第45回 身柄拘束を利用した自白調書は証拠能力なし
メディア批評&事件検証今市事件は、被害女児の殺害を検察官に認めたとされる自白調書以外に何の証拠もない事件である。それでいて、一審から最高裁まで無期懲役の判決を言い渡すのだから不思議な裁判と言わざるを得ない。
こうなると、裁判官人生の中で30件もの無罪判決を言い渡して「証拠に厳しい裁判官」と検察に恐れられた木谷明元裁判官に今市事件の裁判をどう見ているか、見解を伺うしかない。
案の定、呆れ果てていて、木谷元裁判官は「別件である商標法違反罪による起訴後の勾留中に警察官が被告人に激しい暴力を振るった疑いが払拭されていないとしながら、その後検察官による取り調べで作成された自白調書の任意性を肯定した点は実に問題だ」と言い切った。
木谷元裁判官は、専門誌『判例時報』(2020年1月1日号)に「今市事件控訴審判決への五つの疑問」と題した論考を掲載し、判決内容を痛烈に批判した。
栃木県警の松沼史剛刑事の暴行は、勝又拓哉受刑者を別件の商標法違反罪で勾留中の2014年3月19日の取り調べ中に起きた。勝又受刑者は同年1月に商標法違反容器で現行犯逮捕された。
勝又受刑者が暴行を受けたのは、松沼刑事から女児殺害のことを聞かれ、殺害を否定する供述をしたときのことだった。いきなり、左頬を平手打ちされて椅子から転げ落ち、壁に額の右側をぶつけて負傷し、病院で治療を受けた。
それにもかかわらず、①3月19日の暴行から1週間後には松沼刑事が担当から外された、②4月10日には、起訴後の勾留を利用した殺人罪の取り調べが中断され、殺人罪で逮捕された6月3日までは1日を除き殺人罪での取り調べは行なわれていない、③本件自白調書を作成した検察官の取り調べでは「それまでの起訴後勾留中に行なわれた取り調べにおける供述にこだわる必要のないこと」を重ねて注意するなどして「穏やかに発問」されている、そして、④原審弁護人による接見も頻繁に行われていることなどの事情を指摘した上で、裁判所は検察官によって作成された自白調書の任意性を肯定した。
判決の中で、「疑いは払拭されていない」とした松沼刑事の暴行は、「被告人が平手で左頬を平手打ちされ、椅子から転げ落ち、壁に額の右側をぶつけて負傷し、その結果、被告人は治療を受けたというもので、極めて強烈である。平手打ちをされた結果、被告人が椅子から転落し額を壁にぶつけて負傷するという事態は、取調官が利き腕で被告の顔面を思い切り殴打した場合でなければ、惹起されないはずである。警察官からこのような激しい暴行を振るわれた若年の被告が取調官に対し強い恐怖心を抱いて抵抗力を失うことは、誰にでも容易に理解できることである」と指摘した。
木谷元裁判官は、松沼刑事から受けた激しい暴行の影響を余りにも過小評価しているのではないかと指摘する。
被告人が受けた激しい暴行を前提とすると、殴打した松沼刑事が1週間後に取り調べを外されたこととか、検察官が「これまでの取り調べにこだわる必要がない」として穏やかに取り調べたこととか、弁護人との接見がかなりの回数行なわれたことなどは、被告人の恐怖心を解消するにはあまりにも粗末な事というべきではないか。被告人はその間、引き続き、警察の留置施設に身柄を拘束され続けていて、中断期間を除き、厳しい取り調べを受けていたのである。
警察官から受けた強烈な暴行によって抵抗力を失った被告人が身柄を釈放されたわけでもないのに暴行の影響から解放されたと考えるのは、暴行による影響を余りにも過小評価し、他方、①から④の事情を過大評価しているというほかない。ここまでくると、一種の経験則違背とも言われてもやむをえないのではないか。
本判決は、「殺人罪による身柄拘束に先立ち、被告人が別件の商標法違反罪による起訴後の身柄拘束を利用して殺人について44日間にわたる取り調べを受けたこと、その取り調べは、余罪の取り調べ(すなわち任意捜査)としては社会通念上是認されない」ものであったことを認めている。
社会通念上是認されない任意捜査とは、はっきり言えば、「強制捜査」であるから本判決の認定によれば、被告人は本件により、身柄拘束を受けて取り調べを受ける前に44日間も、本件に関する強制捜査を受けていたことになる。
したがって問題とされるのは、このような事実関係を前提として本件自白調書の証拠能力を肯定することができるのか、という点になるはずである。商標法違反罪による身柄拘束中に、被告人が殺人事件について実質的な身柄拘束を44日も受けていたとなれば、その後殺人罪について重ねて身柄拘束することは許容されるはずがなく、その間に作成された自白調書の証拠の能力を肯定することはできない。
殺人罪による身柄拘束及びその間の取り調べを適法とすることは、刑事訴訟法の定める「一罪一勾留の原則」から実質的に潜脱することになるからだ。
許容されない身柄拘束を利用した取り調べで作成された自白調書は、そもそも証拠能力を否定されなければならない。
松沼刑事は14年2月にも勝又受刑者が女児殺害を否認すると、「今日は認めるまで寝かせない」と言って、午後11時過ぎても取り調べをやめず、殺害を認めたら取り調べが終わった。翌20日に勝又受刑者が否認すると、午後からの調べで「吉田有希ちゃんを殺してごめんなさいを50回言うまで晩飯抜きだ」と言われ、勝又受刑者は前日のこともあって、本当に晩飯を食べさせてもらえないと思い、仕方なく殺害を認めたる。50回言い終わった後は、恐怖と疲労困憊だったという。
これらは違法な取り調べの一部だが、栃木県警内部ではどのように処理しているのか、調査する必要がある。処分なしならばとんでもないことだ。
この今市事件では勝又受刑者を有罪にするために捜査陣がいろんな違法行為をやらかしている。すでに時効が来ているものがあるが、あきらめてはいけない。手段はまだある。実は時効がないのもある。それは、警察内規の懲戒処分だ。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。