
【櫻井ジャーナル】2025.07.26XML: 台湾で国民党議員へのリコールに失敗
国際政治台湾で国民党議員へのリコールに失敗
台湾で7月26日に国民党議員(立法委員)へのリコール(解職請求)の賛否を問う住民投票が実施された。対象になったのは全113議員のうち24議員だが、そのすべての請求が不成立、このリコールを推進していた民主進歩党の頼清徳総統にとって厳しい結果になった。
頼清徳は2024年1月の選挙で勝利して総督に就任したが、同じ日に実施された立法委員選挙で彼の民進党が獲得した議席は51にとどまり、国民党の52議席を下回った。そこで頼総督はリコールで逆転を狙ったのだが、失敗した。「独立」を掲げ、中国から離れようとしている民進党の背後にはアメリカがついているが、議会で過半数の議席を獲得できていないため、反中国政策を推進することが難しくなっている。
空母としての台湾
民進党がいう「台湾の独立」とは、アメリカにしてみると、台湾を対中国戦争のための「不沈空母」にすることにほかならない。2019年9月から21年1月まで国家安全保障補佐官を務めたロバート・オブライエンは20年10月、台湾を要塞化するべきだと語り、アメリカ空軍航空機動軍団のマイク・ミニハン司令官は23年1月、アメリカと中国が25年に軍事衝突する可能性があるとする見通しを記したメモを将校へ送っている。
ミニハンがアメリカと中国が軍事衝突する可能性があるとした今年の5月15日、エグザビエル・ブランソン在韓米軍司令官は、対朝鮮だけでなく中国を牽制するためにも在韓米軍の役割を拡大する必要があると主張、韓国は「日本と中国本土の間に浮かぶ島、または固定された空母」だと表現している。
アメリカにとって韓国も台湾も「不沈空母」、つまり大陸を制圧するための重要な拠点なのだが、日本も同じだ。
1982年11月から総理大臣を務めた中曽根康弘は翌年の1月にアメリカを訪問、ワシントン・ポスト紙の編集者や記者たちと朝食をともにしたが、その際、彼はソ連のバックファイア爆撃機の侵入を防ぐため、日本は「不沈空母」になるべきだと語ったと報道された。
中曽根は発言を否定しようとしたものの、インタビューが録音されていたことを知ると、「不沈空母」ではなくロシア機を阻止する「大きな空母」だと表現したのだと主張したのだが、このふたつの表現に本質的な差はない。日本列島はアメリカ軍がロシア軍を攻撃するための軍事拠点だと中曽根は認めたのである。
中曽根は首脳会談で日本周辺の「4海峡を完全にコントロールし、有事にソ連の潜水艦を日本海に閉じ込める」、また「ソ連のバックファイアー(爆撃機)の日本列島浸透を許さない」と発言。また「シーレーン確保」も口にしたが、要するに制海権の確保だ。
アメリカは第2次世界大戦後、日本列島から琉球諸島を経て台湾に至る弧状列島はアメリカにとってユーラシア大陸の東岸を侵略する拠点である。その仕組みを固定するため、新旧日米安全保障条約は結ばれた。
ネオコンの世界制覇戦略
この日米軍事同盟が次のステージに進んだのは1992年2月のことだ。前年の12月にソ連が消滅すると、ネオコンを含む西側の好戦派はアメリカが唯一の超大国になり、好き勝手なことができる時代になったと考えたようで、92年2月に亜名rかの国防総省のDPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇計画を作成。作成の中心は国防次官を務めていたポール・ウォルフォウィッツだったことから、このDPG草案は「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。
そのドクトリンには、ドイツと日本をアメリカ主導の集団安全保障体制に統合し、民主的な「平和地帯」を創設すると書かれているが、つまりドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、アメリカの支配地域を作り出すということにほかならない。
ウォルフォウィッツたちが目指した第一の目的は、旧ソ連の領土内であろうとなかろうと、かつてソ連がもたらした脅威と同程度の脅威をもたらす新たなライバルが再び出現するのを防ぐこと。西ヨーロッパ、東アジア、西南アジアが成長することを許さないということだが、東アジアには中国だけでなく日本も含まれている。1990年代以降の日本を見れば、その意味がわかる。
1993年8月に成立した細川護煕政権は国連中心主義を打ち出して抵抗するが、94年4月に崩壊。1994年6月から自民党、社会党、さきがけの連立政権で戦ったが、押し切られている。
そうした動きをネオコンのマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベル国防次官補(当時)に報告、1995年2月にジョセイフ・ナイは「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表してアメリカの政策に従うように命令。そこには10万人規模の駐留アメリカ軍を維持し、在日米軍基地の機能を強化、その使用制限は緩和/撤廃されることが謳われていた。沖縄ではこの報告に対する人びとの怒りのエネルギーが高まるが、そうした中、3人のアメリカ兵による少女レイプ事件が引き起こされ、怒りは爆発する。日米政府はこの怒りを鎮めようと必死になったようだ。
こうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布された(地下鉄サリン事件)。松本サリン事件の翌月に警察庁長官は城内康光から國松孝次に交代、その國松は地下鉄サリン事件の直後に狙撃された。1995年8月にはアメリカ軍の準機関紙と言われているスターズ・アンド・ストライプ紙に85年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載された。この旅客機が墜ちる前、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事で、自衛隊の責任を示唆している。この1995年に日本はウォルフォウィッツ・ドクトリンに書かれている通り、アメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。
この時に想定された戦争は弱小国を相手にした侵略戦争のはず。ネオコンたちはソ連消滅でライバルがなくなり、植民地化したロシアは弱体化、1980年頃から新自由主義化が進んだ中国はコントロールできるとふんでいたようだ。
対中国工作
リチャード・ニクソンは大統領として1972年2月に中国を訪問、北京政府を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないと表明して米中は国交を回復させた。経済を餌にして中国を抱き込んでソ連との対立を煽ろうとしたと見られている。
1980年には新自由主義の教祖的な存在だったミルトン・フリードマンが北京を訪問、新自由主義の推進役だった趙紫陽は1984年1月にアメリカを訪問、ホワイトハウスでロナルド・レーガン大統領と会談して両国の関係は緊密化していく。
新自由主義は社会的な強者に富を集中させる仕組みであり、中国でも貧富の差が拡大、1980年代の半ばになると労働者の不満が高まる。社会は不安定化して胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥り、胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任せざるをえなくなった。学生は新自由主義に「民主化」というタグをつけて支持していたが、新自由主義に反対する労働者も抗議活動を始めて社会は不安定かした。
そうした中、1988年にミルトン・フリードマンは8年ぶりに中国を訪問、趙紫陽や江沢民と会談したが、中国政府はその年に「経済改革」を実施している。労働者などからの不満に答えるかたちで軌道修正したと言えるだろう。趙紫陽は2005年1月に、また江沢民は22年11月にそれぞれ死亡している。
天安門事件
そして「天安門事件」が引き起こされる。西側の政府や有力メディアは6月4日に軍隊が学生らに発砲して数百名を殺したと主張していたが、これを示す証拠はない。
例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場で誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
学生の指導グループに属していた吾爾開希は学生200名が殺されたと主張しているが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていたことが確認されている。北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
西側の有力メディアは2017年12月、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えた。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドが1989年6月5日にロンドンへ送った電信を見たというAFPの話を流したのだ。
しかし、これはドナルド大使自身が目撃したのではなく、「信頼できる情報源」の話の引用。その情報源が誰かは明らかにされていないが、そのほかの虐殺話は学生のリーダーから出ていた。当時、イギリスやアメリカは学生指導者と緊密な関係にあった。ドナルド大使の話も学生指導者から出たことが推測できる。
また、内部告発を支援しているウィキリークスが公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで群集への一斉射撃はなかったとチリの2等書記官だったカルロス・ギャロは話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)
イギリスのデイリー・テレグラム紙が2011年6月4日に伝えた記事によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは2009年に天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと話している。(The Daily Telegraph, 4 June 2011)
しかし、治安部隊とデモ隊が激しく衝突、双方に死傷者が出るという出来事はあった。ただ、それは天安門広場ではなく、広場から8キロメートル近く離れている木樨地站で、黒焦げになった複数の兵士の死体が撮影されている。このデモ隊は反自由主義を主張していた労働者だったと言われている。路上での衝突と広場の状況を重ねて語る人もいるが、全く違うのだ。
広場から引き上げる戦車をクローズアップした写真を使い、「広場へ入ろうとする戦車を止める英雄」が作り上げられているが、この写真が撮影されたのは事件があったとされる日の翌日、6月5日のことだ。
吾爾開希をはじめとする反政府活動の学生指導者たちはイエローバード作戦(黄雀行動)と呼ばれる逃走ルートを使い、香港とフランスを経由してアメリカへ逃れた。このルートを運営していたのは米英の情報機関、つまりCIAとMI6だ。吾爾開希はハーバード大学で学んだ後、台湾へ渡って独立運動に参加、つまり台湾で軍事的な緊張を高める仕事を始めた。
ブッシュ政権の秘密工作
1989年1月、アメリカ大統領はロナルド・レーガンからジョージ・H・W・ブッシュへ交代、その直後に新大統領はイギリスのマーガレット・サッチャー首相と会談、ソ連を崩壊させることで合意している。その当時、すでにソ連のミハイル・ゴルバチョフはCIAのネットワークに取り囲まれていた。ブッシュはその年の5月、ジェームズ・リリーを中国駐在アメリカ大使に据えた。
ブッシュはジェラルド・フォード政権時代の1976年1月から77年1月にかけてCIA長官を務めているが、彼はエール大学時代、CIAからリクルートされたと言われている。同大学でCIAのリクルート担当はボート部のコーチを務めていたアレン・ウォルツだと言われているが、そのウォルツとブッシュは親しかったのだ。
しかも、ブッシュの父親であるプレスコットは銀行家から上院議員へ転身した人物で、ウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しかった。言うまでもなく、ダレスはOSSからCIAまで秘密工作を指揮していた人物だ。ブッシュは大学を卒業した後にカリブ海で活動、1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務めている。
ジェームズ・リリーはジョージ・H・W・ブッシュとエール大学時代から親しく、ふたりとも大学でCIAにリクルートされた。リリーは中国山東省の青島生まれで中国語は堪能で、1951年にCIA入りしたと言われている。
このエール大学コンビは中国を揺さぶりにかかる。中国のアカデミーはビジネス界と同じように米英支配層の影響下にあり、揺さぶる実働部隊は主要大学の学生。現場で学生を指揮していたのはジーン・シャープで、彼の背後にはジョージ・ソロスもいたとされている。学生たちと結びついていた趙紫陽の後ろ盾は鄧小平だ。
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※なお、本稿は「櫻井ジャーナル」https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/
のテーマは「台湾で国民党議員へのリコールに失敗 」(2025.07.28ML)
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