【特集】統一教会と国葬問題

吉田茂国葬に関して

内海正三 

1967年10月20日に吉田茂元首相が亡くなり、直ちに閣議によって10月31日の国葬が決定された。私は当時、大阪府立北野高校の3年生で大学受験を真近に控えていた。

 

当時の北野高校は自由・闊達な校風で、生徒主体の運営が多くの場面で行われていた。高校入学時の最初の生物の中間テストで、クラスの中で私と女生徒Iさんの二人が答案返却後に名前を呼ばれ、立つようにいわれた。何事かと思ったが、その先生は「君たち2人は、この成績を維持すれば、どこの大学にも入れるので、真面目に頑張れ」との激励だった。しかし、いかに進学校とはいえ、あまりに露骨なやり方に呆然とした。Iさんは私以上に反発していた。

Sun shining on an empty Japanese classroom.

 

実は彼女は、中間テストの学年順位発表が教職員室前の廊下に張り出されているのを見て憤慨し、なんと引き剥がして破り捨て、足で踏みつけている場面に遭遇した。すごい女生徒が居るんだ、とびっくりした。その後から成績張り出しは限定的になった。

そのIさんとクラスの友人のS君と2年生のYさんとで後期の生徒会役員に立候補し、1年生から生徒会活動を行うようになった。彼女の提案で文化祭の生徒会の出し物は映画『戦艦ポチョムキン』となった。

北野高校は全国指折りの進学校で、私の学年は東大合格者数が全国ベスト10に入り、京大と阪大は130人以上の合格者を出し全国1位だった。たぶん、北野高校でも歴代1位の成績だと思う。

A sunny day in June, a part of the school building and a landscape with fresh green trees

 

結果として大学受験では好成績だったが、高校生生活は他の高校よりもかなり異色だと思われる。文化部も運動部も部活は盛んで、特に弁論部、社研部、放送部、文芸部、新聞部等、放課後に居残り、生徒間でいろんな問題を議論していた。

4月の初登校で校内をめぐると新聞部が作成した壁新聞が各所に張り出されていた。テーマは日韓条約の問題点であった。授業でも扱わない現代社会の生の課題を、生徒だけで議論し、発表するのかと強く印象に残った。

私たちが在校中には米軍統治下にある沖縄をテーマにした壁新聞も出された。沖縄に対する日米政府の対応にはとても反発を覚えた。学内では「沖縄を返せ」の歌詞を変えて、沖縄へ返せと歌っていた。日米政府の都合で沖縄を米軍統治下に置く分断統治を行いながら、反米闘争が沖縄で盛んになると統治者を日本政府に変えるやり方に疑問を持っていた。

Map of Okinawa Island drawn in chalk on a green chalkboard with chalk traces. Vector Illustration (EPS10, well layered and grouped). Easy to edit, manipulate, resize or colorize.

 

1年生で生徒会会長になった私は、年度末に来年度の部活予算の配分という大仕事に取り組む事になった。100万円をこえる生徒会予算の配分は、完全に生徒間の話し合いに任されていた。柔道部やラグビー部の猛者の3年生を相手に交渉を繰り返した。先輩といえども1年生相手に、それぞれの部の必要性を説き、対等な個人として尊重する対話は得がたい経験だった。先輩だけではなく先生も地域社会でも、生徒会の会長として扱われ、子どもから大人に急成長した思いだった。

それまで受験の妨げになるからと行われていなかった修学旅行も、地理の先生の尽力で2年生の冬に行う事になった。地理の先生は馬珍(ばちん)と自称していた名物先生だった。由来は馬より珍しい長い顔をしていると本人が説明していた。修学旅行先の決定は、各クラスの討議の後の投票で決められた。クラスによって行き先が異なっており、私のクラスでは鳥取・島根の山陰コースが選ばれた。

2年生の時に体育の授業で柔道部の生徒がふざけて先生の指示に従わなかった。激高した体育教師は生徒が謝っているにも拘らず5発から6発こぶしで殴った。授業を受けていた2クラスの生徒の代表が10人ほど職員室に抗議に行き、謝罪させた。その後は体罰は起きなかった。

体育祭や文化祭は何名もの生徒が、学校に隠れて泊り込み、各クラスで観客が驚くような演出のための努力をした。校則は有ったのだろうが、気にせずに過ごしていた。

私が高校に入学した時はベトナム戦争の最中で、所属していた弁論部の部室で学友と議論していた。入学時までは政治的な議論をしたことが無く、新聞やテレビの報道内容に同調していた。友達がベトナム戦争はアメリカが覇権を維持するために行っており、ベトナムの人々はアメリカにより苦しめられていると主張し、自由世界を守るために世界の警察官としてアメリカが代表して戦っているとする、それまでの私の理解とは真っ向から異なっていた。戦争の実情が明らかになるにしたがって、友人の説が正しいと考えるようになった。

Air assault with light mobile infantry on helicopters during the Vietnam war, 3d render.

 

大事な事は、言葉に出し、議論し、調査して議論を深める事で、部活の場は毎日がそれの繰り返しだった。社会問題にも関心を持ち、議論する風潮を当時は北野高校の特質だとは思わなかった。高校生活とはそのような面を持つものと考えていた。毎週のようにガリ版でビラを作り、始業前に各クラスの机の上に配っていた。3年生から「よく考えているね」と褒められ、嬉しかったものである。

所属する弁論部では年1回、弁論発表会があり、当時の講堂で私は女性差別問題を取り上げた事を覚えている。性別によって社会で不利益を受ける現状は正さなければならないとする、当時としては先駆的で、その内容は現在に至るまで私の行動指針の一つとなっている。

このような校風の中で、突然に吉田茂元首相の国葬が行われた。当日は午後から一斉休校となり、高校生には喪に服するように大阪府教育委員会から通達が来た。

 

私が一番疑問に感じた事は、吉田元首相によって沖縄が恒久的な軍事植民地とされ、その代償の上で日本が独立したという事であった。サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約によって軍事優先・人権無視の状態に沖縄の人々が置かれている。この事実を直視すれば吉田元首相への国葬は認められないという事だった。当時はまだ沖縄返還協定は明らかになっておらず、戦後世界でなぜ軍事植民地状況が許されているのか疑問だった。

 

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沖縄環境ネットワーク会員

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