ロシアからの新たな脅威? NATOこそが現実の脅威だ(2)
国際戦略的に重要な地域において米国の同意を買収するために、彼らがその富をどのように使うかということのストーリーは、もっとたくさんの人々によって知られるべき価値がある。
レーガン政権の最初の数年間に、CIAは有害であるとのブランドが与えられた組織であると一般社会から見なされており、それゆえ新たに「全米民主主義基金」(NED)が創設された。それは、米国が支援する政治グループや労働組合、市民団体に基金を与えるといったCIAが隠密に行なっていたことを、静かにしかし堂々と行なうために創設されたのだ。
NEDは非政府組織(NGO)であると言われながらも、実際にはほぼ全面的に米国政府によって資金提供されている。その役割、及びそれが関連する組織の役割(注1)は、世界中の諸国の国内政治に介入して民主主義を弱体化させ、(米国の)反対組織、及び米国が反対する政府に挑戦するような大衆動員を築き上げる手助けをすることだった。
NEDの資金は2000年にミロセビッチを追放したセルビアにおける「民衆革命」や2003年のジョージアの「バラ革命」、及び2004年のウクライナの「オレンジ革命」を含めて、東欧におけるすべての「カラー」革命で使われた。ウクライナではNEDが、市民社会と米国の目的を推進することを狙った60以上の事業に資金提供した。
NEDのカール・ガーシュマン会長は、これまでウクライナを「最大の賞品」と描写したことがあり、さらに進んで2013年9月の『ワシントン・ポスト』紙の記事で、東欧における米国の政策の最終ターゲットはロシアそのものであると次のようにほのめかした。
「ウクライナが欧州に加入する選択をすれば、それはプーチンが代表するロシアの帝国主義のイデオロギーの終焉を加速させることになるだろう。…ロシアもまた、ひとつの選択に直面し、プーチンはおそらく、近隣諸国の中においてだけでなくロシアそれ自体の内部においても、自分が敗者になるとわかるだろう」(注2)。
米国右派の別の影の組織も同様に、ポスト冷戦期における米国の影響力を増大させるために働いていた。例えば、「NATO拡大のための米国委員会」(The US Committee to Expand NATO)が、1990年代半ばに創設された。
その組織には共和党右派の有名な議員たちが多く加わり、ネオコンのポール・ウォルフォウィッツやリチャード・パール、スティーブン・ハドレーなどがいた。同組織の共同創設者であるブルース・(L)・ジャクソンはロッキード・マーチンの副会長で、「防衛産業とネオコンの合体」を象徴していた(注3)。
イラク戦争までの助走の時期にジャクソンは、国連の承認の有無にかかわらず米国がイラクに侵略することを支持する「ビルニュス10ヶ国政府宣言」(注=ビルニュスはリトアニアの首都)の草案作成を助けた。同委員会はその後、「NATOに関する米国委員会」(US Committee on NATO)と名前を変え、2003年後半に解散した。
事実に反する「脅威」からの防衛という名目
NATOを設立させた北大西洋条約(ワシントン条約)は、当時のソ連からの脅威と見なされるものに対抗する相互防衛同盟として1949年に署名された。その条約の文言は、純粋に防衛的であった。それらは決して書き直されたことはないが、一連の戦略的な概念によって後に「更新」されている。
その最近の例として、2010年のNATO首脳会合で「活発な関与、近代的防衛」と題された新しい戦略概念が合意された。それは「危機予防」、や「紛争管理」、「紛争後の状況の安定化」及び国連とEUを含む「パートナーたちとの協働」といった新たな機能について説明している。NATOの本質的な目的はメンバー諸国の自由と安全保障、「紛争の平和的解決」への貢献であると、今でも強調されている。
軍事力は、条約の第5条で「外交努力が失敗する場合にのみ使われる」と主張されている。実際には第5条は、ひとつのメンバー国への攻撃はすべてのメンバー国への攻撃と見なすことができると明言するものだが、NATOの歴史において一度しか発動されたことがない。
2001年にニューヨークとワシントンが攻撃された「9/11」事件が、米国によって第5条が適用されるということになった。条約全体の文言が強調するのは、防衛と安全保障、保護である。
しかし、それが実践された現実は別である。過去20年間に拡大されたNATOは、3つの大陸で様々な敵と戦争をした。それらのうちのどれも、欧州や北米の加盟諸国への脅威に対抗していたのではなかった。
この連合をどの国が支配しているかについては、これまで何の疑問もなかった。国際的な金融機関から軍事同盟に至るまで、最大の財政的貢献を行なうものが必然的に決定プロセスを支配するようになる。それがどこにおけるよりも一層真実であるのは、米国が最大の貢献国であるNATOなのだ。
米国はNATOの支出のほぼ75%(注4)を支払っており、2001年の63%から上昇している。そして米英とギリシャの3ヶ国だけが、GDPの2%というNATOの軍事支出ガイドラインを達成している(注=昨年3月段階ではポーランド、クロアチア、バルト3国も達成)。
さらに米国は、主要な軍事司令部を握る。NATO事務総長の民間ポストは伝統的に欧州人が務める一方で、総司令官はほぼ常に米軍の将校たちである。彼らの指揮系統は、国防総省とホワイトハウスの下に置かれる。2012年9月にひとりのフランス人将校が、機構全体の変革事業を主導・統括し支援する、「変革連合軍」の最高司令官という2番目の高位に任命された。
欧州に軍事力で君臨するNATO
おそらくはすべてのうちで最重要なことに、米国は近代的な高強度戦争の手段を事実上独占している。そして米国は全世界に基地を置く軍事力と、この惑星上のいかなる敵に対しても陸地、海上、空中で戦争を遂行する能力を持つ唯一の国である。
米国は、他の欧州のNATO加盟諸国に米国の軍事的「負担」を共有して欲しいと頻繁に不平を言うが、これは大筋では米国自身が工作した状況なのだ。NATO加盟諸国は、米国の様々な能力を複製するより、補完する隙間の、あるいは専門性のある軍事能力を伸ばすよう奨励される。
実際に英国やフランスのような最良の装備軍を持つNATOの欧州同盟国ですら、防空制圧、ISTAR(情報、監視、標的捕捉、偵察)および空中補給については、ほぼすべてを米国に依存している。その依存性は、仮に米国の支援が無かったなら不可能ではなかったとしても困難であったと思われる、リビアやマリでの大半が欧州主導のNATOの軍事介入で明らかとなった。
加えて米国は、自国の軍産複合体とライバルになり得る欧州の防衛産業の発展を妨害しようとしてきた。米国の防衛関連子会社を所有する欧州の防衛産業ですら、彼らの子会社が持つ特定のテクノロジーへのアクセスを許可されないことがよくある。そして彼らにとっては、国防総省の軍事調達の方針が国内の米国企業をえこひいきするために、世界で飛びぬけて巨大で儲かる米国の防衛市場へのアクセスを得るのが非常に難しいケースが多い。
しかしながら、細分化した欧州の防衛市場へのロッキード・マーチンやボーイング、ノースロップ・グラマン、レイセオンのような米巨大防衛企業の浸透については、そうした問題がまったくない。それは加盟諸国を米国の防衛企業に追いやる傾向をもたらす、米国兵器との「相互運用性」のNATOへの強要によって高められる。
これらすべてが、米国のライバルである欧州防衛産業の発展を阻止する一助となってきており、2008年の景気後退以来、欧州の防衛予算減少によってさらに悪化させられている。
同様に、合意によるNATOの決定プロセスでは、決定に異議のある加盟国がそれを妨害しないまでもNATOへの貢献を控えることが可能となる。
これは米国を始め加盟国内の支配的グループが、異議を唱える少数の加盟国によって軍事行動を取るのを拒否されないようにするため、急速に加盟国が拡大した軍事同盟として特に重要な問題だ。このため、リビアやマリにおける軍事介入へのドイツの反対があっても、米国の後方支援を得て他の同盟諸国が行動を起こすのを阻止しなかった。
イラク戦争のケースにおいてのみNATOが実質的に麻痺した理由は、この戦争があからさまに不正で、非合法であり、世界中で根強く不人気な戦争をめぐるアングロ-アメリカンとフランコ-ジャーマンの間に深い分裂があったからだ。
しかしこの反対ですらその同年(2003年)後半、NATOがアフガニスタンにおけるISAF(国際治安支援部隊)の指揮を執ることに同意したときに損なわれ、そして2004年8月にNATOはイラクでのNATOの軍事訓練部隊を構成し、実質的に米国と英国にイラクでの戦闘に彼らの部隊を集中する自由を与えた。
アラン・マッキノンはグラスゴー大学で医学士の学位を取り、同時に政治活動に参加し、そこで身につけた反帝国主義、平和的共存という理念に生涯を捧げた。結婚後、夫婦でタンザニアでの医療活動に従事。帰国後は平和運動の指導的役割を担いながらリバプール大学で熱帯医学を学び、その後は「国境なき医師団」の一員として再びアフリカに向かい、シエラレオネで医療活動にあたった。その際の経験から、現代の帝国主義、軍拡競争とアジア・アフリカへのNATOの拡大といった課題についてさらに理解を深める。 1990年代の湾岸戦争では、「スコットランド核軍縮キャンペーン」の議長として抗議運動を取りまとめ、2011年の「9.11事件」を契機とした「対テロ戦争」に反対し、「戦争ではなく正義を求めるスコット連合」を結成。英国の政党や労働組合、宗教団体、平和運動グループの代表を集め、アフガニスタンとイラクに対する米英の戦争に抗議活動を続けた。また、スコットランドへの潜水艦発射型大陸間弾道核ミサイル「トライデント」の配備に反対し、先頭に立って闘った。晩年はがんで片足を失いながらも、最後まで平和実現のための歩みを止めることはなかった。