【連載】無声記者のメディア批評(浅野健一)

第4回 再審請求目指す今市事件・勝又拓哉氏と家族へ支援を

浅野健一

・控訴審判決直前にテレビ朝日が捜査批判番組

この事件で、女児の司法解剖を担当した本田克也・筑波大学元教授(法医学)は、遺体に付着していた粘着テープから検出された複数のDNA型の中に「真犯人の型が混入している。再鑑定すれば、絶対に真犯人を突き止められる」と指摘し、再鑑定を提案したが、地裁は無視した。県警のDNA鑑定の問題は梶山氏が継続して問題提起している。

テレビでは、テレビ朝日が18年7月15日午前4時半から5時に「テレメンタリー2018」で「崩れたシナリオ〜検証・今市事件〜」が警察捜査の出鱈目さを鋭く衝いている。

https://www.youtube.com/watch?v=sM2SIH1amFE

番組は東京高裁判決の直前に放送されたが、日曜日の午前4時半開始の番組では、見た人が少ないだろう。

番組では、殺害現場が被告人の勝又氏が自白した山林から、茨城県・栃木県、またその周辺にまで拡大され、遺留品から勝又被告のDNAは全く発見されない一方、捜査幹部など第三者のDNA型が検出されていたと指摘。控訴審は異例の展開を見せているとして、押田茂實・日本大学名誉教授(法医学)、藤田義彦・徳島文理大学元教授(元徳島県警科捜研)、木谷明弁護士(元裁判官で元中央大学法科大学院教授)、浜田寿美男・奈良女子大学名誉教授(心理学)らにインタビューしている。

栃木県警は18年6月20日に番組の取材に対し、「今後の審理に関わるため、コメントは差し控える」と電話で答えた。

・一人で子ども5人を育てた母ら家族が支援

勝又氏の母親のイミコさんは台湾生まれ。台湾の男性(2014年死亡)と結婚し、台北で長女、拓哉氏を産んだ。その後、男性と離婚して来日、日本人と結婚し、次男、次女、三女を産んでいる。日本人の夫(1995年に離婚、故人)は病弱で、夫の両親の世話もして、子供5人を女手一つで育ててきた。

国家犯罪であるでっち上げは勝又氏の家族の生活を破壊した。母親は「拓哉のことが分かると、即クビになる。何回も仕事を失い、今は介護の仕事をしている」と話した。家族の中には、うつ病などの精神疾患を患った人もいる。家族によると、県警の捜査が進むと、県警記者クラブの社員記者たちが親類、友人、知人の勤務先まで押し掛けて、人間関係が壊された。

それでも、兄弟姉妹たちは自身で裁判資料などをあたって、権力犯罪を見抜き支援体制を整えている。

勝又氏の無実を確信する家族は一丸となって支援体制をつくっている。刑事裁判の元弁護団長だった今村核弁護士のほか、泉澤章、横山雅、一木明、高橋拓矢、服部有各弁護士ら9人の弁護士が再審に向けた勉強会を月1回の頻度で開催している。

筆者はネットでの発信の中心になっている勝又氏の母親と弟に取材している。弟は同日兄と8年ぶりに面会した。弟は「家族の家計を支えるため、兄を支援する余裕もなかったが、これからはしっかり再審が実現するよう家族みんなで支援する」と語った。

・8年ぶり面会して冤罪の兄の解放を目指す弟

家族の中心にいる弟は私の最初の取材に、「警察が兄を殺人で逮捕した時、そんなことがあるはずがないと思ったが、家も捜索されて、いったい何があったのかとかなり動揺した。その後、自分で事件のことを詳しく調べて、兄はやっていないと確信した」と率直に語っている。

弟はその後、8月12日と22日、勝又氏と面会した。弟に聞いた。

―面会での勝又氏の様子はどうだったか。

「すこぶる健康とのことだった。この間まで猛暑だったので、部屋は涼しいか聞いてみたら、廊下にはエアコンがあるものの部屋には扇風機が1台だけという。暑いだろうなと、ちょっと心配になった」。

―コロナの影響はあるか。

「刑務所内では職員から数人、コロナ陽性者が出て、入浴が3回から1回に減らされて、それは残念がっていた。8月22日まで工場も停止していたが、同日再開したと聞いた。ところが、9月2日に職員のコロナ感染が判明し、8日まで工場が停止している。兄の周りでは感染者はいないそうだ」。

―刑務所ではどんな労役をしているのか。

「金属加工作業をしている。手に職をつける事ができ、またリーダーからも仕事ぶりを認められ、とても充実していると言っている。加えて、最近、職位が1ランク上がったと言って、嬉しそうに赤い線の入った帽子を自慢していた。几帳面な性格で、きっちり仕事をこなしているのだろうと想像した」。

―FB、ユーチューブを始めた経緯は。

 

「文字面より気持ちを伝えたい場合がある。母の強い気持ちを文字にすると中々伝わりにくいなと思ったのが一つ。次に今市事件は、権力犯罪であり、重大な人権侵害や、司法の根幹に関わる問題を顕在化させた事件と認識しているが、内容が複雑で有識者も踏み込んで語っているため、もう少し一般の人にもわかりやすく情報を発信できるようにしようと思い、開設した。収録の場所は、自宅だ」。

―視聴者からの反響はどうか。

「想像したより短期間でかなり再生されているので、事件を詳しく知りたいと思ってくれる熱心な方が多いのだなと改めて実感した。同志と繋がることができるようになり、その点は良い意味で想定外の出来事だった。この事件についてデマ情報が世間に拡散されており、それを訂正する方法として拡散力のあるツール(FB、Twitter、YouTube)が必要だった。

ネットでホームページ(HP)も作ったが、あまり反響がなかった。これから世論に訴え報道されるようになった際、FBなどの情報を今市事件の情報ソースとして引用してもらえるようにしようと考えている。時間をかけて少しずつ増やしていきたい。いずれ始まる再審の際に、私たちの言葉をダイレクトで届けられる媒体にしたい。また、マスコミなどの対応を全てFBに誘導し、なるべく平穏な日常が壊されないようにと思っている」。

―FBにアップしている似顔絵は誰が描いたのか。

「絵は苦手で、ネットの似顔絵作成ツールを使って私が作った」。

―一審の裁判員裁判で、検察が法廷で見せた取り調べの録画映像は巧妙に編集されて、誤った心証を与えたと思うがどうか。

「冤罪主張の裁判で、裁判員裁判は難しい。取り調べの全部を可視化しないから、こうなる。録音録画されていなかった別件勾留中の刑事の取り調べで『Yちゃんを殺してごめんなさい(Yは被害者の名前のイニシャル、仮名は筆者)』と50回も言わされて、『検事に無実って言うなよ』と言われて、検事に無実だと言えなかった。そして、東京高裁が有罪の根拠とした母親宛ての手紙も、留置場の看守に書き直しを命じられ、言われるままに書いたものだった」。

―高裁から弁護した今村核弁護士は「警察署の看守が手紙に書くことを指示した」と私の取材に答えた。また、元裁判官の木谷弁護士は「手紙は捜査官の強制」と断じている。

「最初に書き直す前の伝えたい内容は、母が白血病になった時、ちゃんと定職につかなかったことを謝りたかったこと。ブランド品を売り続けたのは、自分が定職についていないため、続けざるを得ないのは、自分のせいであること。今市事件の取り調べを受けていること、取り調べがすごく厳しく、母の方は大丈夫なのかを聞きたい、自分は厳しい取り調べを受けてやっていない事件を自白してしまったこと、それによってみんなに迷惑をかけてしまうこと、母はちゃんと病院に連れて行ってもらえているのか、などのことを聞きたいのと伝えたくて手紙を書きました、と言っていて、改めて、この手紙を重要証拠とした裁判体に疑問を抱いた」。

―テレビ朝日の「テレメント2018」の制作の経緯は。

「国民救援会の会員の中に、テレビ朝日の制作者を知っている人がいて、ディレクターが今市事件に興味を持って追いかけて、実現した」。

―家族は、被害者遺族の心情について気に掛けているが、冤罪事件では、遺族が加害者ではない人を犯人として憎むという深刻な被害を与える。被害者遺族は、有罪とされた人が冤罪だと分かっても、なかなか受け入れられない。冤罪は冤罪被害者だけでなく、犠牲者遺族の人生も破壊する。

「最近、情報発信を始めたことで、被害者遺族の方を苦しめているのでは、と考えない日はない。また、真犯人についても、自首してくれないかと思ってしまう。私としては、多くの人に事実を知ってもらい、日本の司法を過剰に信用してはいけない、法律についてもっと知って欲しいと思っている。少しずつ、こつこつと積み上げていこうと思う」。

・再審無罪で国賠にも勝訴の「布川事件」桜井昌司氏夫妻が支援

今市事件では、青木惠子氏の他、1967年に茨城県で起きた「布川事件」で無期懲役刑を科せられ再審無罪を勝ち取って、国賠訴訟に完全勝訴した桜井昌司氏(75)も勝又氏を支援している。

桜井氏は知人の杉山卓男氏(故人)と共に強盗殺人罪で起訴され、1978年無期懲役が確定した。96年11月仮釈放。99年7月、支援者の惠子氏と結婚。11年5月、水戸地裁土浦支部で杉山氏とともに強盗殺人罪の無罪判決を得て、同年無罪が確定した。

桜井、杉山両氏は何度か同志社大学で講演してくれた。桜井氏は、「再審法改正をめざす市民の会」の共同代表や「冤罪犠牲者の会」の事務局を担い、被疑者取り調べの全面可視化を求める活動や冤罪被害の救済の活動を行っている。

8月12日東京・渋谷で、桜井氏の半世紀にわたる闘いを追った映画「オレの記念日」(金聖雄監督)のマスコミ対象試写会があり、見てきた。映画のエンディングロールに、桜井氏らが支援している冤罪事件のリストが映り、その中に、「今市事件」があった。

桜井惠子氏はFBにこの試写会のことを次のように書いていた。その中で4年前の投稿を再録した。

<今市事件の一審判決に、私自身も大きな疑問を抱いたことを思い出した。「録音、録画の一部可視化」の危険性が大きく叫ばれていたなか、被告の勝又拓哉さんは、法廷で取り調べの状況を語り、嘘の自白をせざるを得なかったことを訴えたと言う。他に証拠があるわけではなく、裁判員の皆さんも「判断が難しかった」と言い、「あのビデオが判断の材料になった」と後に語られた方もいたのだった。(略)
高裁は一審で問題にならなかった材料を持ち出し、それを証拠に新たに有罪とするという正常な裁判とは言えない判断をした。最高裁は、そんな高裁判決に疑問を持つことなく追認した>。

惠子氏は、勝又氏を有罪確定になる前に救い出したいと、毎月の最高裁要請を支援する会も救援会も一緒に続けた。

<勝又拓哉さんの手紙は、(20年)2月末に私の手元に届いていた。 勝又さんは、「外で会いたい」と書いてきていた。私は、棄却決定の知らせを受けて、電報を打った。今は絶望の中にあるだろうが、多くの人が勝又さんの無実を確信し、国の誤りを正すため一緒に闘おうとしていることを少しでも伝えたかった>。

惠子氏は私の取材に、「今、私は勝又拓哉さんを救い出すため、支援活動をしている。再審の闘いが始まるが、どうしてこうも日本は冤罪犠牲者を生むことに反省がないのか、と怒りでいっぱいだ」と述べた。

「今市事件への私の関わりは、宇都宮地裁判決報道を目にしたときからだった。当時、取り調べの一部可視化の危険性が言われていた時期に、裁判員が『判断が難しかった。(検察が証拠として出してきた)あの映像がなかったら…』と言うようにインタビューで答えていたこと。一方、勝又さんは、事件への関与を否定し、過酷な取り調べ状況を訴えていることも新聞で報道されたのでとても気になっていた。

また、同時に被害者の発見された場所が茨城県常陸大宮市の山林であり、当時警察の捜索隊を直接私の生活範囲内でも目にしたり、耳にしたりしていたことを思い出し、強く冤罪の可能性を感じた。

その後、茨城にも『勝又拓哉さんを支援する会』ができ、会と一緒に支援を始めた。被害者の遺体遺棄現場の現地調査も企画、参加した。
夫を通じて、拓哉さんのお母さん、支援する会を通じて他のご家族にもお会いし、拓哉さんの無実を確信した。

もちろん拓哉さんから頂く手紙からも、人柄が伝わってきて、一日も早く再審開始決定、再審無罪判決の日が迎えられるように、と思っている。再審請求にあたって、新たな事実も出てきているようで、私なりに、出来ることで今後も勝又拓哉さん支援をしていくつもりだ」。

桜井昌司氏は千葉刑務所で29年間、服役しており、「次にシャバに出るのは拓哉くんだ」と勝又氏の家族を励ましている。桜井氏は19年から直腸がん(ステージ4)を患いながら、各地の冤罪者を支援している。

桜井氏は私への手紙(8月20日)で、「人は体験しなければ判らないことがある。私は冤罪も含めて、こうして特別のことを知り、味わえていることは、幸せだと思っている。きっと先生も同じだろうと思っていますが、それを力として、これからも先生のジャーナリストとしての道が広がるものと思ってもいる。癌との闘いは大変だが、お互いの、それを楽しみながら頑張りましょう」と書いてくれた。

私にとって、今市事件は特別の事件だ。同志社大学の浅野ゼミの元学生が14年4月に毎日新聞記者となり、宇都宮支局に赴任し、2年目に今市事件を担当し、私の取材に協力してくれたが、入社後約3年で退職した。県警キャップになっていた彼女が辞めた理由が分からない。

私は20年にがん闘病で、しばらく外での取材ができずにいた。また、足利事件で菅家氏を支えた西巻糸子さんらが一審の宇都宮地裁で「足利事件を繰り返すな」などのプラカードを掲げ、勝又氏を支援する会を作ろうとしてカンパを集め、勝又氏の母親と連絡を取ろうとしたが、一審弁護団を率いた一木明弁護士の協力を得られず、断念した。

今回、青木惠子さんとの再会で、気になっていた勝又氏の家族に会うことができ、勝又氏とも面会できた。県警が検挙率を上げるため、外国生まれの勝又氏を犯人にでっち上げたと私は思っている。警察のリークをスクープとして、勝又氏の冤罪づくりに加担した下野新聞は万死に値する。

「無実は無罪に」という信念で、勝又氏の自由を取り戻すためにできることをしたい。

 

※ご支援のお願いのチラシ作成しました。ダウンロードはこちらまで。

https://isfweb.org/2790-2/

「独立言論フォーラム(ISF)ご支援のお願い」の動画を作成しました!

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浅野健一 浅野健一

1948年、香川県高松市に生まれる。1972年、慶應義塾大学経済学部を卒業、共同通信社入社。1984年『犯罪報道の犯罪』を出版。89~92年、ジャカルタ支局長、スハルト政権を批判したため国外追放された。94年退社し、同年から同志社大学大学院メディア学専攻博士課程教授。2014年3月に定年退職。「人権と報道・連絡会」代表世話人。主著として、『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、講談社文庫)、『客観報道』(筑摩書房)、『出国命令』(日本評論社)、『天皇の記者たち』、『戦争報道の犯罪』、『記者クラブ解体新書』、『冤罪とジャーナリズムの危機 浅野健一ゼミin西宮』、『安倍政権・言論弾圧の犯罪』がある。

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