連載:マッド・アマノコラム集(2)

マッド・アマノ

マッド・アマノパロディコラムが毎週水曜日に始まります。お楽しみに。


 

プロフィール
戦争の時代に生を受ける

1939 年東京生まれ。同年、ナチスドイツ、ポーランド侵攻。第二次世界戦争勃発。1941 年 12 月、大日本帝国海軍、ハワイ・パールハーバー真珠湾攻撃。2 歳。

1945 年 3 月、東京空襲激化のため栃木県小山に母と共に疎開。7 月末、機銃掃射、危うく 難を逃れる。8 月 6 日 9 日広島長崎米爆撃機 B29 原爆投下。

同年 8 月 15 日、日本、ポツダ ム宣言受諾。日本の敗戦が決まる。天皇の「玉音放送」により全国民は敗戦を知る。小山の 小学校、1 年生。終戦と同時に進駐軍の軍用トラックが目の前の国道 4 号線路上に複数並ぶ のを見て「あれ中国の ?」と聞けば「アメリカなのよ」と母。疎開先の親戚の八百屋の裏庭に ある二つの蔵の中身を検閲しに来た二人の MP に割烹着を着た母が「オコメハナイノ」と超ス ローに日本語で応対。

「Oh、OK1」と MP はそのまま引き下がったのを克明に覚えている、わ ずか一週間前、機銃掃射に遭遇して一命を失ったかもしれない。15 日を境にして地獄から天 国を体験したわけだが、なぜか悲壮感はなかった。大手ゼネコンの設計部の社員の父は建設 現場の長野県諏訪市に滞在していたから機銃掃射の危険な体験はしていない。

籾殻 ( もみが ら ) でプロテクトされた長野県の名産のりんごが大きな木箱に詰められて送られてきたことや壁 掛けの電話で話したことなどが思い出される。

今思うと機銃掃射以外は戦時中にも関わらず戦 争の恐怖は体験せずに済んだ。幼少の頃、父が撮った私の幼少の頃の写真は三輪車にまたがっ てカメラの方を見ているのだが戦闘帽におもちゃの刀を腰に刺している。

3 歳頃だったと思う。 もう一つは黒い上下の服を着て、鉄砲を担ぎ「気を付け―」の直立不動のポーズ。足元にはこ れまたおもちゃの大砲。いかにも「軍国少年」のポーズではないか。

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日本では数少ないパロディスト(風刺アーティスト)の一人。小泉政権の自民党(2005年参議院選)ポスターを茶化したことに対して安倍晋三幹事長(当時)から内容証明付きの「通告書」が送付され、恫喝を受けた。以後、安倍政権の言論弾圧は目に余るものがあることは周知の通り。風刺による権力批判の手を緩めずパロディの毒饅頭を作り続ける意志は固い。

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