすこし遅れたので、私はスポット近くにある日本航空のコントロール・ルームでしばらく待っておりましたが、隣の控室に折り返しの123便の乗員が待機していたのを覚えています。

事故の日の夕方6時半ごろ空港長室を出てエレベーターの前へ行った時、管制官室から「まもなく日航のジャンボ機が緊急着陸をする」と知らせがありました。管制官室へ行くと、今伊豆のあたりを飛んでいる、後のドアが破損している、と伝えてもらっているうちに、こんどは高度を下げているという連絡が入りました。≫

上記の通り、是枝氏本人は「空港長室を出てエレベーターの前へ行ったときに初めて123便の異常事態を知った」かのように述べているのである。

是枝氏が123便の異常事態を知ったのは「空港事務所の玄関に着いたとき」と「空港長室を出てエレベーターの前へ行ったとき」のどちらだったのだろうか。

上記の矛盾点について追求していったとしても「真の事故原因」には辿り着かないかもしれないが、「異常事態発生後の出来事の正確な時系列」を明らかにしていくことはできるだろう。

少しでも多くの事実が早急に明らかになることを願っている。

【参考文献】

・藤本義一. 東京非首都論 : 究極カンフル注射. リクルート出版,1989, p.161, 国立国会図書館デジタルコレクシ
https://dl.ndl.go.jp/pid/13166938 (参照 2025-07-15)

・ワタナベケンタロウ. “【日航機墜落事故81】機体は離陸以前、離陸直後にすでに問題が発生していた!?”. YouTube. 投稿日:2022-08-19.(参照 2025-07-15)
https://m.youtube.com/watch?v=5NIbWFC8gtQ

・朝日新聞社会部. 日航ジャンボ機墜落 : 朝日新聞の24時. 朝日新聞社, 1985, p.18, 国立国会図書館デジタルコレクション,(参照 2025-07-15)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12275384

・航空事故調査委員会20年のあゆみ. 航空事故調査委員会20周年記念事業実行委員会, 1994, p.42-43, 国立国会図書館デジタルコレクション,
https://dl.ndl.go.jp/pid/13087989 (参照 2025-07-15)

・航空ジャーナリスト協会. 羽田開港60年 : 東京国際空港1931-1991. 東京国際空港60周年記念行事実行委員会, 1991, p.61-62, 国立国会図書館デジタルコレクション,
https://dl.ndl.go.jp/pid/13190026 (参照 2025-07-15)

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