【櫻井ジャーナル】 2025.12.13XML : 84年前の真珠湾攻撃も中国侵略戦争の一幕
国際政治【真珠湾攻撃から84年】
日本軍は1941年12月7日18時(UTC)にマレー上陸作戦を開始、同日18時18分(UTC)にハワイの真珠湾を攻撃、米英両国と戦争を始めた。今から84年間のことだ。この戦争で日本は敗北、ポツダム宣言を受けれた。
明治体制の日本は琉球併合から始め、台湾派兵、江華島事件、そして日清戦争、日露戦争から中国侵略へと進んだ。戦争は、明治維新から間もない時点から始められたと言える。
戦後日本はポツダム宣言を受け入れたところから始まるのだが、そこには「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とある。
カイロ宣言は「日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」としている。
【中国征服計画】
琉球諸島を含む諸小島のうち、どの島を日本領とするかは連合国が決めるということであり、日本に発言権はない。アメリカが独断で決めることもできないはずだが、琉球諸島をアメリカ軍は1950年代に「銃剣とブルドーザー」で軍事基地化していく。琉球国の復活をアメリカは認めず、自分たちの「空母」にした。台湾を中国侵略のための「空母」にさせないという宣言が「ひとつの中国」にほかならない。
アメリカのハリー・トルーマン政権は第2次世界大戦後の中国を国民党に支配させる予定で、20億ドルを提供し、軍事顧問団を派遣していた。ソ連ヨシフ・スターリンも蒋介石体制の樹立を容認している。
当時の戦力を比較すると、国民党軍は200万人の正規軍を含め、総兵力は430万人。それに対し、紅軍(コミュニスト)は120万人強にすぎず、装備は日本軍から奪った旧式のもの。勝負は明らかのように見えたのだが、1947年の夏に農民の支持を背景として人民解放軍(同年3月に改称)が反攻を開始。兵力は国民党軍365万人に対し、人民解放軍は280万人で接近、48年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになった。1949年1月には解放軍が北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りし、10月には中華人民共和国の樹立が宣言されている。トルーマン政権はこの体制を軍事的に倒そうとする。そのための兵站拠点になったのが日本にほかならない。
【朝鮮戦争】
そして1950年6月25日に朝鮮戦争が始まるのだが、その前からアメリカの破壊工作部隊は朝鮮半島で挑発作戦を展開し、小規模の軍事衝突はあった。その当時、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだ。
朝鮮戦争勃発後、山岳での戦闘に不慣れなアメリカ軍は劣勢になり、南端まで追い詰められる。そこで救いの手を差し伸べたのが旧日本軍の参謀たちだったとされている。
琉球諸島の西にある台湾も「空母」だと見なされていたが、日本が征服する前、そこに住む人びとの間には共通のアイデンティティがなかったという。
漢民族は祖先である氏族、あるいは故郷の福建省や広東省との結びつきをより強く意識、先住民族は部族的なアイデンティティで繋がっていた。日本の植民地になった後、台湾では共通のアイデンティティが形成され始めた。
【日本軍の参謀たち】
第2次世界大戦後、日本軍の将校、下士官、兵士が蒋介石軍によって処刑される中、日本は台湾との軍事的な協力関係を築いている。蒋介石が接近した旧日本軍大将の岡村寧次は海で戦犯として裁判にかけられたが、1949年1月に無罪の判決を受けてすぐに帰国、GHQ/SCAPの保護下に入っている。蒋介石が岡村の下へ曹士徴を密使として派遣したのは同年4月のことだ。
曹は岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して「台湾義勇軍」を編成することで合意、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。
その白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡っている。
白団へ軍事情報を渡していたのは「富士倶楽部」、つまり陸士34期の三羽烏と呼ばれた服部卓四郎大佐、西浦進大佐、堀場一雄大佐、あるいは海軍の及川古四郎大将や大前敏一大佐たちだ。服部はノモンハン事件で作戦指導を行った軍人で、1949年には市ヶ谷駅の近くに「史実研究所」をつくり、その後、約20年間に白団へ6000点ほどの資料を渡している。その中には自衛隊の教科書も含まれていた。白団メンバーのうち23名は自衛隊へ入っている。
服部や大前を含む旧日本軍の軍人、つまり有末精三陸軍中将、河辺虎四郎陸軍中将、辰巳栄一陸軍中将、服部卓四郎陸軍大佐、中村勝平海軍少将、大前敏一海軍大佐はアメリカ軍の下で活動している。このグループはKATO機関、あるいはKATOH機関と呼ばれた。
森詠によると、このうち辰巳中将を除く5名は東京駅前の日本郵船ビルを拠点にしていた。その3階には「歴史課」と「地理課」があり、歴史課は1947年5月から50年12月まで活動、地理課は朝霞のキャンプ・ドレークに移転した後、75年まで王子十条にあったアメリカ軍の施設内で活動していたと言われている。
歴史課には杉田一次陸軍大佐、原四郎陸軍中佐、田中兼五郎陸軍中佐、藤原岩市陸軍中佐、加登川幸太郎陸軍少佐、大田庄次陸軍大尉、曲寿郎陸軍大尉、小松演陸軍大尉、大井篤海軍大佐、千早正隆海軍中佐らが、また地理課には山崎重三郎陸軍中佐など参謀本部支那班の元メンバーが出入りしていた。こうした旧日本軍の軍人たちを統括していたのはGHQ/SCAPのG2(情報担当)を統括していた親ファシストのチャールズ・ウィロビー少将だ。(森詠著『黒の機関』ダイヤモンド社、1977年)
【Sakurai’s Substack】
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