
【櫻井ジャーナル】2025.09.04XML : 真珠湾攻撃は琉球併合から始まる日本の侵略戦争の一幕にすぎない
国際政治日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印したのは1945年9月2日のことだった。この儀式は昭和天皇(裕仁)がラジオを通じて「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表してから18日後のことである。
連合国が正式に結成されたのは連合国共同宣言が調印された1942年1月1日。日本軍が1941年12月7日にマレーのコタバルに陸軍の部隊を上陸させ、その約70分後にハワイの真珠湾を攻撃したことを受けてのことである。アメリカ側が日本軍の攻撃を察知していたかどうかには関係なく、いずれも奇襲攻撃だ。
勝者である連合国側で文書に署名したの連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーのほか、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表。この国々が日本の降伏した相手だということになるが、日本はマレーや真珠湾を攻撃する前から中国で戦争していた。
中国での戦争をぶつ切りにして語りたがる人が少なくないが、明治政府が琉球国を1872年に併合した時に日本のアジア侵略戦争は始まったと言える。廃藩置県を実施した翌年に琉球藩をでっち上げるという不自然ことを行ったわけで、そうしなければならない緊急事態が生じたのだろう。
本ブログでは繰り返し書いてきたことだが、明治維新にはジャーディン・マセソンなるイギリスの会社が深く関係している。この会社は中国へのアヘン密輸で大儲けし、創設者であるウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンが創設した会社は香港の香港上海銀行(現在のHSBC)と深く結びついていた。
2度のアヘン戦争で大儲けしたジャーディン・マセソンは1859年にトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へそれぞれエージェントとして送り込んだ。ケズウィックの母方の祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉だ。
グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州の若者5名をイギリスへ留学させることにする。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。この5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。1861年に武器商人として独立したグラバーも渡航の手助けをしているが、ケズウィックは1862年にジャーディン・マセソンの共同経営者となるために香港へ戻った。
明治政府は1874年に台湾へ派兵、75年に李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、94年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こって朝鮮王朝が揺らぐと日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵したことから日清戦争が始まる。この戦争で日本は勝利し、大陸侵略が本格化した。
日本をアジア侵略へと導く上で特に重要な役割を果たしたのはイギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウ、アメリカの駐日公使だったチャールズ・デロング、厦門のアメリカ領事だったチャールズ・ルジャンドルなど。こうした人びとは明治政府に対して大陸を侵略するようにけしかけていた。
イギリスが19世紀からロシア征服を目論んでいたことは本ブログでも繰り返し書いてきた。いわゆる「グレート・ゲーム」だ。その戦略で中心的な役割を果たした政治家はホイッグ党(後の自由党)を率いていたヘンリー・ジョン・テンプル(別名パーマストン子爵)。ビクトリア女王にアヘン戦争を進言したのもこの人物である。
イギリスは1840年から42年にかけて「アヘン戦争」、56年から60年にかけて「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」を行い、勝利したが、内陸を制圧して蓄積されていた富を略奪することはできなかった。兵力が決定的に足りなかったのだ。イギリスに代わって中国(清)を侵略したのが日本にほかならない。イギリスが日本に対して技術を提供、資金を融資したのは必然だが、同じアングロ・サクソン国であるアメリカも日本を使おうとしていた。
アメリカの外交官だったルジャンドルは台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会う。その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)
デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿を務めていた副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その口実を作るため、日本政府は琉球を急遽、併合したわけである。ルジャンドルは1875年まで外務省の顧問を務めた。
このアメリカ人外交官は母国に妻がいたにもかかわらず、離婚しないまま1872年後半から73年前半のどこかの時点で池田絲なる女性と「結婚」している。この女性は松平慶永と腰元との間に生まれた人物だ。絲は池田家に預けられ、東京で暮らすことになるものの、松平家からの支援はない。そうしたこともあり、後に彼女は深川の芸者になるが、そこでルジャンドルにみそめられたという。
その当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害。その際、性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。
イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。詳細は割愛するが、1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本の海軍に敗北する。
そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。小村は日本がアングロ・サクソンの手先という立場になることを拒否したと言えるだろう。
小村とは逆にアメリカのために動いたのが金子堅太郎。この人物はハーバード大学で法律を学んでいるが、彼の2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合って親しくなる。
日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。また日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつく。セオドア・ルーズベルト政権は韓国併合を事前に認めていた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
1923年9月1日に東京周辺が関東大震災に襲われた後、日本はウォール街の影響を強く受けるようになる。復興資金を調達するために日本政府が頼ったJPモルガンは日本の政治経済を動かすようになった。この巨大金融機関を創設したジョン・ピアポント・モルガンはロスチャイルド系金融資本のアメリカにおける責任者としてスタートした人物だ。
この金融機関はアメリカの政治経済も動かしていたが、その仕組みを揺るがす事態が1932年に起こる。金融界が担いでいた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。
そこでウォール街の大物たちは1933年から34年にかけてクーデターを計画するのだが、これは海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将によって阻止された。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。
フーバーが大統領の任期を終える直前、1932年に大物を駐日大使として日本へ送り込む。その人物とはジョセフ・グルーだ。グルーのいとこ、ジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻なのである。しかもグルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。アリスの父親が1898年から慶応義塾大学で英文学を教えた関係で彼女は10代の頃、日本の女学校に通い、人脈を築くことになった。
ジョセフ・グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、特に親しかった人物は松岡洋右だと言われている。そこにアリスの人脈も加わる。真珠湾攻撃の翌年、グルーは離日するが、その直前、商工大臣を務めていた岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, “Legacy of Ashes,” Doubledy, 2007)
バトラー少将によると、ウォール街でクーデターを計画していた勢力はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。
バトラーの知り合いだった編集者が派遣したジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出した。1932年に駐日アメリカ大使として日本へ赴任した人物はファシストの一派だったということになる。
少将は計画の内容を聞き出しが上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。これで計画は止まった。
バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにしているが、議会も捜査機関も動かなかった。
第2次世界大戦後、連合軍は少なからぬ日本の軍人を処刑する一方、戦争犯罪に問われて当然の軍人、特高の幹部、思想検察、裁判官などが守られ、要職についた人もいる。東京裁判は「民主化」を演出するセレモニーに過ぎなかった。そもそも戦前日本の最高責任者が責任を問われていない。
そして戦後日本が築かれていくのだが、その中心にはウォール街を後ろ盾にするジャパン・ロビーが存在、その中核にはジョセフ・グルーがいた。戦前も戦後も日本を動かしていたのはイギリスやアメリカの金融資本だと言える。本質的な点で何も変化していない。
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