「専門家を信じろ」が最も危険な言葉になった時代

オルタナ図書館—Alzhacker
※この記事は、Alzhacke図書館2025年11月19日付から許可を得て転載したものです。

https://note.com/alzhacker/n/n6f9dba84577c

客は料理人よりも、ごちそうをよりよく判断するだろう。

—アリストテレス、哲学者

はじめに

「専門家を信頼しろ」──2020年以降、私たちはこの言葉を幾度となく耳にしてきた。政治家も、メディアも、企業も、大学も、この魔法の言葉を繰り返し唱えた。公衆衛生の専門家が示す道筋に従えば、危機は必ず乗り越えられる。そう信じた人も多かったに違いない。

だが、実際には何が起きたのか。ロックダウンは本当に必要だったのか。マスクの効果は実証されていたのか。ワクチンは「安全で効果的」だったのか。専門家の予測モデルはなぜあれほど外れたのか。そして何より、なぜ異論を唱える専門家たちは検閲され、排除されたのか。

パンデミックを経験した今、私たち多くが痛感したのは、専門家への無条件の信頼がはらむ危険性であった。実は、この問題を90年以上も前に警告していた思想家がいる。ハロルド・ラスキ (Harold J. Laski)である。彼が1931年に発表した小論「専門家の限界」は、専門家支配がもたらす構造的問題を看破していた。この古典は、現代のパンデミック統治を予見していたかのような深い洞察に満ちている。

ラスキの警告は、今こそ読み直されるに値する。専門家は必要だが、彼らに最終決定権を委ねてはならない──この逆説的な真実を、私たちは痛みとともに学びつつあるのである。

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書籍・著者紹介

ハロルド・ラスキと「専門家の限界」

ハロルド・ジョゼフ・ラスキ(1893-1950)は、20世紀前半を代表するイギリスの政治理論家である。ハーバード大学、イェール大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで教鞭を取り、オリバー・ウェンデル・ホームズ判事やフェリックス・フランクファーターといった知識人と交流を持った。労働党の党首も務め、理論と実践の両面で影響力を持った稀有な知識人だった。

「専門家の限界(The Limitations of the Expert)」は1931年にフェビアン協会から発行されたパンフレットである。わずか20ページほどの小論だが、その洞察は驚くほど深い。現代社会における専門知識の不可欠性を認めつつも、専門家主導の政策決定がもたらす構造的危険を鋭く分析している。
論文:専門家の限界(2020)

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2020年、インディアナ大学のレスリー・レンコウスキーがこのテキストを再発見し、コロナパンデミックにおける「専門家を信頼せよ」という言説への警鐘として再出版した。90年の時を経て、ラスキの警告は驚くべき現在性を獲得したのである。

なぜ今この本なのか

パンデミックは、専門家支配という統治形態の本質を白日の下に晒した。公衆衛生の専門家たちは政策を主導し、異論は「反科学」として排除され、民主的議論は「緊急事態」の名の下に停止された。マスク着用義務について異を唱えた医師はSNSから追放され、学校の再開を主張した教育学者は「人命軽視」と非難された。日本でも実効性が乏しい「屋外マスク」が長期間続き、誰も責任を取らなかった。科学ではなく「恐れ」の政治が専門家の威信を背に動いていたのである。

この本は、専門家と民主主義の関係を根本から問い直す。読者は、医療政策に疑問を持つ人々、政府の科学的助言に違和感を覚えた市民、そして「科学的コンセンサス」という言葉の暴力性に気づき始めた人々である。ラスキの分析は、私たちが経験した混乱を理解するための思考の地図を提供してくれる。

専門家は不可欠だが、彼らに統治させてはならない

われわれの命運を委ねるほど賢明な専門家集団など、この世に存在しない。彼らが専門家であるがゆえに、人生全体が常に一部分のために犠牲にされる危険にさらされている。

—ハロルド・ラスキ

ラスキは冒頭から逆説的な主張を展開する。まず、現代社会において専門家が不可欠であることを認める。税制、都市計画、感染症対策──いずれも専門知識なくしては政策を立案できない。「素人の時代は終わった」と彼は言う。

しかし、だからといって専門家に最終決定権を委ねることは「まったく別の問題であり、性質が異なる」のである。その理由は、専門家には構造的な限界が存在するからだ。

ラスキが指摘する第一の問題は、専門家の「視野の狭さ」である。専門知識の深さは、常識的洞察の犠牲の上に成り立つ。効率工学者のF.W.テイラーは、労働者を「豚鉄生産マシン」としてしか見なかった。人間の意志や感情という「複雑さ」を忘れたのだ。19世紀初頭の経済学者たちは、労働時間の制限が必然的に繁栄の減少をもたらすと予測した。だが彼らには「一つの利益の道が閉ざされれば、人々は別の道をこれまで以上に探求する」という常識が欠けていた。

パンデミックでも同じことが起きた。疫学モデルは感染者数と死亡者数だけを見た。だが、ロックダウンがもたらす経済破壊、精神衛生の悪化、教育機会の喪失、家庭内暴力の増加──これらの「複雑さ」は計算式に入らなかった。専門家は自分の専門分野を「人生の尺度」にしてしまう。本来は「人生を専門分野の尺度」にすべきなのに。

専門家は新しい視点を嫌悪する

科学史ほど、専門家の保守性を示す領域はない。ジェンナーの種痘、ジュールの熱力学法則、ダーウィンの進化論、リスターの防腐法、パスツールの細菌理論──いずれも専門家集団から激しい抵抗を受けた。ガロアの群論は、ラクロワとポアソンという数学者たちによって「まったく理解不能」と評された。後にケイリーはこれを19世紀最大の数学的業績の一つに数えることになる。メンデルの遺伝法則もギブズの統計力学も、長年無視された。

なぜこのようなことが起こるのか。ラスキによれば、「専門家は新奇な視点の出現を嫌う」からである。これは証明が可能な科学の領域でさえそうなのだ。ましてや、測定がはるかに困難な社会問題において、専門家が過度な確信を持つべき理由はない。パンデミックで何が起きたか。イベルメクチンやヒドロキシクロロキンといった既存薬の再利用を提案した医師たちは「反科学」とレッテルを貼られた。自然免疫の重要性を主張した免疫学者は排除された。ロックダウンの費用便益分析を求めた経済学者は「人命を軽視している」と非難された。まさにラスキが警告した通りの事態である。

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専門家集団は「自分たちの階級に属さない者からの証拠」を軽視する傾向がある。医師は医師以外の意見を聞かない。弁護士は弁護士の改革提案しか受け入れない。「いかなる専門家集団も、自分たちのピレネー山脈の向こうに真実があるかもしれないことを否定する傾向がある」。

専門家は自分の結論を「事実」と混同する

すべての専門家の判断には、純粋に事実的でないものが含まれる場合、特別な妥当性を持たない価値体系が伴っている。専門家は自分の事実の重要性と、それについて何をすべきかという提案の重要性を混同する傾向がある。

—ハロルド・ラスキ

ラスキが指摘する最も重要な問題は、専門家が「事実」と「価値判断」を混同することだ。

イギリス外務省のある中国専門家は、「中国人はイギリス人とは異なる人間性を持つ」という前提で助言していた。これは専門知識ではなく、個人的偏見だった。だが彼にとっては「特別な経験から導かれた明白な結果」に見えた。アメリカ最高裁判所の判事たちは、修正第14条を19世紀の自由放任主義哲学の体現として解釈した。彼らの多くは、自分たちが単に「政府実験への無意識の嫌悪」を法律として表現していることに気づいていなかった。

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イギリスの労働組合法の歴史は、司法専門家たちが「労働者組織への嫌悪」を「公共政策」という便利な神話で偽装した試みの連続だった。

パンデミックではどうだったか。「マスクは効果的」という主張は、本当に純粋な科学的事実だったのか。ワクチンを唯一の出口とするシナリオを描いた政策決定者たちは、製薬企業からの資金供与を受ける専門家委員会のメンバーと密接に結びついていた。非薬物的介入──ビタミンD、運動、早期治療薬の提案──は科学的根拠を示しても無視された。そこには「何かしている感」を演出したい政治的動機と、既存の利益構造を守るための無意識の偏見が入り混じっていた。

専門家の「無言の大前提」──ホームズ判事の表現を借りれば──は、しばしば彼らの仕事の根底にある。そしてその前提は検証されることなく、「科学的結論」として提示される。

ラスキは鋭く指摘する。「専門家は、自分の主題を人生の尺度とする傾向があり、人生を自分の主題の尺度とはしない」。その結果が「学識と知恵の混同」である。優れた化学者、医師、技術者、数学者は、「人生についての専門家ではない。まさに化学、医学、工学、数学の専門家」なのだ。

そして高度に専門化すればするほど、周囲の人生について知らなくなる。

専門家統治が官僚制を生み出す

ケルビン卿は偉大な物理学者だった。海底ケーブル敷設における彼の発見は極めて重要だった。だが、ケーブル敷設会社の取締役として行動しようとしたとき、人を見る目のまったくない彼は深刻な財務的損失をもたらした。

—ハロルド・ラスキ

専門家が公共政策の最終決定権を持つシステムは、必然的に官僚制の欠陥を発展させる。ラスキはこう警告する。

第一に、専門家は「大衆の心の動きと気質への洞察」を欠く。彼らは自分の「私的な万能薬」を、公共の需要を無視して推し進める。
第二に、自己満足と自己満足に陥る。
第三に、技術的成果を社会的知恵と間違える。そして第四に、自分の施策が効果的に適用できる限界を見誤る。

なぜか。「専門家は定義上、普通の人々との接触を欠いている」からだ。専門家は普通の人が何を考えているか知らないだけでなく、「どうやってその考えを発見するかも知らない」。実験室や書斎で禁欲的に過ごしてきた専門家にとって、「平均的な心の内容は閉じられた本」なのだ。

パンデミックでまさにこれが起きた。公衆衛生の専門家たちは、ロックダウンが中小企業経営者、フリーランサー、シングルマザー、高齢者の孤立した生活にどんな影響を与えるか理解していなかった。厚労省の専門家会議はデータの数字だけを追い、飲食店主の倒産や子どもの抑うつ、医療現場のスタッフの過労など「生身の現実」に耳を傾けなかった。

現場の医師が体感する副反応の増加も「因果関係不明」で片づけられた。官僚と専門家の密室化が、現場の声を制度的に消したのである。彼らは自分の技術的公式が「一般的な会話の言葉に翻訳不可能」であることに気づかなかった。

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ラスキは印象的な比喩を使う。「専門家にとって、普通の人は遠く、抽象的で、異質だ」。だから専門家は人々を説得する術を知らない。彼らは「人々の生活の実質から遠ざかっている。人々の関心、希望、恐れは、かつて専門家が扱ったカウンターではなかった」。

政治家の役割──専門知識と常識の仲介者

政治家は専門知識を利用できるが、その経験に参加しない形で人々の才能を活用する術を学ぶ。彼は対立する見解をどう説得するかを発見する。理由を示さずに決定を下す方法を見つける。

—ハロルド・ラスキ

ではどうすればいいのか。ラスキの答えは明快だ。専門家は「手元に置くべきだが、頂点に立たせてはならない」。

政治家──ラスキは「政治家(statesman)」という言葉を使う──の役割は、専門家と大衆の間の「アイデアの仲介者」として機能することだ。政治家は「専門知識に関連した最高の常識」を体現する。彼は「可能性の限界」を示す。処分可能な材料の観点から「何ができるか」を測定する。

長年公務に携わってきた人物は、「その経験に参加することなく、人々の才能を活用する術」を学ぶ。対立する見解をどう説得するかを発見する。理由を示さずに決定を下す方法を見つける。原則に立法的効果を与えた場合の「おそらくの結果を直感的に判断」できる。専門知識の様々な側面を「まとまったプログラムのように見えるもの」へと調整する能力を持つ。

ラスキは1906年から1911年のイギリス陸軍省におけるハルデーン卿の仕事を例に挙げる。優れた大臣と凡庸な大臣の違いは、「官僚を道具として活用する能力」にある。大臣は専門家よりも所管事項についてはるかに知らない。あらゆる段階で彼らの結論の妥当性を推測しなければならない。時には同等にバランスの取れた選択肢の間で選ばなければならず、時には官僚が反対する政策を決定しなければならない。

成功は「専門知識の個別の糸から政策を織り上げること」にかかっている。大臣は「政策の大きな原則」を発見し、それを成功裏に運用するための条件を見つけるために専門家を使わなければならない。「物事を大きく見る力、単純化する力、調整する力、一般化する力」を持たなければならない。

その本質は「最終決定がアマチュアによってなされ、専門家によってなされないこと」である。これが政策に「一貫性と比例感」を与える。専門家だけの内閣は決して偉大な政策を考案できない。彼らの競合する専門性が衝突するか、類似しているために視点が無益になるかのどちらかだ。

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成功は「専門知識の個別の糸から政策を織り上げること」にかかっている。大臣は「政策の大きな原則」を発見し、それを成功裏に運用するための条件を見つけるために専門家を使わなければならない。「物事を大きく見る力、単純化する力、調整する力、一般化する力」を持たなければならない。

その本質は「最終決定がアマチュアによってなされ、専門家によってなされないこと」である。これが政策に「一貫性と比例感」を与える。専門家だけの内閣は決して偉大な政策を考案できない。彼らの競合する専門性が衝突するか、類似しているために視点が無益になるかのどちらか。

アマチュアこそが宴を評価できる

客は料理人よりも宴会を良く評価するだろう。

—アリストテレス

ラスキは、アリストテレスの「家庭的な知恵」を引用する。「客は料理人よりも宴会を良く評価するだろう」。

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専門家に政策の材料を定式化させることがいかに重要であっても、「最終的に重要なのは、政策の結果に対して、それによって生きることになる人々が下す判断」である。政府が行うことは、専門家に正しく見えるだけでは不十分だ。その結果は「普通の平均的な人にとって正しく見えなければならない」。そして彼の判断を発見する唯一の方法は、「意図的にそれを求めること」だ。

これは政府の「本当に最終的な試験」である。少なくとも相当な期間にわたって、「大衆の願望に反する社会政策を維持することはできない」からだ。

だが、私たちは事態の複雑さから、それらの願望の「妥当性と重要性を過小評価する傾向」がある。普通の人の無知に非常に感銘を受けているため、「彼の見解は重要でないものとして脇に置かれるかもしれないと考える傾向」がある。今日の統治術に関する文献の少なからぬ部分が、「普通の人はもはや社会経済において居場所がない」という想定の上に構築されている。

金本位制の技術的詳細を普通の人は理解していない。それは事実だ。電力供給の適切な地域について彼に相談するのは愚かだ。変化する温度と負荷の下で舗装が受ける作用を試験するために政府が賢明に費やす金額について、彼が判断できるはずがない。

だが、これらの技術的詳細に関する普通の人の無知と無関心から、「専門家に自分自身の決定を下させることができる」という結論は決して出てこない。なぜなら、「金本位制の結果は普通の人の生活に明白に書かれている」からだ。非効率的な電力供給の結果は彼に毎日明らかだ。道路を使うのは彼の自動車であり、彼は提供される道路サービスの質について自分の判断を下す。

平凡な人間の判断が重要なのは、彼らこそが政策の「結果」を生きる当事者だからだ。

金融の仕組みを理解していなくても、その結果として失業し、貧困に陥るのは一般の人間である。

通信インフラの構造を理解していなくても、政府のデジタル一本化政策のもとでひとたび大規模通信障害が起これば、支払いも行政手続きも麻痺する被害を被るのは一般市民である。

ワクチンのメカニズムや臨床データの複雑さを理解していなくても、急速な承認と接種拡大の中で副反応や長期的影響に苦しむのは大衆である。

感染対策の指針や学級閉鎖基準を理解していなくても、子どもたちが友人との関係を絶たれ、発達の機会を失うのは親と教師である。

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ある学校の「友達の似顔絵展示」出典:Dr.Dske@3636

ラスキはこう主張する。「政府が下す決定は、専門家にとって正しく見えるだけでなく、その結果が平凡で普通の人間にとっても正しく見えなければならない」。これは理想主義ではなく、統治の実践的必要性だ。なぜなら、長期的には、民衆の意志に反する社会政策を維持することはできないからだ。

専門知を超えて──統合的知恵の必要性

ラスキが1931年に提起した問題は、2025年の今日、さらに深刻化している。専門知識は爆発的に増大し、社会の複雑性は増し、技術の力は前例のないものになった。だが、この専門化の深化は、ラスキが警告した危険を軽減するどころか、増幅させている。

現代社会が直面している課題──気候変動、パンデミック、デジタル監視、金融システムの不安定性、人工知能の台頭──は、すべて高度に専門的な知識を必要とする。同時に、これらはすべて、専門家だけでは解決できない問題だ。なぜなら、これらは技術的問題であると同時に、価値の問題、権力の問題、人間の生き方の問題だからだ。

ラスキの主張の核心は、「知恵は専門化によっては得られない」ということだ。

知恵とは、「人材をどう活かすかを知り、理想論ではなく現実で機能する方針を見極める力」であり、「単に専門知識を持っていることではなく、その知識を、正しい瞬間に正しい方向で使いこなす力」なのである。

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