【特集】ウクライナ危機の本質と背景

権力者たちのバトルロイヤル:第39回 ゼレンスキーの「正体」

西本頑司

・ゼレンスキーとオリガルヒ

世界中で繰り広げられる「権力者たちのバトルロイヤル」。そこに新たに参戦したのがウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーだ。

Ukrainian president speaks news conference during plenary session in european Parliament russian invasion of Ukraine stop war concept horizontal vector illustration

 

2月の開戦以来、ゼレンスキーは「ロシアと毅然と戦うウクライナの指導者」として世界的な知名度を得た。コメディアン出身とあってか、感情に訴える表情と語り口には定評があり、また、なにかと横暴で強引なウラジーミル・プーチンの「ヒール」ぶりがゼレンスキーの「ベビーフェイス」をいっそう際立たせている。

ゼレンスキーに関する報道は今現在も少なくないが、一方で政治実績のないまま大統領となり、政治的結果が出る前に戦争に突入したため、政治家としての実力が見えにくい。そこで今回は、ゼレンスキーとは何者なのかを探っていきたい。

1978年、ロシア語圏のウクライナ東部出身のユダヤ人。大統領になるまでウクライナ語ができなかった。なぜ、ユダヤ人が大統領にと思うだろうが、もともとウクライナはユダヤ教の巡礼地「ウマン」があり、ユダヤ人は帝政ロシア、ソ連の時代に都市部で商工業や金融を営んできた。

現在もユダヤ人の社会的な地位は高く、実際、絶大な政治権力を持っていたレオニード・クチマ第2代大統領の後継者となった娘婿ヴィクトル・チンチュークや、ウクライナ最大のオリガルヒ(新興財閥)「プリヴァト」を持ち州知事にもなったイーホル・コロモイスキーなどのユダヤ財閥・政閥が存在する。

裕福なユダヤ家庭で生まれたゼレンスキーはキエフ国立経済大学を経て、先のコロモイスキーが所有するテレビ局でコメディアンとして活動、人気を得る。

在日ウクライナ人によれば「ウクライナで知らない人はいない」といい、日本のタレントにたとえれば爆笑問題の太田光が近いという。

「日大出身でも太田が政治発言や選挙特番の司会をするなど、多少インテリ扱いを受けているのと同様、ゼレンスキーもコメディアンといっても、政治を語れるインテリ枠のタレントだった」(同前)。

その「ウクライナのインテリ系芸人」を一躍大統領へと押し上げたのが、15年に始まったドラマ「国民の僕」である。開戦後、日本でもネットフリックスで全話放送されているので観た人もいることだろう。

ストーリーは高校の歴史教師(ゼレンスキー)が「政治批判をする」動画がバズり、その余波で大統領選に出馬、当選してしまう。そして“一般人の感覚を持つ大統領”となったゼレンスキーが目の当たりにするのが、すさまじい政治腐敗の実態だった。

現実問題としてウクライナは約30の財閥がウクライナの富をほぼ独占している。とくにオリガルヒは、その業界の市場を完全に掌握。たとえば先のコロモイスキーのプリヴァトは国内の民間銀行を完全に押さえている。

22兆円の資産を持つウクライナ最大のオリガルヒ「SOM」を所有するR・アフメトフは、ドンバス地方の実質支配者であり、国内の鉄鋼業をすべて牛耳っている。今現在、ドンバスは戦地となり、その支配力と資産は減っているとはいえ、政財界への影響力は、いまだに大きいという。

Words ‘Oligarchy’ in a Light Box Trend for a Rise of the Oligarch Theme. This is part of my Signs for 2021 for Social History.

 

ウクライナ庶民は巨大財閥が市場を独占しているのはよく知っている。その巨大財閥が政治家と癒着して独占禁止法といった法律を骨抜きにしてきた。その結果、ウクライナ国民は長引く不況で貧困にあえぐことになったのだ。

ドラマでもIMF(国際通貨基金)がインフラ整備といった公共投資による景気回復策用に緊急融資するが、財閥と政治家、官僚・役人たちが次々と着服と横領を繰り返すために人々の仕事も増えず、景気は回復せず、インフラは老朽化したまま庶民は苦しい生活が続く。この構図をドラマではコメディタッチでわかりやすく描いている。

なぜ生活が苦しいのか。多くの庶民が抱える疑問に「答える」ことでドラマが大人気になったのは事実だろう。しかし、それだけで主演俳優が大統領に当選することはない。

ドラマがスタートした2015年を前後して、クリミア危機によってウクライナでは、独立以来、初めて民族意識と国家への帰属意識が高まった。ここが極めて重要なのだ。言葉にするならばウクライナの「ウクライナ化」である。この民族的アイデンティティの爆発こそ、コメディアンを大統領へと押し上げた最大要因であったのだ。

・アイデンティティの変化

現在のメディア報道を見れば、ウクライナ人は強い「愛国心」を持つ民族と誰しもが思うはずだ。祖国を侵略する超大国ロシアに毅然と立ち向かう国民性だ、と。だが、そんな愛国心溢れるウクライナ国民は、91年の独立から14年まで存在しなかった。むしろ国家への帰属意識と民族的アイデンティティの希薄さがウクライナ人の特徴だったぐらいであろう。

少し説明したい。1991年の独立は、過去の独立闘争とは違い、ロシアからの独立ではなく、冷戦で敗れた「ソ連」からの離脱に近かった。宗主国を「EU」へと切り替えたと言い換えていい。

17世紀のピョートル大帝から女帝エカテリーナの時代のなか、ウクライナ国土の大半は帝政ロシアによって征服されて「小ロシア地方」となり、それがソ連時代も続いてきた。ロシアの支配は帝政時代、続くソビエト時代も過酷で、徹底したロシア同化と民族弾圧が行なわれてきた。

ソ連時代は連邦構成国とはいえ、実態は完全支配下である。つまり1991年の独立は、ロシアの支配から抜けだし、「ウクライナ人が安心して暮らせるウクライナの領土とウクライナ人の政府」を作ったにすぎなかった。ようは「高度な自治区」である。ロシアがウクライナに政治介入さえしなければ十分で、その意味でいえば「脱ソビエト」が実態に近く、必ずしも「反ロシア」ではなかったのだ。

地政学的にも隣り合ったロシアとEUとは「仲良くする」。また300年以上にわたる「ロシア化」の影響もあって、ロシアを宗主国と考える国民も多かった。ロシアが過度な政治介入をしなければ、親ロシア感情は自然に強まる。これがウクライナ国民の民族的アイデンティティと国家への帰属意識を阻害してきたともいえよう。

実際、独立から25年近く、ウクライナ政府は、ロシア支配下における弾圧や独立闘争の「歴史」をロシアとの関係悪化を考えて避け続けてきた。日本では世界史で学ぶ1932年の「ウクライナ大飢饉」ですら、ソビエト政府の失政で被害が出た程度しか学校教育で扱わず、過去の独立闘争の指導者たちを「民族的英雄」として讃えることもなかった。

こうして国家としてのウクライナの存在価値は「ウクライナ人がウクライナ人のために政治を行なえる」ことであり、その「自治エリア」に住むのがウクライナの「国民」だったのだ。

 

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西本頑司 西本頑司

1968年、広島県出身。フリージャーナリスト。

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