哀しき哉、我が先祖!
琉球・沖縄通信2017年に今帰仁村運天の百按司墓からの盗骨問題を知って、遺骨返還を拒み、松島教授を門前払いして琉球・沖縄人差別をする京大を赦せないと憤った私は、松島教授に「裁判になったら応援します」と伝えました。
翌年4月に松島教授から「京大はこちらを無視し続けているので提訴することにした。原告となる第一尚氏子孫を探している」との話があり、何故第一尚氏子孫なのか質問しましたら、第二尚氏時代の正史「中山正譜」や「球陽」に、百按司墓には第一尚氏の貴族たちが葬られているとの記述があるから、その子孫は原告になれるとの説明があり、私は原告に立候補しました。
このように第一尚氏について勉強不足の私は、その時点でも、1879年の明治政府による琉球併合後に植民地支配を受けている琉球・沖縄人の、尊厳の回復と自己決定権確立のために役に立てる喜びを感じただけでした。
しかし提訴の翌年6月に原告として今帰仁村の集会で挨拶することになったとき、1416年に我が先祖尚巴志が山北を攻めて、敵味方の大勢の死体が運天の百按司墓の崖下一帯に累々と横たわっていたとの民間伝承歴史本を読んで、死体の大部分は恐らく敗れた山北の侍たちであり、夫や息子を失った妻達の悲しみやその後の生活は辛く苦しかったであろうと思いを馳せると、母の戦後の生活と重なり、600年前の遠い昔の出来事でも、先祖が今帰仁の人たちを殺生したことを詫びずにはいられませんでした。
尚巴志の息子たちは次々と北山監守として今帰仁城に居住し、北のトカラ列島まで見張り、尚巴志は1429年には山南を滅ぼして琉球国を統一したのですが、最初の1405年の中山王武寧との戦いから三山統一までに、どれほどの多くの血が流れたことでしょう。
第一尚氏は、進貢貿易・南蛮貿易を推進し、朝鮮や室町幕府との交易を行い、首里城を築き、海で隔てられていた那覇と首里を繋ぐ長虹堤を造り、仏教を奨励し各所に寺社仏閣を建立して梵鐘を鋳造し、大型の“万国津梁の鐘”を1458年に首里城正殿に掛けて、世界雄飛の気魄を示しました。僅か40年の治世でしたが、琉球国の基礎を作ったといわれています。最後の28才の尚徳王は、頭脳体力とも優れ、よく学を修め武勇に秀でて、知勇世に稀なる王であったと伝わっています。残念なことに、墓の所在は不明です。
唯一生延びた尚徳王の三男(数3才)は先祖の郷里で匿われて育ち、養父屋比久主の息子屋比久大屋子と名乗り、その孫は王府勤めとなり、兼城間切照屋地頭に任じられて照屋親雲上長太(親雲上とは琉球王府の役職、後記参照)となりました。
1689年に系図奉行が設置され家譜作成を命じられたときに、嘗て敵対した第二尚氏王府を憚って「先祖は尚徳王」と書けず、後にこのことが災いして、戦災を免れた亀谷本家の系図に、照屋親雲上長太(尚徳王曾孫)が明姓一世となっていて、私と尚徳王が系図上繋がっていません。「明姓」は尚徳の祖父尚巴志が明皇帝から授かった姓です。
ところが今年3月になって、昔購入した「沖縄県姓氏家系大辞典」(角川書店発行)に、「亀谷は名乗り頭を“長”とする明姓の家系」と書かれている資料を発見し、「明姓亀谷は第一尚氏子孫である」との、沖縄の姓氏家系研究者の意見書提出により、裁判所に対して立証可能と確信しました。
私は原告として行動するうちに、第一尚氏が次第に身近に感じられてきて、ご遺骨を取り戻す使命を先祖から与えられているとの強い自覚を持つようになりました。
「勝者必衰の理」とは言え、貿易を介して東アジアの平和と友好の架け橋を目指して羽ばたいて行く志半ばで、若くして没した先祖尚徳王が哀れに思われ、その子孫は、第二尚氏時代には出自を隠して生きて行くうちに、先祖の第一尚氏が嘗て築いた業績も知らず、私のように幼少で父親を失った子にも伝わっていなかったことも残念で、先祖に対して申し訳ない気持ちで一杯です。
今、百按司墓の先祖の骨神は、学術資料として砕かれて、この地上から永久に消滅する危機に立たされています。
京大よ、不運な目に遭った私の先祖第一尚氏のご遺骨を、どうか、どうか返して下さい。
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琉球人遺骨返還訴訟の原告