
【櫻井ジャーナル】2025.09.10XML: シオニストによるパレスチナ人の大量虐殺に抗議できないホロコースト博物館
国際政治アメリカのロサンゼルスにあるホロコースト博物館は「『2度と繰り返さない』はユダヤ人にとっての『2度と繰り返さない』だけを意味するものではない」とするソーシャルメディアの投稿を削除した。
イスラエルがガザで大量虐殺を続けていることからこの投稿がイスラエルへ向けられていると「誤解」されることを恐れ、投稿について謝罪したようだ。博物館側によると、そうした意図はなかった、つまりガザで大量虐殺に反対する意図はなかったと解釈されている。
ガザでの大量虐殺に抗議する声は世界に広がっている。ロンドンでも抗議活動があり、参加者の中にはナチス時代のドイツにおけるホロコーストを生き抜いたユダヤ人の娘がいた。その女性はインタビューを受けて時に逮捕されている。
ガザでの大量虐殺を推進しているベンヤミン・ネタニヤフ政権はウラジミール・ジャボチンスキーが1925年に結成した「修正主義シオニスト世界連合」の流れを汲んでいる。ジャボチンスキーは1940年にアメリカで心臓発作のために死亡しているが、アメリカ時代に彼の秘書を務めていたンシオン・ネタニヤフはベンヤミン・ネタニヤフの父親だ。
その後、ジャボチンスキーの信奉者がユダヤ人社会で主流派になったわけではないが、1970年代には福音派キリスト教徒、キリスト教原理主義者、あるいは聖書根本主義者と呼ばれているグループに支援されて台頭した。アメリカでネオコンが台頭するのと同じタイミングだ。
このキリスト教の一派が掲げる教義によると、キリストに従う「善の軍勢」と反キリストの「悪の軍勢」が「ハルマゲドン」で最終戦争を行い、人類の歴史は幕を閉じる。その際、再臨するキリストによって自分たちは救われるのだという。ジェリー・フォルウエルなど有名なテレビ説教師の大半がこの説を信じていて、「四千万を超えるといわれる聖書根本主義者たちは、聖書に書かれた神の都シオンと現代のシオニズム国家イスラエルを中心に信仰体系を打ち立てている」。この信仰体系は天啓的史観と呼ばれている。(グレース・ハルセル著、越智道雄訳、「核戦争を待望する人びと」、朝日選書、1989年)
また、マザー・ジョーンズ誌の2002年9月/10月号に掲載されたレポートによると、聖書根本主義派はエド・マクティールを中心に活動、ジェリー・フォルウエルをロナルド・レーガン、ジェシー・ヘルムズ上院議員、そして現司法長官のジョン・アシュクロフトと引き合わせたのもこの人物だ。ポール・ウォルフォウィッツやダグラス・フェイスのようなネオコンと福音派キリスト教徒は緊密な関係にある。(MOTHER JONES, September / October 2002)
福音派キリスト教徒を含むシオニストはパレスチナ人虐殺をジェノサイドに含めるべきではないと強く主張、西側諸国における大半の政府はその主張に従い、パレスチナ人が爆撃で殺され、兵糧攻めで飢餓状態になっても動こうとしない。パレスチナで引き起こされていることは大量虐殺にほかならず、「悲劇」ではない。
パレスチナで大量虐殺が始まった原因は「イスラエル」なる「ユダヤ人の国」を作り上げたからである。そのために先住民であるアラブ系住民たちを消滅させる必要が生じ、虐殺が始まった。かつてアメリカ大陸やオーストラリアで行ったことをパレスチナでも繰り返している。その虐殺がパレスチナで終わる保証もない。
北アメリカ、オーストラリア、そしてパレスチナで先住民を消滅させて新たな国を作ったのはイギリスにほかならない。
イギリス政府は1838年、エルサレムに領事館を建設。その翌年にはスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査し、イギリスの首相を務めていたベンジャミン・ディズレーリは1875年にスエズ運河運河を買収した。その際に資金を提供したのは友人のライオネル・ド・ロスチャイルドだ。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設する第一歩と言われる書簡、いわゆる「バルフォア宣言」をアーサー・バルフォアがウォルター・ロスチャイルドへ出したのは1917年11月のこと。
イギリスは1920年から48年の間パレスチナを委任統治、ユダヤ人の入植を進めたが、1920年代に入るとパレスチナのアラブ系住民は入植の動きに対する反発を強めた。
そうした動きを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用した。
この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立されたのだが、殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。イングランドでは、ピューリタン革命を指揮したオリバー・クロムウェルの軍隊がアイルランドを軍事侵略、多くの人を虐殺した。17世紀の半ばのことだ。
クロムウェルが出現する前、イングランドのジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)はアングロ・サクソンをユダヤ人の「失われた十支族」の後継者だと信じ、自分はイスラエルの王だと信じていたという。この「失われた十支族」は旧約聖書の記述からきているとされているのだが、それは読み手の解釈に過ぎない。
旧約聖書によると、イスラエル民族の始祖はヤコブだとされている。彼には12人の息子があり、それぞれ支族を形成、そのうちユダ族とベニヤミン族の後裔とされる人びとが「ユダヤ人」と呼ばれているのだ。残りは「行方不明」で、旧約聖書を信じる人びとから「失われた十支族」と呼ばれているのだが、この支族が存在したとしても、「ユダヤ人」ではない。そもそも旧約聖書の記述を裏付ける証拠はない。
ジェームズ6世の息子であるチャールズ1世はピューリタン革命で処刑されたが、クロムウェルの私設秘書だったジョン・サドラーも同じように考え、彼は1649年に作成されたパンフレット『王国の権利』の中でイギリス人はイスラエルの失われた部族のひとつであり、ユダヤ人と同族であると主張している。
「神はイギリス人だ」と主張していたというクロムウェルの聖書解釈によると、世界に散ったユダヤ人はパレスチナに再集結し、ソロモン神殿を再建することになっていた。この解釈に基づいて彼は政権を樹立し、1656年のユダヤ人のイングランド定住禁止令を解除、パレスチナにイスラエル国家を建国することを宣言した。海賊の国だったイングランドで金融や経済を彼らに任せるためだったともいう。
これがシオニズムの始まりだが、ピューリタン体制が倒されるとシオニズムは放棄され、クロムウェルを支持する人びとの一部はアメリカへ亡命、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンらはその後継者だと主張したという。その北アメリカで先住民は「民族浄化」された。
IRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立されたブラック・アンド・タンズのメンバーは殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。そして1936年から39年にかけてパレスチナ人は蜂起する。アラブ大反乱だ。
1938年以降、イギリス政府は10万人以上の軍隊をパレスチナに派遣する一方、植民地のインドで警察組織を率いていたチャールズ・テガートをパレスチナへ派遣、収容所を建設する一方、残忍な取り調べ方法を訓練した。イギリス軍はパトロールの際、民間のパレスチナ人を強制的に同行させていたともいう。
反乱が終わるまでにアラブ系住民のうち成人男性の10パーセントがイギリス軍によって殺害、負傷、投獄、または追放された。植民地長官だったマルコム・マクドナルドは1939年5月、パレスチナには13の収容所があり、4816人が収容されていると議会で語っている。その結果、パレスチナ社会は荒廃していく。
シオニストはパレスチナから先住民を追い出し、イスラエルなる国を建てるため、1948年4月4日に「ダーレット作戦」を発動、ハガナに協力する形でテロ組織のイルグンとスターン・ギャングは9日にデイル・ヤシン村を襲撃、その直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると、村民254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。
イギリスの高等弁務官を務めていたアラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されてしまう。ハガナもイルグンとスターン・ギャングを武装解除しようとはしない。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
この虐殺を見て多くのアラブ系住民は恐怖のために逃げ出し、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザ地区やトランスヨルダン(現在のヨルダン)に移住、その後、1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。イスラエルとされた地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎなかった。1948年5月14日にイスラエルの建国が宣言されている。国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。
勿論、先住民を消滅させるだけでは新たな国を作ることができない。「ユダヤ人」を連れてくる必要があった。そこでシオニストは1933年8月25日、ドイツのナチス政権とユダヤ人をドイツからパレスチナへ移住させる目的でハーバラ協定を締結したのだ。
1938年11月にドイツではナチスがユダヤ系住民を襲撃、多くの人が殺され、収容所へ入られ始めるが、この「水晶の夜」以降もユダヤ人はパレスチナへ向かわず、アメリカやオーストラリアを目指した。
その間、1936年4月にパレスチナ人は独立を求めてイギリスに対する抵抗運動を開始するのだが、39年8月に鎮圧されて共同体は、政治的にも軍事的にも破壊された。その際、パレスチナ人と戦った勢力には2万5000名から5万名のイギリス兵、2万人のユダヤ人警察官など、そして1万5000名のハガナが含まれている。
**********************************************
【Sakurai’s Substack】
※なお、本稿は「櫻井ジャーナル」https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/
のテーマは「 シオニストによるパレスチナ人の大量虐殺に抗議できないホロコースト博物館 」(2025.09.10XML)
からの転載であることをお断りします。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202509100002/
※ISF会員登録およびご支援のお願いのチラシ作成しました。ダウンロードはこちらまで。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202410130000/
ISF会員登録のご案内