21世紀の国家安全保障のために原発は邪魔である!

佐藤雅彦

のっけから結論をいえば、原発は(そして核兵器も)もはや持っているだけで、国の安全と国民の生命・生活を脅かす「凶器」でしかないので、さっさとやめてしまえ、ということなのだ。

・原爆・水爆・原発を「三種の神器」にしていた冷戦時代の神話はもう通用しない

時代が変われば、世界全体の国際的な軍事的・経済的・政治的な環境も変わるし、技術のありようや、気候も含めた自然環境も変わる。16~17世紀のアメリカ新大陸発見からヨーロッパ列強支配圏域の“世界的拡張”の前後や、18世紀後半の米国独立革命とフランス革命の前後や、19世紀のロシアも含めたヨーロッパ列強と東西アジアの大国だったオスマン帝国や大清帝国との戦争の前後や、20世紀の二つの世界大戦の前後をみれば、こうした軍事的・経済的・政治的環境の世界的激変を我々ははっきりと認めることができる。

1945年8月のヒロシマ・ナガサキ原爆投下によって“原子核エネルギー”の人為利用が人類世界にデビューし、軍事的には核兵器、「非軍事」的には原子力発電が、その後の世界に蔓延してきた。原子核エネルギーの人為的“解放”は文字どおり画期的なことだったので、原爆・水爆や、原発が世に出た当初は、科学者も政治家も産業人もアタマに血がのぼって素っ頓狂な“原子力エネルギーが開くバラ色の未来”を夢想し、言挙げ宣伝し、利権業界を作り、核兵器と核発電に寄生する利権構造をひたすら増長してきた。

だが中長期的な観点からみれば、20世紀後半に大流行した「核エネルギー利用」ブームは、子どものハシカみたいなもの、つまり一過性の熱病でしかない。

30年前に“冷戦”が終わって“ソヴィエト社会主義共和国連邦”が消滅したとたんに、中部ヨーロッパで民族間・宗教間“憎悪”を背景とする戦争が起き、それが終わるや、民族間・宗教間の対立を原動力とした国際紛争が世界中に多発しはじめた。ちょうど20年前の2011年「9・11」米国「同時多発テロ」は、イスラム教文明とキリスト教文明と対立を象徴するとさんざん喧伝された事件であったが、もはや“国家と国家の正面対峙”という戦争のありかたが通用しない“ゲリラ戦争”の時代が到来したことを、我々は思い知った。この現実を誰よりも厳しく痛感したのは、米国の政治的・軍事的エリートたちだったはずである。

Steel Skeleton of World Trade Center Tower South (one) in Ground Zero days after September 11, 2001 terrorist attack which collapsed the 110 story twin towers in New York City, NY, USA.

 

なにしろソ連の消滅によって、一時は「世界一強」だと自惚れていた米国が、その自惚れがあったからこそ「9・11」事件直後に米国の“小ブッシュ”大統領は傲慢にも「世界の国々はわれわれに付くか、それとも我々の敵に付くか」と米国以外の世界諸国に“二者択一”を迫ってアフガニスタンやイラクに“有志連合による戦争”を仕掛けることも出来たのだが、アフガニスタンでもイラクでも国家総ぐるみの戦争にボロ負けして遁走したのであるから。

現代世界の大多数の国は「民族国家」であり、我々は「民族国家」を絶対的な寄辺だと妄信しているわけだが、これが人類の集合態の最終形態だという保証はない。もっと上位の集合態に進化する可能性もあるのだから。(逆に言えば、「民族国家」が人類の究極の集合態だと妄信して、それ以上の人類集合態の可能性を考えられないのなら、「民族国家」の段階で人類は滅亡するってことだ)。

「民族国家」というのは人類の集合態としては、比較的最近になって登場したものであり、現代世界の大方の軍事・政治・経済の安全保障の枠組みも、この「民族国家」を土台に据えてごく最近に築かれてきたものであるが、この“国のかたち”なり安全保障の枠組みは、たとえば超国家的でアメーバ運動のような(イスラム帝国主義とでもいうべき)「イスラム国」建国運動が出現して、いまや根本から揺さぶりをかけられている。

そしてさらに、いわゆる「地球温暖化」、もっと正確にいえば世界の諸地域での局地的な気候の激変と、それがもたらす激甚災害によって、農業が壊滅的な打撃を受け、巨大台風や高潮で海洋沿岸や河川沿岸の地域に洪水が頻繁に襲来し、それが国家の存続を脅かす事態にもなっている。

これら諸々の、世界的な軍事的・政治的・経済的および自然環境の情勢の激変によって、とりあえず「民族国家」を寄る辺としている我々は、「国家の安全」、もっと身近な問題として「自分たちの生活の安全保障」を図るためには、根本的な戦略の転換を迫られている。

・原発と核兵器が安全保障を脅かす「凶器」に転じた理由

1個の“固体”としての存在様態がまがりなりにも確立していた「民族国家」どうしが激突していた20世紀の「世界大戦」の時代を経て、「民族国家」が内外から掘り崩されて(この変容はもっと高次の人類集合態にむけた創造的破壊の予兆かもしれないけれども)崩壊しつつある今、「民族国家」が有頂天だった時代の「三種の神器」である原爆・水爆・原発は、国家の安全保障と国民の生命・生活の安全保障にとって、我々が太平洋アジア戦争や福島原発災害で繰り返し思い知らされてきたように「国家」という制度の安全保障と、「国家」のもとで暮らす人々の生命と生活の安全を保障することは、別物である真逆の、破壊的意味を持つようになった。

その理由を、いくつか列挙しておこう。

【1】原発は「攻撃を呼び込む」固定核地雷である

地雷は本来、敵の侵入を阻むために敷設する兵器であるが、平時には国民を襲う凶器と化す。たとえば冷戦時代に内戦に明け暮れていたカンボジアは、冷戦の終了で和平の動きが急進展して、荒廃した国土を経済開発する機運が高まったが、内戦時代に敷設された無数の地雷がその障害となり、地雷を除去するための国際的な支援活動に日本も大きな貢献をしたことは我々の知るところである。英国のダイアナ皇太子妃が、戦争や内戦で荒廃した国々で地雷除去に尽力しているNGOの活動に協力していたことも、よく知られている。

原子力発電所は、(元々は軍事用艦船の動力源として)原子爆弾の開発技術を転用して生み出された副産物であるけれども、冷戦下の米国が“子分の国々”をまとめるための「平和のための原子力」の売り物として世に広められ、あくまでも“平和な時代の民間利用”ということになっていた。だから平和な時期の原発はもちろん「地雷」ではない。(ただし福島原発災害のように、平和な時代でも大事故が起これば自国民を襲う「凶器」に一転するわけで、そういう意味での「核地雷」の要素はぬぐえない)。

ところが戦時ともなれば、原発は、敵に狙われる“標的”と化す。放射性物質を大量に貯えている施設が攻撃されれば、その周辺地域は放射能で人が住めない環境と化す。

冷戦時代も含め、第二次世界大戦以降の世界は、「民族国家」が「国際連合」システムに参集して国家間の安全保障を維持する、という枠組みを維持してきたが、国家どうしの正面戦争ではなく、ゲリラ戦を主力とする“不正規戦争”の時代、すなわちテロリズム遊撃戦の脅威が高まった現在では、原発や、大量の放射性物質を扱う核兵器関連施設は、テロ攻撃の絶好の標的なのである。すなわち戦時下の原発は、敵が、原発設置国を弱らせるために用いる“固定核地雷”に等しい。

 

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佐藤雅彦 佐藤雅彦

筑波大学で喧嘩を学び、新聞記者や雑誌編集者を経て翻訳・ジャーナリズムに携わる。著書『もうひとつの憲法読本―新たな自由民権のために』等多数。

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