絞首刑は残虐か? 死刑制度は憲法違反
社会・経済死刑制度の残存は「民主主義の世界標準に対する日本の立ち遅れ」の典型例のひとつであるとともに、憲法違反であると私は考える。いくつかの論点について検討してみたい。
浄土真宗の僧侶である和田稠は「敗戦の日まで、日本中が「死の文化」を生きてきた」と述べた(和田2000)。国際人権規約自由権規約第二選択議定書(死刑廃止条約)の採択は1989年であった。
死刑制度は戦前から残存する「死の文化」であり、「時代遅れの昭和の思想」であり「民主主義の劣等生・日本のシンボル」のひとつに他ならない。また、「生きる価値のない人間」を国家が指定する点は、優生思想と似ている。
・絞首刑は残虐か?
同じタイトルの論文が、60年の時を隔てて書かれた(CiNii Articles検索)。正木は弁護士、堀川はジャーナリストである。正木は戦前の検事時代に死刑執行に立ち会った経験をふまえて、絞首刑を違憲とみなしたという(堀川2012)。
正木亮1952「絞首刑は残虐か」『法律のひろば』4月号
堀川恵子2012「絞首刑は残虐か」『世界』1月号および2月号、岩波書店
この問いを改めて考えてみよう。
憲法36条 拷問及び残虐刑の禁止 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
Article 36. The infliction of torture by any public officer and cruel punishments are absolutely forbidden.
「残虐」には2つの意味があると思う。ひとつは、刑罰そのものの絶対的な残虐性である。もうひとつは、犯罪と対比してみるときの相対的な残虐性である。
・1948年の死刑合憲判決
通俗的なイメージとしては、絶対的な残虐性の順に並べると、たとえば次のようになるであろう。この配列順の感覚については個人差があると思う。
火あぶり・釜ゆで・はりつけ>斬首・電気椅子>ガス殺>絞首刑>銃殺>薬物注射
つまり絞首刑は殺害方法のなかで「中等度に残虐」ではないだろうか。有名な1948年の死刑制度合憲判決では、江戸時代のような「火あぶり・はりつけ・さらし首・釜ゆで」ではないから絞首刑は残虐でない、と述べている(菊田2022:121-124)。
この並べ方はおかしい。「火あぶり・はりつけ・釜ゆで」は死刑執行方法であり、「さらし首」は執行後の死体損壊方法である。たとえば千利休は豊臣秀吉の命令で切腹したのちに、頭部を切断されてさらし首になった(切腹時の介錯ですでに頭部は離断したと思われる)。
カテゴリーの異なるものを混在列挙するのはおかしい。そして驚くのは、海外でも日本でも、絞首刑の過程で頭部が離断して血がほとばしる「事故」がごく稀に見られるということだ。
つまり、絞首刑のつもりで執行を始めたのに、斬首刑へと急変したわけである。この「事故」の人体側の要因と装置側の要因は複雑なので、予測は困難であるという(堀川2012)。不適切な法医学鑑定で冤罪の発生にたびたび「貢献」した古畑種基東大教授が「絞首刑は安楽な処刑方法」と述べたことにも驚かされる(堀川2012)。
死刑囚が落下してから心臓停止までの平均所要時間は約13-15分。医務官が心臓停止を確認したあと、5分待ってから遺体をおろす。ボタンを押してから死亡確認までの平均時間は約14分、最短で約4分、最長で37分だという。執行にたずさわった刑務官に提供される食事は高級精進料理の弁当だという。
公務労働としての殺人をやらされたあとで肉や魚を食べる気になれないからだろう(青木2009:26-27;近藤2008:47)。過酷な「殺人労働」は、戦時の兵士と死刑存置国の刑務官だけだ。
2006年にはクリスマスの後期高齢者死刑執行(享年75と77。75歳の人は車椅子のクリスチャン)が国際的な話題になった(青木2009:48)。なお、安倍政権時代の刑死者はこの2人を含めて49人であった(安田2022)。
米国の死刑存置州では、電気椅子、絞首刑、銃殺が次々に廃止され、薬物に統一されつつある。カリフォルニア州など存置州の一部は、冤罪のリスクを考慮して執行を停止し、しばらく州民が熟慮するという「韓国方式」をとっている。
韓国では最後の執行は1997年であり、金大中大統領が1998年に死刑執行モラトリアムを提起し、その後保守の大統領もこの方式を継承している。しかし刑法から死刑が削除されたわけではないので、その後も死刑判決は時々出されるという。
なお、米国でも過去150年をみると、死刑執行数が大きく減少してきたことは言うまでもない(ピンカー2015:上巻第4章)。
・日本はある面でプーチン大統領のロシアよりも野蛮なのか?
2022年のウクライナ侵攻で悪名高いロシアもこの韓国方式[死刑判決は出すが執行しない]をとっているようだ(森達也2022)。死刑存置の日本は「プーチンのロシア」よりも野蛮なのであろうか。ロシア軍によるキーウ近郊の「ブチャにおける虐殺」などでは「民間人の即決処刑」もあったらしい(時事通信2022)。
この矛盾はロシアだけではない。空爆での民間人・民間施設誤爆による死亡は、罪のない民間人の殺害という意味で冤罪と同様である。死刑廃止の欧州連合(EU)諸国がNATOのユーゴ空爆に参加した(森炎2015)。会談を重ねたというプーチン大統領と安倍晋三元首相を対比するうえで、2006年のエピソードが想起される。
プーチン大統領でさえ(一般刑事犯の)「死刑復活」を言わないが、「国策としての暗殺」は、公然の秘密のようだ。2006年にはリトビネンコ元ロシア連邦保安庁(FSB)中佐(凶器はポロニウム210)やアンナ・ポリトコフスカヤ記者(凶器は銃)が暗殺された。そして前述のように2022年のウクライナ侵攻ではブチャやイジュームなどで拷問、虐殺、処刑を行った。
安倍政権は前述のように2006年のクリスマスを狙って死刑執行を強行した。またこの年の航空自衛隊によるイラクでの武装米兵輸送は2008年に名古屋高裁で違憲判決が確定した。
絞首刑は残虐な刑罰であるが、殺人もまた残虐な犯罪である。通俗的には、刑罰の残虐性は犯罪の残虐性によって相殺されると感じられるであろう。どの程度相殺されるかは不明である。つまり人によって感じ方が違う。「永山基準」によって、「1人を殺害」ではほぼ死刑判決が出なくなった。
「大量殺人」はどうか。2016年相模原事件では19人が殺された。犯罪が刑罰よりも19倍残虐であるならば、「死刑はやむをえない」と多くの人が感じるであろう。2011年ブレイビーク事件では77人が殺された。ブレイビークはおそらく還暦前に社会に戻ってしまう。
しかしノルウェーから「死刑制度復活を」の叫びは聞こえてこない。2つの理由があるだろう。ノルウェー人は理性的なので、ブレイビーク事件でパニックにならずに、死刑制度の得失を冷静に判断しているのだろう。もうひとつは、ノルウェーが死刑を復活してわざわざ欧州のなかで孤立する必要はないという判断である。
なお、ノルウェーの死刑廃止は1905年である(平野2022:94)。EUの加盟条件のひとつは死刑廃止であり、加盟を希望するトルコはイスラム主要国として初めて死刑を廃止した。
長崎大学名誉教授、専門は環境社会学・環境思想・平和学。