
【櫻井ジャーナル】2025.10.15XML :コロンブスの日の問題とは米先住民の虐殺問題であり、ガザでの虐殺と根は同じ
国際政治アメリカでは10月12日が「コロンブスの日」として祝われている。クリストファー・コロンブス(クリストバル・コロン)が1492年10月12日にバハマ諸島のグアナハニ島へたどり着いたことを記念しての祝日だが、これは南北アメリカで大量虐殺と略奪の幕開けでもあった。
その当時、北アメリカには100万人とも1800万人とも言われる先住民が住んでいたと推測されているが、1890年にウーンデット・ニー・クリークで先住民の女性や子ども250人から300人がアメリカ陸軍第7騎兵隊に虐殺された時には約25万人に減少していた。ただ、主だった地域では90%を超す住民が殺されているので、100万人ということはないだろう。そして、生き残った先住民を「保留地」と名づけらた地域に押し込めるために「強制移住法」が施行された。
ピート・ヘグセス戦争長官は今年9月25日、ウーンデット・ニーにおける虐殺に関与した20人の兵士に名誉勲章を授与すると発表した。この虐殺を実行した部隊を構成していた兵士の大半は戦闘経験がなく、誤射で味方の兵士を殺している。酩酊状態だったとも言われている。そうした兵士を「勇敢」だとヘグセスは主張、「勲章を受けるに値する」と宣言したのだ。
こうした大虐殺を実行して土地や資源を奪ったアメリカはピューリタンの国である。ピューリタンはオリバー・クロムウェルの下、革命を成功させた後、仲間だった水平派を弾圧、それと並行してアイルランドやスコットランドを侵略、住民を虐殺している。17世紀の半ばのことだ。
クロムウェルの私設秘書を務めていたジョン・サドラーはイングランド王ジェームズ1世と同じように、アングロ・サクソンをユダヤ人の「失われた十支族」の後継者だと信じていた。サドラーは1649年に作成されたパンフレット『王国の権利』の中で、イギリス人はイスラエルの失われた部族のひとつであり、ユダヤ人と同族であると主張している。
ところで、「失われた十支族」は旧約聖書の記述からきているとされているのだが、それは読み手の解釈に過ぎない。旧約聖書によるとイスラエル民族の始祖はヤコブだとされている。彼には12人の息子があり、それぞれ支族を形成、そのうちユダ族とベニヤミン族の後裔とされる人びとが「ユダヤ人」と呼ばれているのだ。
ユダヤ人ではない残りは「行方不明」だとされているのだが、旧約聖書を信じるある種の人びとは「失われた十支族」と呼ぶ。ただ、この支族が存在したとしても「ユダヤ人」ではない。そもそも旧約聖書の記述を裏付ける証拠はない。
「神はイギリス人だ」と主張していたというクロムウェルの聖書解釈によると、世界に散ったユダヤ人はパレスチナに再集結し、ソロモン神殿を再建することになっていた。この解釈に基づいて彼は政権を樹立し、1656年のユダヤ人のイングランド定住禁止令を解除、パレスチナにイスラエル国家を建国することを宣言した。海賊の国だったイングランドで金融や経済を彼らに任せるためだったともいう。
これがシオニズムの始まりだが、ピューリタン体制が倒されるとシオニズムは放棄され、クロムウェルを支持する人びとの一部はアメリカへ亡命、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンらはその後継者だと主張したという。その北アメリカで先住民は「民族浄化」された。
19世紀からイギリスの支配層はパレスチナに注目、1938年以降、イギリス政府は10万人以上の軍隊をパレスチナに派遣する一方、植民地のインドで警察組織を率いていたチャールズ・テガートをパレスチナへ派遣、収容所を建設し、残忍な取り調べ方法を訓練した。イギリス軍はパトロールの際、民間のパレスチナ人を強制的に同行させていたともいうが、これはイスラエル軍の実行している。
クロムウェルが侵略して以降、アイルランドはイングランドの植民地と化すが、その一方で抵抗運動が始まる。そうした運動を実行していたIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立されたのがブラック・アンド・タンズ。そのメンバーは殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。
1936年4月にパレスチナ人は独立を求めてイギリスに対する抵抗運動を開始するのだが、39年8月に鎮圧されて共同体は、政治的にも軍事的にも破壊された。いわゆるアラブ大反乱である。それに対し、イギリス政府は1938年以降、10万人以上の軍隊をパレスチナに派遣した。
反乱が終わるまでにアラブ系住民のうち成人男性の10パーセントがイギリス軍によって殺害、負傷、投獄、または追放された。植民地長官だったマルコム・マクドナルドは1939年5月、パレスチナには13の収容所があり、4816人が収容されていると議会で語っている。その結果、パレスチナ社会は荒廃していく。
シオニストはパレスチナから先住民を追い出し、イスラエルなる国を建てるため、1948年4月4日に「ダーレット作戦」を発動、ハガナに協力する形でテロ組織のイルグンとスターン・ギャングは9日にデイル・ヤシン村を襲撃、その直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると、村民254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。
イギリスの高等弁務官を務めていたアラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されてしまう。ハガナもイルグンとスターン・ギャングを武装解除しようとはしない。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
この虐殺を見て多くのアラブ系住民は恐怖のために逃げ出し、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザ地区やトランスヨルダン(現在のヨルダン)に移住、その後、1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。イスラエルとされた地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎなかった。1948年5月14日にイスラエルの建国が宣言されている。国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。
勿論、先住民を消滅させるだけでは新たな国を作ることができない。「ユダヤ人」を連れてくる必要があった。そこでシオニストは1933年8月25日、ドイツのナチス政権とユダヤ人をドイツからパレスチナへ移住させる目的でハーバラ協定を締結したのだ。
1938年11月にドイツではナチスがユダヤ系住民を襲撃、多くの人が殺され、収容所へ入られ始めるが、この「水晶の夜」以降もユダヤ人はパレスチナへ向かわず、アメリカやオーストラリアを目指した。
2023年10月7日にハマス(イスラム抵抗運動)を含む戦闘部隊がイスラエルを奇襲攻撃したが、その前にイスラエルがイスラム世界を挑発している。その舞台になったのはアル・アクサ・モスクだ。
イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は2023年4月に警官隊をイスラムの聖地であるアル・アクサ・モスクへ突入させ、同年10月3日にはイスラエル軍に保護された832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入してイスラム教徒を挑発している。
この攻撃から数時間後、アメリカ政府は2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させた。レバノンにいるヒズボラ、あるいはイランの軍事介入を牽制することが目的だとされているが、それほど早く艦隊を移動できたのは事前に攻撃を知っていたからではないかと考える人もいる。
イスラエル軍は10月27日にガザへ3師団と数旅団を侵攻させたが、中東のメディアによると、その作戦にはアメリカ軍約5000人が参加しているとする話も伝えられていた。現在伝えられている話では2000人だとされ、そのほとんどが軍事顧問だというが、ガザでの戦闘にアメリカ軍の特殊部隊が参加していることはクリストファー・マイヤー国防次官補が語っている。
イスラエル軍によるガザでの破壊と虐殺がハマスとイスラエルの停戦合意で終わるとは思えない。パレスチナでの大量虐殺は19世紀にイギリスが計画、虐殺を開始、それをイスラエルが引き継いだと考えるべきだろう。その背景には中東全域を支配しようという欧米支配層の長期戦略がある。「大イスラエル構想」もその戦略に重なる。
「コロンブスの日」の問題、つまりアメリカ先住民の虐殺とガザでの虐殺は結びついている。
【Sakurai’s Substack】
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