シリーズ日本の冤罪㉛ 飯塚事件:冤罪処刑疑惑が広まるもなお知られざる闇の奥

片岡健

今回採り上げる「飯塚事件」については、冤罪の疑いがきわめて色濃い事件として、ご存じの方も多いだろう。

2人の女児を殺害した容疑から死刑判決を受け、2008年10月28日、福岡拘置所で絞首刑に処された久間三千年さん(享年70)。遺族と弁護団が2009年に起こした再審請求は、昨年4月、最高裁で棄却が確定した。しかし、遺族と弁護団は同7月、早くも第2次再審請求を行ない、現在も福岡地裁で審理が行なわれている。

今年は事件発生から30年の節目を迎えたこともあり、テレビや新聞でも久間さんが無実であることを示唆する報道が多かった。

それだけにこの事件の捜査や裁判、死刑執行に責任ある立場で関わった人たちは、心配で仕方ないだろう…と思いきや、全くそんなことはないようだ。

筆者がそのことを強く実感したのは、6月24日、検事総長に甲斐行夫氏(右写真)が就任した時のことだ。なぜなら、甲斐氏は久間さんの死刑執行に責任ある立場で関与した人物の一人だからだ。

久間さんの死刑執行に関与した甲斐行夫検事総長(検察庁のHPより)

 

簡単に説明すると、こういうことだ。

個々の死刑囚への執行までには、法務省内で、
(1)刑事局付検事による裁判記録の精査と死刑執行起案文書の作成。
(2)省の幹部11人と法務大臣、副大臣による死刑執行起案文書の決裁。
(3)法務大臣による死刑執行命令の発出。

という手順が踏まれる。久間さんの死刑が執行された2008年10月、法務省刑事局総務課長だった甲斐氏は、久間さんに対する死刑執行起案文書を大臣・副大臣とともに決裁した省の幹部11人のうちの一人だったのだ。

そんな甲斐氏が法務・検察の最高位である検事総長の座についた。これはつまり、法務・検察の官僚たちにとって、飯塚事件の冤罪処刑疑惑が報道などで広まっている現状は、なんら心配する必要がないということだ。

ちなみに久間さんの死刑執行起案文書を決裁した11人の中には、甲斐氏以外にも3人、検事総長まで昇りつめた者がいる。小津博司、大野恒太郎、稲田伸夫の各氏だ。

いずれも現在は弁護士に転じ、小津氏はトヨタ自動車・三井物産・資生堂の監査役、大野氏は小松製作所の監査役とイオンの取締役、稲田氏は野村証券の取締役をそれぞれ務めている。三人とも日本を代表する大企業に天下り、悠々自適な老後を満喫しているとみて差し支えないだろう。

なぜ、久間さんの死刑執行に責任ある立場の者たちが、このように余裕しゃくしゃくなのか。

それはおそらく、「飯塚事件」の闇の深さが十分に世間に伝わっているとは言い難いからだ。筆者は、この事件を今日まで10年以上取材し、その闇を目の当たりにしてきた。久間さんを処刑台に追いやった人たちの心に多少でも波風を立てられるように願いつつ、その一端をこの場でお伝えしたい。

・冤罪が疑われる事情なによりDNA型鑑定が…

まず、事件のあらましを簡単に振り返っておく。

事件が起きたのは1992年2月20日、福岡県飯塚市の潤野地区。この日朝、市立潤野小学校1年生の女児2人が登校中に行方不明となる。そして彼女たちは翌21日、同小から28~36キロ離れた「八丁峠」と呼ばれる峠道沿いの草むらで、下半身裸の遺体となって発見された。

遺体発見現場に祀られた地蔵

 

さらに翌22日、遺体発見現場から八丁峠を数キロ上方に進んだあたりで、2人のランドセルや衣服・下着などが道路脇の草むらに投げ捨てられているのも見つかった。司法解剖により、2人ともに首を手で圧迫されたことによる窒息死と判明。女児を狙ったわいせつ目的の殺人事件であることは明らかだった。

久間さんが逮捕されたのは、事件から2年半経った1994年9月のことだ。久間さんは当時、潤野地区で奥さんや小学生の息子さんと一緒に暮らしていた。かつては公務員として働いていたが、当時は勤めに出ておらず、奥さんが働いて家計を支え、久間さんは「主夫」のような立場だったという。

では、久間さんはなぜ、警察に疑われたのか。きっかけは、事件の約3年前に起きた「もう一つの女児失踪事件」だった。

1988年暮れ、潤野地区では、Mさんという小1の女の子が失踪し、その後も行方がわからないままだった。彼女は失踪直前、久間さん宅に遊びに来ていたことから、警察はこの時も久間さんを疑ったが、検挙に至らなかった。警察はそれ以来、ずっと久間さんに疑いの目を向け続けていたのである。

逮捕された久間さんは一貫して容疑を否認。しかし裁判では、2006年9月に最高裁で上告棄却の判決を受け、死刑が確定した。

そして、前述の通り2008年10月、勾留先の福岡拘置所で死刑を執行されたのだ。久間さんは当時、再審請求を準備中だった。

さて、以上が事件のあらましだが、久間さんが冤罪を疑われる事情としては、なによりもDNA型鑑定の問題が指摘されてきた。

公判ではDNA型鑑定が有罪の決め手とされていたが、その鑑定を行なった警察庁科学警察研究所(科警研)の当時の技術は拙いものだった。

実際、1990年5月に栃木県足利市で起きた女児殺害事件(「足利事件」)でも、捜査段階で科警研が行なったDNA型鑑定のミスが、無実の男性・菅家利和さんが無期懲役判決を受ける元凶となっていた。

doctor uses a syringe blood sample into dna test tube in the laboratory.”n

 

菅家さんが2009年、DNA型鑑定のやり直しにより冤罪であることが明らかになって以来、久間さんについても「DNA型鑑定の間違いによる冤罪なのでは…」という声が渦巻くようになったのだ。

ただ、飯塚事件では、科警研が資料を大量に使い過ぎたせいで鑑定資料が残っておらず、再鑑定は不可能だ。そのため、 久間さんは菅家さんのようにDNA型の再鑑定により無実を証明することはできない。

飯塚事件では、そのことにも批判が集まっている。

・足利のDNA型鑑定とのあまりに不自然な「一致」

ただ、あまり知られていないことだが、実は飯塚事件で科警研が行なったDNA型鑑定には、わざわざ再鑑定などするまでもなく、鑑定結果が明らかに間違いだと示す事実がある。それは、足利事件のDNA型鑑定とのあまりに不自然な「一致」である。

「百聞は一見に如かず」なので、実際に見ていただこう。足利事件と飯塚事件のDNA型鑑定は、いずれも当時は最先端の技術だった「MCT118型検査」という手法で行なわれているのだが、鑑定結果はそれぞれ以下のようになっていたのだ。

【足利事件】
菅家さんのDNA型 16‐26型
犯人のDNA型 16‐26型
MCT118型検査における16‐26型の出現頻度0.83%

【飯塚事件】
久間さんのDNA型 16‐26型
犯人のDNA型 16‐26型
MCT118型検査における16‐26型の出現頻度0.0170(=1.7%)

これらを比較してわかるように、科警研は足利事件の犯人と菅家さん、飯塚事件の犯人と久間さんの四者とも、DNA型は同じ「16‐26型」だと判定していたわけである。

この16‐26型というDNA型の出現頻度は0.83%~1.7%だから、100人に1人か2人の頻度でしか出現しない型であるにもかかわらず、だ。犯人の遺留物と容疑者のDNAが一致するだけでなく、別の事件の容疑者とも一致する。こんな偶然があるはずがなく、科警研のDNA型鑑定が間違っていることが明らかだ。

ちなみに科警研において、足利事件でDNA型鑑定を行なった研究員は向山明孝氏、坂井活子氏、笠井賢太郎氏の3人で、飯塚事件でDNA型鑑定を行なった研究員は坂井氏、笠井氏に加え、佐藤元氏の3人だ。つまり、両鑑定のいずれにも携わった研究員が2人もいたにもかかわらず、この不自然な16‐26型の一致が見過ごされてしまったのである。

このDNA型鑑定結果の不自然な一致については、メディアでほとんど触れられず、知る人はきわめて少ない。あまりに単純明快すぎる問題のため、メディアはかえって採り上げづらいのかもしれない。童話の「裸の王様」で、王様が裸であることを指摘できなかった大人たちのように、だ。

気持ちはわからなくもないが、そのようなメディアの変なプライドのせいで、このシンプルながら重要な問題が広まらないのは残念なことだ。

 

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片岡健 片岡健

ジャーナリスト、出版社リミアンドテッド代表。主な著書に『平成監獄面会記』(笠倉出版社)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社)など。

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