【特集】沖縄の日本復帰50周年を問い直す

蔑ろにされた建議書、書き換わる教科書―「復帰」50年、沖縄と教育が歩んだ道のり―

安田菜津紀

ところが11月17日、怒号が飛び交う中、国会の質疑は打ち切られ、協定は強行採決される。建議書を携え東京へと向っていた屋良氏が、羽田空港に降り立つわずか3分前のことだった。

「戦後初めての“県民投票的意義”を持つ主席公選で示してきたのは、即時無条件全面返還だったはずでした。あの屋良建議書は、県民の意思を吸い上げ、集約したものでした。それにも関わらず、沖縄は破れた草履のような扱いを受けたんです」と、石川さんは一際憤りを込めて語った。

本島南部、糸満市の摩文仁で

 

・「沖縄戦はどうして防げなかったの?」の問いに

屋良氏は復帰後、知事の任期を経て、1976年退任する。退任挨拶の中で屋良氏は、「勝ち取った復帰であったが、沖縄の望んだ復帰にならなかった」と無念を語っていた。そして1997年4月、心不全で世を去る。

「軍事にかかわるものを認めない。そういう教育者として屋良は亡くなっていった。最後の棺桶に入っている姿を見ても、決して安らいだ顔じゃなかった。私も悔恨の思いをいっぱい聞かされましたよ。『叶わなかった復帰の中身を勝ち取るのは君たちの大切な責務だよ』、と。屋良が最後に僕などに託したことです」

屋良氏の掲げた「志」はいまだ、道半ばにある。

「世界で一番大きい大国についておけば、自分たちも安全だというのが、ずっと政府の立場です。そしてその立場を引き継いでいれば政権の座にはつける。でもそれは、人の道に照らしてどうなのか」

「なぜアメリカが日本の主権の一部を侵すようなことがあっても“特権”に守られるのか。節目、節目にきちっと整理、追求できるのかが問われます。日米安保も政府の態度も容認してきてしまった国民の責任も、非常に重大だと強く思っています。これは沖縄だけの問題とせずに、日本全体の問題とすべきものでしょう」

屋良氏と同様、石川さんが常に気にかけているのは、これからを生きる次世代のことだ。

「沖縄の子どもたちに“沖縄戦はどうして防げなかったの”という質問を受けたりもします。本当は防げたはずなんです」

「米軍の攻撃はある意味ですごく計画的、科学的に分析して徹底的に行われていたと思います。“日本とはこういう国だ”という編集された動画も残っています。日米の戦いというのは、ある意味、“神話と科学の戦い”のようなものでした」

「沖縄戦では、琉球文化の象徴でもある首里城の下に第32軍司令部壕をつくった。あの時、本土決戦を決意して、京都に司令部を構えることができたかといえば、できないはずです。首里が陥落しても白旗をあげずに、南部に撤退して、“友軍”が県民を道連れにしました。6月23日以後も、いわゆる8月15日の後も、スパイ容疑をかけられた島民の虐殺などが続いています」。

沖縄県教職員組合那覇支部の下地史彦さんが、福島などから来た一行を、第32軍司令部の戦跡へと案内した

 

・過去は現在、そして未来への道しるべ

住民たちが手榴弾などで命を絶ったり、家族同士で殺し合った「集団自決」は、日本軍による命令、誘導があったとする凄惨な歴史から、「強制集団死」という表現がより適切ではないかとの指摘もある。ところが、この日本軍関与に関する歴史教科書の記述に、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれの表現」といった検定意見がついた。2007年9月、沖縄県宜野湾市で開かれた県民大会には11万人が集い、軍命に関する記述の削除に抗議の声をあげた。

「復帰以前の沖縄の歴史を振り返ること、近現代史を検証すること、これなくしては、今を正しく見られないし、未来に対する我々の意思決定の仕方も誤ってしまうと思います」。

強制集団死で多くの命が奪われたとされるチビチリガマ

 

その後、検定意見は撤回されなかったものの、出版社の訂正申請を承認する形で、一部教科書では軍の強制性に関する記述が復活した。ただその後も、沖縄の歴史を覆い、歪める動きは続く。

文部科学省は今年3月、2023年度から使用される高校教科書の検定結果を公表した。「日本史B」に代わって新設される「日本史探究」で検定に合格した5社7冊の教科書に、「集団自決」に関する軍の命令に触れたものはなかった。また、「最初の無差別攻撃は、1945年3月10日未明におこなわれた東京大空襲」と、1944年10月10日に沖縄を襲った「10・10空襲」をまるでなかったことにするような記載のものも見受けられる。

「教科書が改変される度に、あの県民集会で主張した“沖縄戦の真実に基づく記述を”ということが実現していないと痛感します」

石川さんは改めて、加害の歴史と正面から向き合う意味を問う。

「国の責任において行われた沖縄戦についてや、沖縄にいた朝鮮の人たちがどうなっていったのかなどの戦後総括がされていない。まるで足を踏まれた人の痛みを忘れたように、先だけ見ようとしている。朝鮮半島や中国に対して行ったことも含め、“復帰50年”が、全国的な検証の機会になっていけばと思います。過去は現在、そして未来への道しるべのはずです」。

2022年4月、高台から臨んだ辺野古の海

 

今、新基地建設が推し進められている辺野古では、海底に軟弱地盤が見つかり、その実現性に疑問の声があがっているが、それでも日々海は埋め立てられ、多額の税金が投入され続けている。あげく、そこに戦没者の遺骨が眠る本島南部の土砂まで投入しようとしている。

「遺骨の問題だけではありません。命が助かったけれども、重軽傷を負った人たちの血が南部の地には染み込んでいます。その土砂は、沖縄以外の兵士の血にも染まったものかもしれません。全国的にそうしたことが言えるわけです。だから、本当は沖縄の基地問題も国民的な命題です。肉親や、自分のおじいを辿っていけば自分につながっていく。そのような問題として見てくれたらと思います」。

日本軍の陣地壕内に残る指の骨の一部は、火炎放射を受けたと見られ、炭化していた。糸満市にて。

 

建議書を携えた屋良氏、そして琉球政府が、強行採決で踏みにじられて50年余り。5月10日には玉城デニー知事が、名護市辺野古移設断念や日米地位協定の改定を求める建議書を岸田首相に手渡した。「辺野古が唯一」といった「結論ありき」の姿勢のままでいいのか。もう一度、この社会の「道しるべ」を見つめ直す時ではないだろうか。

(「Dialogue for People」より転載)

 

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安田菜津紀 安田菜津紀

フォトジャーナリスト 貧困や災害、難民問題などを国内外で取材。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に被災地を記録。TBS「サンデーモーニング」出演中。著書『あなたのルーツを教えて下さい』など。D4Pでは随時、サポーターを募集しています。

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