第2回 いまだに続く保護者同伴の児童下校
メディア批評&事件検証2020年12月1日早朝のことだった。15年前のこの日、下校中に何者かにさらわれ殺害された栃木県日光(旧今市)市立大沢小学校1年の吉田有希(よしだゆき)ちゃん(当時7歳)が眠る同市猪倉の墓前で約10人の関係者が鮮やかな花を添え、手を合わせた。同小の白石光人校長(同59歳)や事件以来、登下校の子どもたちの見守り活動を続けているボランティア団体「大沢ひまわり隊」の初代隊長の粉川昭一さん(57)=21年6月から日光市長=たちだ。墓碑には、有希ちゃんのまぶしそうな笑顔のカラー写真や彼女が大好きだったヒマワリの花が咲き誇るように刻まれている。
粉川さんの脳裏には、05年12月2日の情景が今でもはっきりと焼き付いている。前日から行方不明の有希ちゃんが、遺体で見つかったとの情報があっという間に地元に広がった。「犯人がまだ近くにいるかも……」。不安にかられた同小の保護者たちは車で運動場に乗り込み、わが子を連れて帰った。あの日の光景が今も毎日繰り返されているように見えるのだ。「地域の人の心の時計の針は、あの時から止まったまま。地域が事件前に戻っていない、というのが、これから取り組んでいかなければならない課題で、1日も早く、子どもたちだけの下校ができるようにしていく努力が必要だと思う」と苦渋の胸の内を初めて言葉にした。
ISF独立言論フォーラム副編集長の梶山天は20年当時、朝日新聞日光支局長だった。翌2日の午後、カメラと取材ノートを片手に同小に足を運んだ。粉川さんが口にした下校風景をもう一度確認するためだ。校長に取材の許可を得るために校門から入り、鉄筋4階建ての校舎の玄関に立つと、頭上にある監視カメラが音を立てて作動し始めた。事件直後から不審者を校舎内に入れない徹底した防犯対策の一つだ。監視されていることに緊張感さえ感じる。人々の自宅やお店も、学校でさえも鍵もかけないで開けっ放しだった昭和生まれの私にとっては、おおらかな良き時代を思い出しながらも、なんと物騒な環境になってしまったことか、と思わずにはいられない。インターフォン越しに訪問の要件を告げると、金属音をたてて入口の扉が開いた。
白石校長に一通りの取材を済ませると、下校時間が近づいてきた。午後3時の児童の一斉下校に合わせて、運動場に保護者の車が次々に入ってきた。集まった車は約40台。北関東の日光の冬は、栃木県内でもとても肌寒い。母親たちが車から降り、コートの襟を立てて我が子を待つ。全校児童186人のうち45人が車に乗り込んだ。残った児童は、同小に隣接する学童クラブの建物にこぞって移動した。社会の変化で近年、共働き世帯が急増。そのため下校時間帯に保護者が児童を迎えに行けず、学童クラブに預かってもらう措置をとっている。その児童たちも午後6時には保護者が同伴で帰宅する。こんな光景は日本列島のどこをさがしてもない。雨が降ろうと、雪が積もろうがその光景は変わらないのだ。
運動場に居合わせた主婦の金子由佳さん(42)は、5年生の長女と1年生の長男の2人を迎えに来た。私が「毎日ご苦労様です。大変ですね」と声をかけると、「はい、仕方ありません。こうするしかない事情が事情ですから……。自分は子供のころ、下校時に友だちと道草して秘密基地を作って遊びながら成長したんですよ。できることなら、子どもたちだけの下校にしてほしい気持ちがある。中学生になると、いきなり一人で登下校するので、準備段階もほしいと思いますね」と子どもたちの将来と地域の現実に揺れる母親としての思いを語ってくれた。
事件を巡っては裁判で無期懲役が確定し、勝又拓哉(かつまたたくや)受刑者(39)が千葉刑務所に収監され、一通りの区切りはついた。だが、金子さんの「ほんとに事件は解決したのでしょうか?裁判には疑問が残りました。そんな折、子どもたちだけを急に下校させるとなっても不安です」と予想もしなかった言葉に「そうだよね……」としかうなづけない自分がいた。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。