【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)

第6回 赤頭巾ちゃんの狼

梶山天

ちょっと手前味噌の話をしよう。国内で裁判史上初のDNA型の再鑑定によって、足利事件の犯人として長い間、千葉刑務所に収監されていた菅家利和さんの冤罪が証明された。

その頃から当時、朝日新聞記者だった梶山天(現ISF独立言論フォーラム副編集長)は、法医学教室がある大学に足を運び、DNA型鑑定や血液型鑑定の実習などを受けて、鑑定の技術などを精力的に学んだ。

特にDNA型鑑定は、証拠として指紋以上に裁判に利用されるだろうと思ったからだ。おかげで梶山は、その鑑定が冤罪を生み出す温床になっていることにも気づかされた。

朝日新聞記者時代に日本大学医学部法医学教室の学生たちと一緒に血液型検査に挑戦したISF独立言論フォーラム副編集長の梶山天。検査の際は必ず、白衣とキャップ、マスク、手袋などを身に着け、汚染防止につとめる。右端は指導者の押田茂實教授(当時)。

 

さて、前回からの話に戻そう。犯罪歴もない元幼稚園バス運転手の菅家さんをここまで犯人視するのは、何か後押しする背後事象があったのだろうか。捜査のプロセスを追いかけてみた。

菅家さんは20代後半に一度見合い結婚をしたが、相手の女性と性格などが合わないなどでわずか3カ月で離婚。6度も職を変え、1978年6月、やっと彼らしい職が見つかった。人生で普通に例えれば、働き盛りの31歳。取って間もない大型免許証を手に公共職業安定所に足を運び、通園バス運転手の仕事を紹介された。それが栃木県足利市内にある保育園だった。

朝と夕の1時間ずつの送迎バスの運転と清掃の仕事は、彼にとって肉体的にも楽なばかりか、ノルマ、競争などとは無縁の職場だった。何より居心地のよさを感じたのは、自分を一人前の人間として見てくれる無邪気な子どもたちと、その子どもを相手にする保母さんたちの存在だった。

間もなく菅家さんは、園児たちから「先生」と呼ばれた。よほどそのことがうれしかったのか、彼は家に帰ると親兄弟に「子どもってかわいいよな」などと、こんな言葉を繰り返していたという。菅家さんが子ども好きということは、家族なら誰しもが認め、感心していた。

しかし、89年9月末に突然、無断欠勤して退職する。実は、几帳面で気が強く、調理師の女性から動きが鈍いなどと叱責を受けたことからトラブルになってしまったという。

菅家さんが勤務していたその11年間、同僚だった保母の1人は、その後90年5月に発生した足利事件の捜査で菅家さんが栃木県警の変質者のリストに上がり、捜査員の事情聴取を受けた。彼女の司法警察員面前調書(供述調書)には、菅家さんを温かい目で見ていたことが分かるように、こう記されていた。

菅家さんは、運転以外の時間には給食を園児の教室に運んだり、教室のゴミを集めたり、そのゴミを燃やしたり、遊具のペンキ塗りをしたり、(保育園所有の)お墓の清掃をしたり、その他の雑用をやっていたのです。

私もよく用事を頼んだりしましたが、菅家さんは『はいよ』と軽い返事をして引き受けてくれたんです。また、一緒にバスの送迎をした時なども、菅家さんはテレビで流行しているおもしろい流行語を言って園児を喜ばしていたので、面倒見がよくて子どもが好きな人だな、と思っていました。

しかし、運転中に自転車がふらつきながら通ってきたりすると、『あぶねえじゃねえか、ばかやろう!』と怒鳴りつけたり、ペンキ塗りなどしていて園児がじゃれつくと『じゃまだ、この野郎!』などと怒鳴って、手で払いのけたりする短気なところもありました。

でも、すぐに元の気持ちに戻ってじゃれついていた子どもと遊ぶような気持ちのさらっとした面もありました。菅家さんは、当園では、男女の別なく、どの子とでも遊んでいるふうに見えました。

足利市の保育園で運転手として園児の送り迎えをしていた菅家さんは、卒園文集に次のような一文を寄せている。

いよいよ小学1年生ですね。学校へ行ってからも、勉強や運動も一生懸命頑張って下さい。そして、健康にも気をつけ交通事故にも十分注意して、元気に学校生活を送ってください。
私も交通事故に遭わないよう、しっかり運転します。用務・運転手 菅家利和。

梶山は、最後の一文を読んだときに涙が出そうになった。菅家さんの園児に対する思いがヒシヒシと伝わってくるからだ。彼の人生で初めて手に入れた社会人としての「使命感と誇り」ではなかっただろうか。運転中の菅家さんは、大事なものを守るために怒鳴ったのではないか。それは、子どもたちの命だと思わずにはいられない。

その後、足利事件が発生する1月前の4月から菅家さんは、同市内の幼稚園にバス送迎の運転手として働くことになった。

自宅が近くにありながら土、日曜日だけ借家で暮らし、しかもその場所は足利事件遺体発見現場に近いという付近の住民の情報で駐在所勤務の寺崎耕巡査部長が菅家さんの借家に上がり込み、男性用の自慰具と大量のアダルトビデオを確認してから変質者の秘密の隠れ家と報告したのかもしれない。

寺崎巡査部長の訪問から約2週間後に当たる90年11月19日午前中のことだった。寺崎巡査部長に代わる専従捜査員茂串清警部補が菅家さんの新しい勤務先である幼稚園を訪ねた。寺崎巡査部長による菅家さんの借家内の怪しげな情報と足利事件の被害者が幼児だったこともあり、菅家さんの職場での生活態度など特に幼児への接し方などの情報を得るための訪問だった。

菅家さんはちょうど、駐車場でバスの洗車をしていた。茂串警部補が女性園長に開口一番「運転手の菅家さんのことで……」とそう言って警察手帳を見せた途端に「うわぁ、来ちゃったよー!」と叫び声をあげた。茂串警部補は思わず身を乗り出し、「えっ、どういう意味ですか」と聞き返した。

 

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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