第16回 DNA型鑑定の風雲児の奮闘
メディア批評&事件検証足利事件の公判が続いていた時期、信州大学では、若手の本田助手がこの事件のことも全く知らずに法医学講座主任の福島教授のもと、個人識別に応用できる4種のDNA部位の研究に取り組んでいた。これらの部位は国際的に開発されており、足利事件で未解決の犯人捜査に初めて使用されたMCT118法も研究対象に含まれていた。当時46歳の福島教授は、DNA鑑定の研究にいち早く興味を持ち、日本で最先端を走ろうとしていた。
信州大学で、本田助手は4種類のDNA部位に関する実験を何度も繰り返した。福島教授の研究室と実験室はわずか10㍍ほどしか離れておらず、教授は時間がある時にはよく、本田助手の実験の進展をチェックしに足を運んだ。
赴任したばかりの本田助手が、まだMCT118法の問題に気がついていない頃のことだ。ポリアクリルアミドゲル(有機化合物のアミドの一種で毒物及び劇物取締法上の劇物に指定されている。)という半固形の媒体を作成して行う電気泳動の写真を見せに行くと、福島教授は、「泳動が曲がっている」「PCR試料の入れすぎで、バンド(DNA断片を電気泳動で流したもの)がスマイリンク(角が立つこと)を起こしている」「PCRにサブバンド(過剰な反応が起きたもの)が多い」などと指摘し、少しでも狂いがあれば、実験のやり直しを命じた。
福島教授は検査データの美しさには寸分の狂いも許さない、厳格さを求める研究者だった。足利事件で菅家利和さんを逮捕する決定的要因になった科警研の鑑定データを見たならば、悲鳴を上げるのは間違いない。裁判で有罪の決め手となった鑑定は、そのくらいひどいデータだった。
データに厳しい教授の下にいたからこそ、本田助手も実験に正確さを求めようとした。その結果、思いもよらぬ事実に気づかされることになろうとは、当時は予想だにできなかった。
本田助手がより正確に判定するため、DNAの長さを決める物差しである「サイズマーカー」を2種類同時に使った時のことだった。「123ラダーマーカー(以下、123ラダー)」と「100塩基ラダーマーカー」(同100ラダー)だ。「ラダー」とは、「梯子(はしご)」という意味で、前者は「123、246、369……」と123の倍数で、後者は「100、200、300」と目盛りが付けられている。
後者の方が目盛りが細かく読み取りやすい。そして本来はサイズの大きさに従って一定の速度で泳動するので、どのマーカーを使っても正確に読み取れる。つまり、目盛りが1㌢メートルであろうが、1.2㌢メートルであろうが、物差しの長さ自体は同じのはずだ。
123ラダーの目盛りの間を100ラダーが補ってくれるだろうと考えた本田助手は、二つのマーカーを併用してサイズを正確に測ろうとした。ところが、それぞれのバンドのサイズが一致しない。何度も実験を繰り返したが、同じサイズであるという結果を得られなかった。どちらかのマーカーが間違っているか、あるいはどちらも間違っているとしか考えられなかった。
それで、この2つの実験方法を対立させるある発想がひらめいた。その発想が本田助手に新発見をもたらしたのだ。どうやっても100ラダーは、123ラダーの隙間を補完できない。疑問に思った本田助手は、ゲルの固まり方が不均一のためにこの状態が起きているのではないかと考えた。
そこで、マーカーとセットになっているゲルの濃度や温度を変え、何度か実験を繰り返したが、結果は同じだった。次に両マーカーを同時に流してみたところ、流れ方が異なった。123ラダーは、やや遅れて開発された100ラダーより流れが遅いことに気がついた。
123ラダーの方が100ラダーよりDNA断片の流れる速度が遅いのは、条件にかかわらず常に生じることなのか。とすれば、どちらのマーカーが正しいのか。それを確かめるため、別の種類のサイズマーカーをいくつか流す実験をした。その結果、全てのマーカーでバンドが現れる位置がずれるという事実に直面した。これは、マーカーの欠陥ではないと本田助手は考えた。電気泳動の問題、厳密にいえばゲルの問題ではないか。
それを確かめるには、ゲルを変えてみればいい。本田助手は、電気泳動などの分離作業に適しているアガロースゲルという別の種類のゲルを使って電気泳動を試みた。
すると、123ラダーと100ラダーのずれはほとんど起きなかった。念のため、アガロースの濃度を変えたゲルを使ってもう一度電気泳動を試みたが、やはりずれはほとんど生じなかった。
ポリアクリルアミドゲルでは、泳動はDNAのサイズだけでなく、塩基の組成によっても影響を受けるという結論を本田助手は引き出した。塩基組成の違いは、DNAの立体構造の違いをもたらし、同ゲルの分子の隙間を通過するときの摩擦に違いが生まれるのではないか、というのが、本田助手の仮説だった。
つまり、ポリアクリルアミドゲルでは、サイズマーカーを使った型判定はできない、ということだ。国際的にも、MCT118部位は、同ゲルを用いた123ラダーでバンドサイズが、測られてきた。このゲルしかなかったわけでも、他のマーカーがなかったわけでもない。しかし、両者が組み合わされたのには理由がある。
MCT118部位は、PCRサイズが非常に大きく、500塩基から1000塩基にまで及ぶ。このような大きなサイズにも対応できるサイズマーカーは、当時は123ラダーしかなかった。
一方で、MCT118部位の繰り返し単位の大きさは16塩基であり、500から1000塩基というサイズにおいて、16塩基の差異はあまり大きいものではない。このような比較的バンド差異が小さなサイズのものを識別するためには、ゲルの目を細かく設定できるポリアクリルアミドゲルしかなかったのだ。
しかし、このゲルは、小さなバンドサイズのものを流すのが通例で、8%以上の高濃度のものが使われるのが普通だった。大きなサイズの泳動には、通常、アガロースゲルが用いられていた。
そこで、全体のサイズが大きいMCT118部位を鑑定するには、ゲル濃度を5%前後と薄いレベルに設定せざるを得なかった。つまり、この部位の鑑定には、大きなバンドの小さな差異を検出するために、薄い濃度のポリアクリルアミドゲルに泳動させて、大きなサイズにも対応できる123ラダーを用いるという極めて特殊な方法が採られていたのである。
この組み合わせに落とし穴があった。要するに、MCT118部位は、その後の電気泳動による型判定の検出方法が未開拓だったために、PCR増幅の段階から当時の技術レベルでは、大きな欠陥を抱えていたのだ。
ならば、アガロースゲルではどうなのか。このゲルは大きなバンドを分離するには適しているが、ポリアクリルアミドゲルほどの分解能力がない。したがって、大きなサイズのバンドからわずか16塩基の差異を検出することは難しい。さらにバンド自体の検出感度も低く、ゲルとバンドの摩擦が大きいので、流す距離が長いほどバンドが薄くなってしまう。
もしかすると、集められてきたポリアクリルアミドゲル電気泳動による型判定のデータは全て誤っているのではないか、と本田助手は考えた。ということは、遺伝子型の出現頻度の算出の基になるテータベースが狂っていることになり、その結果、鑑定そのものも誤ってくるという二重の問題が発生する。MCT118法は、通常の実験方法で、世界中で行われてきた。世界中のデータベースが全て狂っている可能性がある。
ポリアクリルアミドゲルを使った型判定は、本当に不可能なのか。それを確かめるために、MCT118部位で型が判明している資料を流してみたところ、長狭に応じてきちんと流れることがわかった。
つまり、同じ塩基組成を持つものについては、長さに従った流れ方をするのである。ここから言えることはただ一つ、ポリアクリルアミドゲルは、同じ塩基組成を持つDNA部位については相対的な比較はできるが、異なった塩基組成を持つDNA部位についての絶対的な比較はできない、ということだった。
したがって、MCT118部位のバンドサイズを測るには、MCT118部位と同じ塩基組成を持つバンドとの比較が絶対条件となる。このために開発されたのが、その塩基組成に合致した梯子状の物差しである「アレリックラダーマーカー」であったが、それが実用化されたのは、足利事件の数年後だった。
本田助手はついに、鑑定がうまくいかない原因がゲルにあることを突き止めた。これは実験データをそえて福島教授に恐る恐る報告をした。
しかし、福島教授は「そんなバカな事があるはずがない。実験の失敗だ!」と一蹴するだけだった。上司が考えたことは当初、本田助手が考えたことと同じだった。「ゲルの濃度が不適切、あるいは、固める段階での固まり方が不均一でゲルに濃度斑(むら)があるせいか、または、電気泳動の電圧のかけ方がよくなく、電流の流れ方が歪んでいるのではないか。あるいは、電気泳動の機器に問題があるのかもしれない」。
これらについて本田助手は既に確認はしていたものの、福島教授はその点に注意して実験を繰り返してみるよう指示を出した。当然のことである。当時、世界の法医学分野では誰も問題視していなかったからだ。
もっとも、MCT118部位は、個人識別にしか用いることができなかったので、この鑑定方法に関心を持っていたのは法医学界だけだった。他の分子生物学実験室でもPCRバンドの確認にポリアクリルアミドゲルを当然に用いていたが、それは目標とするバンドがあるかどうかの言わば定性試験としてであった。
サイズの確認には、古典的な小さなサイズマーカーを使えばよかった。しかし、法医学において、この部位は、「サイズの正確な決定」という定量試験として用いられていたからこそ、問題が深刻だったのだ。
連載「鑑定漂流-DNA型鑑定独占は冤罪の罠-」(毎週火曜日掲載)
https://isfweb.org/series/【連載】鑑定漂流ーdna型鑑定独占は冤罪の罠ー(/
(梶山天)
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。