【特集】琉球人遺骨問題の真実と背景

哀しき哉、我が先祖!

亀谷正子

私は1944年7月30日に、南洋群島テニアン島で生まれました。父が出稼ぎで南洋興発という国策会社の工場勤めをしていて、母と見合い結婚し1941年に兄が誕生しました。そのわずか10日後の同年12月8日に真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入。しかし、テニアン島の友軍達の「自分達が死守するから大丈夫だ」との言葉で、大きな不安も抱かず生活していました。

Flight map of the atomic bomb missions in Hiroshima and Nagasaki in 1945

 

赤ちゃんコンクールで兄が、同体重の3日若い児に優勝をさらわれたと母は残念そうに話をしました。小学5年生から自分の服を仕立てていた母は、当時は既製服が無い時代で、内職の洋裁が大繁盛して父に劣らぬ収入を得て、故郷に錦を飾る日の為にせっせと貯金に励み、大衆風呂に行く途中でアイスキャンディを欲しがる兄に、3度に1度しかアイスキャンディを与えることができなかった。

そのことを、「毎回食べさせれば良かった」と、私が大学卒業後に母と初めてアイスクリームを食べた時に、昔のことを涙ぐみながら話しました。戦争がテニアン島に来るまでは、親子3人の幸せな暮らしがありました。

しかし、1944年2月23日初めての空襲。以後空襲がある度に、西海岸の会社宿舎からカロリナス台地の防空壕まで、母は身重の身体で避難を繰り返し、6月13日は海からの激しい艦砲射撃も加わり、宿舎に戻れず山の壕への最後の避難となり、その壕で私は誕生しました。私が生まれたその晩に2人の友軍が来て、他の壕に移るよう指示されて近くの壕らしき所に入りましたが、翌日昼頃の艦砲射撃で小さな壕の入り口に居た父と兄は死亡、お産翌日で壕の奥で私に添い寝していた母と2人は無傷でした。

母は乳児の頃に肺結核罹患したのでしょう。子守をした5才年上の姉が背中から落として傷めた腰・脊椎に結核菌が取り付き、満1才になっても立たせると痛がり泣いて座り込む状態でしたが、母親の再婚で連れ子となった8才の時に、初めて病院を受診して1年8ケ月間ギプスを巻き、生まれて初めて立ち上がれるようになりました。11才から就学をした母を、養父は県立一高女にも通わせてくれました。

しかし、戦争中身重の身体で頻繁な避難を繰り返し、幼少の頃の腰・脊椎カリエスが再発し、最後の避難の時は父の肩を借りての歩行でした。母は次の爆弾が飛んで来たら自分の死ぬ番だと思っていたそうですが、2度と飛んで来ず、産後4日間も飲まず食わずのため激しい渇きを覚えて、水を1口飲めれば殺されても本望と、壕の下方で作業をしていた米兵達に白いハンカチを振り、やって来た2人に「Give me water」と頼み、2人の水筒を飲み干したとのことです。

母娘は収容所に連れて行かれ、叔母(母の21才の同母妹)と会えました。母は1ケ月後に左大腿部から夥しい排膿があり、大腿骨骨頭を含む15cmが腐食で失われ、特別身体障害者となり、沖縄へ引揚げるまでの1年8ケ月の間、父と兄の遺体のある場所に叔母を案内することも出来ませんでした。

1946年3月下旬に母娘は米軍占領下の沖縄へ引き揚げ、母はしばらく県立中部病院に入院しましたが、その後母の実父が避難民として牛小屋に住んでいる越来村(現沖縄市)に行きました。祖父は後妻の娘(母の異母妹)と暮らしていて、米軍基地で働きパーマネントの技術を学んだ叔母は1951年に自力で家を建て、その一角に私の大学卒業まで住まわせてくれました。生活費の援助は受けなかったとのことです。母は裁縫と生活保護の僅かな支給金で、私を育てました。幸いにも、私は1961年に沖縄に初めて適用された日本育英会の高校・大学特別奨学生に合格し、1962年に熊本大学薬学部に入学しました。

母は戦争中に再発した腰・脊椎カリエスを、1946年から1965年までの19年間、昔の傷口から少しずつ排膿が続いていましたが、患者として一度も治療を受けることなく、驚異的な免疫力で生延びましたが、私の大学進学前から年々患部の痛みが増して裁縫仕事もはかどらず、日本政府による結核患者の本土療養所送り出しに応募し、1966年3回目で合格し、東京村山療養所で6時間に亘る人工骨頭固定術を受けました。

勿論、私は在学中に東京見物や旅行も出来ず、母方祖父の葬式にも帰沖する経済的余裕が無い状況でした。1966年卒業後の5年目には、叔父が祀っていたお位牌を受け取りましたが、何と、高祖父夫婦他沖縄戦で戦死した18才の叔父を含め10名分の名前が有り、2才8月で死んだ兄が牛亀谷小家5代目の長男であることを知り、また、出稼ぎで父親の最期を看取れず、故郷に戻れぬまま己だけでなく息子の命までが果てた父の無念さを思うと、胸が潰れそうでした。

私は48才になって自分のルーツ探しを始めました。それまでに、北谷始祖は与那原町の親元から分家したとの叔父や親戚からの情報がありましたので親元の家を訪ね、そこで亀谷家は明姓で、第一尚氏子孫であると教わりました。

琉球歴史については、学校で教わることも無く、第一尚氏は第二尚氏に取って代わられたとの大まかな知識しかありませんでしたので、先祖と言われても俄かに信じ難く、子孫としての敬愛の情も湧きませんでした。北谷亀谷の親戚には、手作りの系図を作成して配りましたが、それまで誰一人、第一尚氏子孫と認識しているも者はいませんでした。その後私は、第一尚氏について勉強せず、歴代7王の墓が何処にあるかさえの関心も無いままに過ごしていました。

 

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亀谷正子 亀谷正子

琉球人遺骨返還訴訟の原告

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