【特集】鑑定漂流
科警研が一審裁判に提出したDNA型鑑定の写真。かなりずれているのが分かる。筑波大の本田克也元教授箱の写真を見て歪みがひどく、鑑定に失敗していることが分かる写真だ。これが裁判に提出されている事を見ると、これが最高の写真で、鑑定自体失敗していたことが分かると指摘した。

第19回 運用のルールも決めず見切り発車したDNA型鑑定はまさに「暴走列車」

梶山天

欧米で事件捜査の犯人割り出しに効果を上げているDNA型鑑定がわが国で初めて1990年代に導入された。その鑑定結果で犯人とされ、18余年ののちに開かれた再審で「冤罪」が立証される足利事件でだ。裁判で新たな真実を見極めるための証拠として活躍が期待されるDNA型鑑定は、スタートから暴走してしまったのだ。いったいなぜ、そうなるのか。

その影響は、近年にまでも引きずられている。2005年12月に栃木県旧今市(現日光)市内の小学1年の吉田有希ちゃん(7歳)が下校中に行方不明になり、翌日に茨城県常陸大宮市三美の山林で他殺体で見つかった今市事件でも警察が故意的にDNA型鑑定結果を捏造し、明らかに裁判で無実の男性が無期懲役で千葉刑務所に投獄されているのだ。ISF独立言論フォーラムは、その事実を昨年4月からホームページで冤罪撲滅キャンペーンとして展開してきた。事件の真相を暴くための鑑定が、裁判で捜査機関の都合のいい結果を導く道具に利用されているのも現実なのだ。「私は人を殺したことはない。どうして私が刑務所に入らなければいけないの……」。千葉刑務所に服役中の男性の叫び声が、聞こえてくる。こんな裁判でいいのか。

歴史をたどれば、法的にきちっとしたルールがDNA型鑑定の導入時前から作られていなかった。なんと足利事件の一審裁判が宇都宮地方裁判所で始まった後からルールができたのだから順序が逆だ。きちんと法的なルールができて、初めて鑑定ができるのであって、足利事件の裁判で証拠としてこの鑑定を出すこと自体もはばかられる。捜査機関が勝手にこの鑑定を承認して、運用したのだ。とどのつまりは、何の承認も受けずにだ。そして挙句の果てには、近年捜査機関の暴走を防ぐ監視役だった大学の法医学者から鑑定を奪い、捜査機関の独占になってしまったから、やりたい放題。だから裁判は一方的になるのは当たり前だ。この事実を報道記者として見過ごすわけにはいかない。

DNA型鑑定への認知という面では、足利事件発生から約1年後の91年5月29日の第120回国会閉会後の参院決算委員会で千葉景子議員(当時、社会党)がこのDNA型鑑定の導入について警察庁の考えを問い質した。国松孝次・警察庁刑事局長が説明に立ち、DNA型鑑定導入の方針であることを認め、次のように見解を述べた。

「二十一世紀における我々の鑑定技法の中で大きな地歩を占めるものと位置づけ、すでに科警研で技法等は確定している。相手(容疑者)の人権等を考えながら、鑑定処分許可状あるいは身体検査令状をちゃんと取りまして、恣意的な抽出ということが絶対ないようにということで、それをやってまいるつもりでございます。ただ、何せ新しい手法でもございますし、それにつきまして非常に杞憂と申しますか、あらぬ不安が深まるということも、これは困るわけではございますので、私どもがそのガイドラインづくりをしながら、ある程度オープンな形でいろんな方々のご意見を賜りながらやってまいりたいというように思っておりますが、とにかく今のところの感じでは、特に新しい採取の手続きと申しますか、あるいは試料の保管手続きというものにつきまして、立法する必要は今のところないというように私どもは考えておりますけれど、いろんな各方面のご意見は謙虚に耳を傾けて、制度化してまいりたいというように思っております」。

しかし、国松刑事局長が述べられたようなオープンな形でとか、謙虚に耳を傾けてとかいうような議論がなされたことはまずない、と言ってよい。いわば、なし崩し的にDNA型鑑定が導入されているというのが実情だ。

物事を進める時には、取り決めとも言おうか、一定のルールが必要になる。この間のDNA型鑑定にかかわった警察庁と栃木県警の動きを注視すると、自ずと見えてくるものがある。それは、無法で、何の制限もなく、警察の都合の良い捜査優先で人権など微塵もないものだった。

足利事件では当初、渡良瀬川で見つかった被害者の松田真実ちゃん(4)の半袖肌着と元幼稚園バス運転手の菅家利和さんがごみとして捨てた精液付着のティッシュペーパーを尾行していた栃木県警の手塚一郎警部補警察官が押収し、捜査本部から嘱託を受けた警察庁の科学警察研究所(科警研)の向山明孝、坂井活子両技官が「MCT118法」という方法で鑑定した。

栃木県警は鑑定の結果、肌着とティッシュペーパーの型が「16-26型」で一致したとして、菅家さんを足利署に無理やりに連行し、機動捜査隊の芳村武夫警視と捜査一課の橋本文夫警部が嘘の供述までさせて逮捕した。

これは警察庁が法的にきちっとしたルールを作る前に、92年度から全国の都道府県警に鑑定機器の配備計画を大蔵省(当時)に認めてもらう予算獲得のためにアドバルーンとして何のお墨付きもないのに足利事件捜査に実用化してしまったのだ。国民が納得いく法整備が整っていての実用化が本来の姿である。しかし、この組織はそんなことはおかまいなしで、違った。まず、大蔵省に予算を認めてもらうことが何より大事だった。

警察庁は、マスコミを使い、一方的な宣伝(情報操作)にDNA型鑑定の実践を足利事件で行い、「科学の力」を報道によってアピールしてもらい、ゼロ回答だった予算を復活折衝で満額回答を受けたのである。

DNA鑑定の運用を実際に開始したのであれば、どんなルールで鑑定を行ったのか。裁判にはどういうふうに臨んだのか。取材をして驚いた。

菅家さんの逮捕当時さしたる運用ルールは、ほとんど作成されていなかった。栃木県警は足利事件の一審裁判である宇都宮地方裁所に証拠としてこの鑑定結果を出してきた。その鑑定書では、菅家さんのDNA鑑定の着手が91年8月27日で、終了した期日が同年11月25日と記載されていた。その3カ月の検査中の10月に科警研は「捜査と鑑識のためのDNA型分析」という名目で、ちょっとしたマニュアルを作成していた。

紹介すると、そこには「DNA型分析ができる精液斑の量と古さ」について、「三ミリ×三ミリ程度の(斑痕の)大きさで、一年以内のもの」とあった。さらに「試料採取及び保存上の注意点」として「試料を直接指で触れたり、持ったりしないこと。採取した試料は、冷凍庫または冷蔵庫に保存し、速やかに『科捜研』に送付すること」と簡単に記されていた。

その文章の中に「科捜研」とあるのは、このマニュアルが翌年度から順次配備されるDNA鑑定の解説書として各都道府県警の捜査員向けに作られたからだ。そのうえでいざ、配備開始となった年度初めの92年4月14日に警察庁はさらに「DNA型鑑定に関する運用指針」と題する通達を全国の県警本部へと出している。

そこに、試料の保存について「凍結破損しない容器に個別に収納し、超低温槽(マイナス80度C)で冷凍保存するなど、試料の変質防止等に努める」と、先のマニュアルより厳しい条件を付けている。

しかし、足利事件で鑑定に供された現場試料は、川から発見された半袖下着で、ヒーターによって乾燥された後、1年3カ月もの間、ロッカー内に常温で保管されていた。足利事件の鑑定は、その検査中に作成された科警研のマニュアルにも、また警察庁の運用の指針にも反した検査だったことは、言い逃れができない事実である。

しかもDNA型鑑定は、この頃には捜査機関だけが研究していたわけではない。東京大学やMCT118法の欠陥をいち早く発見、発表した本田克也助手が在籍する信州大学、新潟大学、筑波大学、日本大学などいくつかの大学法医学教室でも研究が進められていたのだ。裁判にもなると、被告側から法医学者が裁判に出廷することもある。だからDNA型鑑定のルールは、一概に捜査機関だけで作ればいいというものではなかった。

これまで裁判のなかで証拠として提出されてきた指紋に、DNA型鑑定がとってかわるのだから、裁判官だって知識を拡大して学ぶ必要があった。というのも、菅家さんが逮捕された当時、連日新聞、テレビでDNA鑑定についてこれからの裁判も変わると大合唱。にもかかわらず、一審裁判である宇都宮地裁の久保真人裁判長ら3人の裁判官たちは、まず鑑定について学ぶことを無視して裁判に出廷した科警研の技官たちの証言を「その道の専門家の言うことだから間違いない」と何の裏付けもとらずにお墨付きまで付けてしまったのだ。

科警研が一審裁判に提出したDNA型鑑定の写真。かなりずれているのが分かる。筑波大の本田克也元教授箱の写真を見て歪みがひどく、鑑定に失敗していることが分かる写真だ。これが裁判に提出されている事を見ると、これが最高の写真で、鑑定自体失敗していたことが分かると指摘した。

科警研が一審裁判に提出したDNA型鑑定の写真。かなりずれているのが分かる。筑波大の本田克也元教授箱の写真を見て歪みがひどく、鑑定に失敗していることが分かる写真だ。これが裁判に提出されている事を見ると、これが最高の写真で、鑑定自体失敗していたことが分かると指摘した。

 

後に菅家さんの無実を証明した再審で科警研の技官たちや警察官がDNAの抽出量など裁判審理の根幹にかかわる大事な事実を偽証していたことが明らかになる。

これが裁判なのだから聞いてあきれる。まず裁判官としての裁判に対する姿勢に愕然とした。そして思ったのは、真実を追求する裁判とはとても言えないぐらいお粗末な内容だった。裁判に出廷する科警研の技官たち。まず宣誓する。にもかかわらず、平気で嘘をついていたのだ。裁判官たちも「なるほどその道の専門家だ」ということで納得。これは、裁判官主催の嘘つき大会。その何物でもない。

さて、国内で初めて「足利事件」という事件捜査に使われたDNA型鑑定の「MCT118法」が実は欠陥が多く、とても鑑定に使えないことが信州大学法医学教室の本田助手らのグループが92年12月に開催された「日本DNA多型研究会」で発表されたことなどもあってDNA型鑑定のルールであるガイドライン(運用方針)作りは、捜査機関だけでなく大学なども含めて同研究会の会員たちから「科学者の社会的責任として司法運用のための適正なDNA鑑定のあり方を提言する必要がある」と言う声が上がり、機運が高まったのだ。

そこで、同研究会の中に94年から  DNA鑑定検討委員会(勝又義直委員長)が作られ、95年に名称を変えて発足した「日本DNA多型学会」が97年12月5日の第6回学術集会で「DNA鑑定についての指針(1997年)」を発表した。

その指針を見て絶句するとともに、かつて参院予算委員会で警察庁の国松刑事局長がDNA型鑑定導入について説明し、「ある程度オープンな形でいろんな方々のご意見を賜り、いろんな各方面のご意見は謙虚に耳を傾けて、制度化していきたい」と述べた言葉が私の胸の中に残っていた。

この指針は96年9月から1年以上かけて各界の委員たち13人が集まって検討した結果だ。その中には科警研からも委員がいた。その科警研がこの指針を作ることにどう動いたか。何をしでかしたか。国松刑事局長の真摯な言葉が理解できないのか。後の再審の法廷で次々に明らかになった事実こそ、この指針で絶対に取り決めをしなければいけなかった重大な事実だ。科警研の当時の鑑定は、試料を残さず、絶対に処分してしまうしかないほど、大変なことになるとして動いたほど、めちゃくちゃな鑑定だったということだ。菅家さんはそのとんでもない組織のために、大事な生涯を犠牲にさせられた。

鑑定の事実がばれるのを恐れて,その証拠物を警察機関である警察庁の科警研が処分したとすれば、それはれっきとした犯罪である。この指針作りで科警研がかなり反対したが、後の足利事件再審法廷で明らかになった科警研の偽証や証拠の隠ぺい、廃棄を思うと、当初のしっかりした勧告案に反対意見を言うなどとんでもない「やからたち」としか言いようがない。人々がせっせと働いて収めた税金で仕事をしている人々とは認めたくない。

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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