第9回 風化を許さず、国の責任を追及する 福島原発かながわ訴訟原告団長・村田弘さんへのインタヴュー
社会・経済・原発建設という迷妄
――岸田政権が原発再稼働どころか、新規の原発建設方針を打ち出しました。
村田――とんでもない話です。岸田首相は何も考えていないのではないか、総理大臣として全体を見るのではなく、電力業界の話しか聞こうとしない。福島原発事故直後から、責任逃れと再稼働など利益追求に着々と布石を打って、業界と官僚と政治家がやってきたことの延長という感じです。
――3.11で露呈した罅というか、亀裂を速やかに修復して、「原発村」の利潤追求体制は見事に延命してきた。
村田――10年間、責任逃れのために膨大なエネルギーを注ぎ込んできましたが、ロシア・ウクライナ戦争によるエネルギー危機を千載一遇のチャンスとばかりに一気に打って出てきたわけです。業界の言いなりになる岸田首相の弱さも、あらかじめ織り込まれていたように見えます。
――「聞く力」と言っていましたが、国民の声は聞こうとしない。何をどう聞くのかはそれぞれかもしれませんが、さまざまな声を聴いて、判断するのではなく、最初から特定の業界の話しか聞こうとしない。
村田――業界も官僚もわかっている。まったく新しいことは何もない。火事場泥棒的に再稼働や新規建設を打ち出しています。小型原発の新技術とか言いますけど、何も新しい技術ではない。
一番怖いのは、建設後40年の寿命と言っていたのに、いつの間にか60年に延ばし、それをさらに延ばそうとしている。高浜原発にしても美浜原発にしても、もうボロボロと言われているのに、あれを動かすという。安全性について真剣に議論していない。
――もっともらしい手続きだけは用意しますが、結論ありきの延命策です。
村田――もともと20年、30年と言われていたものを、40年に引き伸ばしました。ところが、あのフクシマ原発事故の後に60年に延長するという離れ業がまかり通ってしまいました。
――ありえないことが、あっという間に決められてしまいました。
村田――今度は、原子炉停止期間を除いて計算するなどと言い出した。建設からどれだけ経過したかを問題にしてきたのに、稼働期間だけを計算するという。稼働期間でなければ劣化しないなどと勝手に前提を変えてしまう。
どこで安全性をチェックするのかという体制の問題がいつも脇に追いやられてしまう。原子力規制委員会は何をやってきたのかという話です。
――規制委員会と称しても、実際には規制しない。初代委員長の田中俊一は、彼なりの思いがあって、熱心にやっていたと回顧しています。マスコミも持ち上げましたが、怪しいものです。まして、2代目の更田豊志委員長や3代目の山中伸介委員長となると、どうでしょうか。
村田――山中委員長の言っていることは、まったく経済産業省の官僚と変わらない。規制委員会とは名ばかりです。これでは業界のやりたい放題で、野放しになってしまう。
――規制委員会の組織編成自体が、もともと再稼働ありきで、そのためのアリバイ作りだった。
村田――もともとそうですが、あらためて酷いものだと痛感させられます。安全性の判断を棚上げにしている。そのことを岸田首相はほとんどわかっていない。
――国家のエネルギー政策だからと言って押し通す。資本主義発展のために必要と言っても、通常の資本主義国家なら、事故やミスが起きて被害があれば、それなりの補償をせざるをえない。ところが日本の場合は、まともな被害補償抜きで、ごり押ししても構わないと思っている。
村田――本来、巨大かつ危険なシステムを動かすこと自体、重大な責任が伴うのに、業界にも官僚にも政治家にも、責任観念がまったくない。
・原発事故被災
――村田さんは南相馬市で被災されましたが。
村田――2003年6月、36年間務めた新聞社の定年退職を待って、横浜市から南相馬市小高区のカミさんの実家に移住しました。土に足をつけて残りの人生を送りたいとの思っていたものですから…。
退職金の半分を注ぎ込んで家をリフォームし、義父母が亡くなってから荒れ放題になっていた2,000坪ほどの果樹園跡地を耕し、モモやリンゴの木を植え、野菜をつくり、朝から晩まで汗を流していました。やっと様になりかかった8年目、フクシマ原発事故です。
――原発被災のため横浜に移住せざるを得なかった。
村田――実家は福島原発から北西16キロの所でしたので、2011年3月12日の1号機爆発で南相馬市北部の中学校に避難。体育館の床に毛布を敷いて5日間過ごした後、カミさんと子猫の2人1匹で、子どもたちの居る横浜市に避難しました。今も借家暮らしです。
――福島原発事故を問う民衆法廷の開催に尽力された。
村田――避難して1年近くは地に足が着かない錯乱状態の日々でした。親戚・知人、被害者の相次ぐ悲報、でたらめな政府・東電の対応…。「原発を問う民衆法廷」に参加して1年半ほど全国各地を回っている間に、どうにか正気を取り戻しました。現実に目を向けると、被害の斬り棄てが始まっていました。
2013年9月、神奈川県に避難していた人たち(61世帯174人)で横浜地裁に損害賠償請求の集団訴訟を起こしました。5年半近くかかって2019年に国の責任を認める一応の「勝利判決」を得ましたが、賠償が現実とかけ離れたものでしたから控訴。現在、東京高裁での闘いを続けています。2021年には第2陣(5世帯16人)の訴訟も始まっています。
(一社)独立言論フォーラム・理事。東京造形大学名誉教授、日本民主法律家協会理事、救援連絡センター運営委員。著書『メディアと市民』『旅する平和学』(以上彩流社)『軍隊のない国家』(日本評論社)非国民シリーズ『非国民がやってきた!』『国民を殺す国家』『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(以上耕文社)『ヘイト・スピーチ法研究要綱』『憲法9条再入門』(以上三一書房)『500冊の死刑』(インパクト出版会)等。