【特集】統一教会と国葬問題

吉田茂国葬に関して

内海正三 

国葬に対する討論会をするため、弁論部のI君が中心となり、各クラブのメンバーも協力して、急遽無届けの生徒集会を食堂で開催する事になった。国葬当日の午後の休校を利用しての即興での集会ではあったが、70名から80名が集まった。1時間あまりの集会の最後には、国葬を高等学校に指示した大阪府教育委員会への抗議行動を行う事が話された。

北大阪の優等生の集団である北野高校の生徒が、授業を放棄しての直接抗議行動という、今では想像もできない取り決めであった。当然、参加した生徒にも、躊躇した生徒にも葛藤があった。それでも20人ほどが翌日の大阪府教育委員会前の座りこみに参加した。

 

抗議行動に参加した殆どの生徒が、当然ではあるが、親には内緒で、普通に登校する素振りで家を出て天満橋の官庁街に向かった。友人の1人は、片親で育てられたので、進学に悪影響がある授業放棄は出来ないと私に断った。経済的に国立大学に現役で入る事を優先するのは、状況からやむを得ないと話した。

官庁街にある大阪府庁に大阪府教育委員会はあり、玄関前の長い階段の両わきに座り込んだ。通り過ぎる人々は何事かと訝しがっていた。暫くすると行動を知ったマスコミが駆けつけ、速報ニュースとなった。

Government office in Osaka

 

座り込んでは見たものの、その後の展開は生徒の誰も想定していなかった。マスコミの取材を受けながらも、この後、何時まで行動を継続するのか疑問も芽生えた。やっと、大阪府教育委員会の職員が出てきて抗議文を受け取り、私たちは午後の授業を受けるべく高校へと向った。

北野高校の生徒は十三(じゅうそう)公園に面した門を利用しており、実はこちらが裏門であった。殆どの生徒が利用しない反対側が正門だと今回の出来事ではじめて知った。その裏門から昼休みの時間帯に登校した。裏門の右側は当時としては珍しい50メートルプールがあり、その先に食堂があった。左側はテニスコートと運動場がある。私たちが食堂まで進んだ所に、多くの学友や先生方が並んでいた。

何と全員が拍手をして、我々を迎えてくれたのである。先生方まで「やりましたね」と賛同の声を上げていた。授業放棄して処分されることで気が重くなっていた私は、とても驚いた。そして、嬉しかった。

速報ニュースで北野高校の生徒が大阪府教育委員会に直接抗議行動を行ったとの報道があり、先生からの知らせや食堂での放送を通じて、高校中に知れ渡っていたのである。正直、これで確実に処分を受けると思われた。高校の監督庁へ授業を集団でボイコットして抗議行動を行った事が広く知れ渡ったのである。

当時としては一般的で、古風な私の父親にも「こんな事をさせるために高校にやっているのではない」と怒られると思っていた。処分の決定までに数日間の空白があり、行動に参加したS君(1年生の時に生徒会書記をした)は自宅近所の工場を回り、働かせて下さいと就職活動を始めていた。彼は退学処分を覚悟していた。私は「処分が決まってから、その後の対応を決めれば良いから、先走りしないように」彼に言った。

数日後、担任を通じて保護者に処分内容が封書で渡された。母に渡し、母は封書を読んでから父を呼んだ。処分内容は保護者呼び出しの上、注意とのことだった。学内での無届集会や、結果的には集団での授業ボイコット。そして監督官庁への抗議行動に対して、処分の対象とされたのは、授業ボイコットのみであった。父はその通知を見て怒り出した。

私に対してではなく、高校と府教委に対して、その怒りは向けられていた。「生徒たちは間違っていない。正しい行動をした生徒を処罰するとはおかしい。高校に抗議に行く」と寡黙な父が怒りを顕にしていた。父に叱られると思っていた私は、父の態度に驚いた。母はこれ以上騒ぎを大きくして生徒に不利益になることは良くないと、父を説得し、「私が行きます」と話を引き取った。

後日、一人ひとりの生徒の保護者を呼び出しての処分が実施された。処分を担当したのは生徒指導部の泉先生であった。東京大学を首席で卒業したとされる泉先生は、常に厳格であまり笑顔を見せない、生徒にとっては近寄りがたい先生だった。

母がどのような注意を受け、どのように対応したのか、帰宅した母に直ぐに聞いてみた。泉先生は応接室に入ってきた母に「本日はご苦労様です」と声をかけ、高校生活を有意義に過ごす上で、いろんな事にチャレンジし、多くを学んで欲しいという内容を話され、注意の類は一言も無かったそうだ。注意の内容によっては、また父が怒り出さないかと心配していた私は、肩透かしを食ったのと同時に、ほっとしたのである。

当時は高校の規則の運用は教職員会議での決定に委ねられていた。授業をボイコットした生徒たちへの処分もそこで決定し、府教委へと報告されたのである。当時の教職員会議の議事録には、「学校としては、無届けで許可も無く集団的に欠課もしくは欠席をしたこと、学校の指導に応じない意思ないし態度を示したことなどを重視する一方、当時の社会情勢としてこのような行動をする生徒の心理を単純な事件として取扱うことなく、学校全体として新しく考えていく出発点として受け止めている」との記述がある。また、北野高校百年史でも「現状に合致した生徒指導の在り方について、度々の会議がもたれることになった事件でもあった。」との記述がある。

私は1年生の時の生徒会活動を通して泉先生とやり取りをしていたので、監督者としての面がどうしても主要な印象になる。しかし、同級生の文学青年によると博識で感情豊かな先生との評価で、私はその同級生をとても信頼していたので驚いた事があった。後に分った事であるが、泉先生は東京大学在学中に軍隊に入営し、満州(現在の中国東北部)に送られ、悲惨な戦争体験をしたようである。私の父もあまり話さないが、中国から東南アジアを衛生兵として従軍し、人を人とも思わない場面に何度か遭遇したようである。

戦争体験者にとって、軍事国家の中枢に位置し、中国侵略積極論者であった吉田元首相を、国をあげて弔うとする国葬は大きな違和感があったと思われる。

 

多感な高校生活の中に突如として出現した「国葬」という事態に対して、多くの生徒や先生が共感した抗議行動。優等生が処分を覚悟で表現した思想と信条。その生徒たちを守ろうと何度も討議を繰り返した職員会議と保護者たちの行動。これらの背景には大人たちの戦争体験が横たわっており、そのことによって生徒たちの不利益は回避されたのである。

 

現在の高校は、教職員会議の決定権限は全く無く、校長の事務伝達機関と化している。戦争体験者も現場には存在せず、政治を語ることは「教育の中立」に反するとされている。主権者教育がなされないままに社会に出て投票権を得ても、何を基準に判断するか判らないままである。

まるで政治的無関心層を生み出すための装置と化している学校教育は、どのような契機があれば本来の教育機関として機能するのであろうか。再度の戦争悲劇の体験しか価値観の変化は起こりえないのか、不安になる。

 

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