【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)

第23回 新たな弁護士たちの控訴審

梶山天

ISF独立言論フォーラム副編集長の梶山天(たかし)が菅家利和さんと佐藤博史弁護士に初めて会ったのは、忘れもしない2009年7月11日午後だった。裁判史上初のDNA型鑑定再鑑定で、警察庁の科学警察研究所(科警研)が行った旧鑑定が菅家さんと一致していないことが明らかになった。同年6月4日、検察は再審請求が認められる前に動いた。異例にも刑の執行停止を行い、菅家さんを千葉刑務所から釈放したのだ。事実上の敗北宣言だった。

千葉刑務所から突然釈放され、佐藤博史弁護士宅で暮らす菅家利和さんに梶山天がインタビューした録音テープを起こした文書

千葉刑務所から突然釈放され、佐藤博史弁護士宅で暮らす菅家利和さんに梶山天がインタビューした録音テープを起こした文書

 

私はとにかく2人に会って今の心境を聞きたかった。菅家さんにとっては、釈放は喜ばしいことではある。が、何の前触れもなく、いきなり千葉刑務所から出ろと言われても、父(81歳)は菅家さんが逮捕されて約2週間後に病死し、最も大切な存在だった母(91歳)も無期懲役で服役中の07年4月に他界。実家は更地になっていたのだ。

これから生活する場所さえ今から見つけなければいけない。そんな事情もあって当時菅家さんは、応急的に佐藤弁護士の横浜市内の自宅に居候していたのだ。

佐藤弁護士宅に上がり、名刺を差し出し挨拶すると、2人は開口一番「えっ!梶山さんは今は記者じゃないんですか?」と驚いた。その名刺には「朝日新聞東京本社マーケーティング主査」と肩書が記されていた。私はその日は土曜日で、休日を利用しての個人的な興味の取材だった。社会部記者であれ、マーケーティング主査であれ、私にとってはニュースに向き合う報道に変わりはなかった。

実は、3カ月前に西部本社報道センター地域面監事(西部本社管内の新聞の地方版全体のコーディネーター兼ジャーナリスト学校幹事)から異動で来たばかりだった。

自分の将来を役員たちがどう考えたのか真意は測りかねるが、自分の将来は心の中に決めていた。肩書があろうが、なかろうが、生涯一記者。聞こえてくる人々の叫びに耳を傾け、まず取材をして事実を伝える。それ以外に望むものは何もない。現にこの取材の2月後には、調査報道を専門とする東京本社特別報道センター(後に特別報道部)に異動になった。新聞社といえども、1年も満たないわずか7カ月で2回も異動があるなんて異例中の異例だ。

さあ、本題に入ろう。足利事件裁判で後に菅家さんの冤罪を晴らす原動力になった弁護士は、求刑通り無期懲役だった93年7月7日の一審判決後から弁護団の主任弁護人を務めた佐藤弁護士であることは間違いない。

一審判決の翌日、菅家さんは控訴申立書の理由欄に「無罪」の二文字だけを書いて控訴した。一審の主任弁護人だった梅沢錦治弁護士は、「菅家さんと信頼関係も築けず、『自白』調書に関する勉強も不十分だったかもしれない」などと語り、奥澤利夫弁護士とともに一審で弁護を降りた。

佐藤弁護士は、足利事件の一審判決後に、初めて東京拘置所にいた菅家さんに面会したことを鮮明に覚えている。93年9月7日だった。無罪を訴えているようだが、本当なのか?実際に会って確かめたかった。面会は約30分だった。

菅家さんは一審公判中での92年に弁護側申請の福島章上智大学文学部教授の精神鑑定で、成人女性の代わりに子どもを性的対象にする「代償性小児性愛者」だと診断された。だが、佐藤弁護士は「面会してそうではないことがはっきりとわかった」と声に力を込めて強調した。佐藤弁護士は、幼女を狙った連続犯を弁護した経験があり、小児性愛者の世界の知識を持っていた。「女児に対する性的欲求など全くといっていいほどなかった」と説明してくれた。

それを聞いた私も同感だった。菅家さんは、よく、足利市内のレンタルビデオ店でアダルトビデオなどを借りて土、日曜日に借家で見ていた。栃木県警は、菅家さんを逮捕直後に借家と自宅を家宅捜索した。押収したビデオは約240点にのぼる。刑事たちが期待したのは、裁判で女児に関心があることを示すロリータ系のビデオだ。菅家さんが10年かけて集めたビデオのうち、7割が中古のポルノビデオだった。このほか加山雄三の「若大将」、勝新太郎の「座頭市」渥美清の「男はつらいよ」などがあった。

ここで注目するのは、ポルノビデオの中身だ。「巨乳一番搾り」「胸も尻もデカい女」とほとんど成人女性の巨乳モノで、いわゆるロリータ系のものは全くなかったのだ。つまり菅家さんは、女児に性的興味は全くない。普通の成人男性と何ら変わらないことが証明されていたのだ。捜査を行った栃木県警はそれに気づいていないのが不思議でならない。それとも知っていて犯人に仕立てたのか?

佐藤弁護士が菅家さんの弁護をなぜ、引き受けたのか、話を戻そう。佐藤弁護士は、一審公判中の93年1月に法律雑誌へ論文「DNA型鑑定と刑事弁護」を寄稿した。この論文が菅家さんの支援者の一人である西巻糸子さんの目に留まり、一審判決後に弁護の依頼を受けた。菅家さんの裁判という人生をかけた闘争の中で、西巻さんの寄り添うような思いは心強かったはずだ。

だが、その時点で佐藤弁護士は、弁護人になる気にはなれなかったという。彼は当時、DNA型鑑定を研究する日本弁護士連合会(日弁連)の研究委員会に所属していた。92年秋に菅家さんの一審弁護人だった栃木県弁護士会の梅沢弁護士を講師に招いた。その際に梅沢弁護士から「彼(菅家さん)は犯人だと思う」と聞いていたからだったという。

控訴後の菅家さんは、国選弁護人が決まっていた。佐藤弁護士が93年8月末に国選弁護人である女性弁護士に連絡を取った。すると、立証方針を示す控訴趣意書の提出期限が2週間後に迫っているのに菅家さんの面会さえ行っていなかったのだ。

「重大な事件なのにこれではだめだ」。勢いとでも言おうか、佐藤弁護士は「私が弁護人になる」と女性弁護士に伝え、菅家さんの私選弁護人になることを東京高裁に連絡した。さらに控訴趣意書の提出期限延長を高裁に申請。第二東京弁護士会の神山啓史弁護士ら4人の弁護団を編成して、すぐに一審の裁判記録の読み込みや菅家さんの面会を続けた。

同年12月に高裁へ提出した控訴趣意書は、計485ページ。「被告人は犯人ではない。一審判決は事実誤認のゆえに、証拠能力がないDNA型鑑定や自白を有罪認定にしたがゆえに、破棄されなくてはならない」。翌94年4月28日、東京高裁(高木俊夫裁判長、岡村稔裁判官、長谷川憲一裁判官)において、その後2年にわたる控訴審の幕開けとなる初公判は開かれ、4人の弁護士たちが交代で控訴趣意書全文を読み上げた。

「これからの刑事弁護活動にDNA型鑑定の知識は欠かせない」。佐藤弁護士は常々そう考えていた。そこで94年5月、他の弁護士たちとともに日本大学の押田茂實教授のもとを訪れ、DNA型鑑定の実習をした。従来、DNAの検査には、1週間ほどかかっていたのを押田教授が技術改良し、1日でできるようにしたのだ。佐藤弁護士はこのチャンスを見逃さなかった。

控訴審弁護団には、当時、日本DNA多型研究会に所属するDNA型鑑定に詳しい弁護士が参加した。弁護方針は一審とがらりと変わり、科警研の鑑定を追及することになった。控訴審ではまず、マーカーの変更を問題定義することを弁護方針に打ち立てた。そこで旧マーカーである123ラダーを使い、誤った結果を出した科警研の技官2人を証人申請した。

94年9月22日の第4回公判では、数値が変更されたことと、それに伴い科警研の技官たちが行った鑑定が果たして今でも信用に足るかどうか、弁護人が質問した。

理由は不明だが、定年を待たず退職した向山孝明元技官は「旧マーカーを使ってDNA型をパターンとして検出後、画像解析装置を使って塩基配列を算出。そこには誤差も出てきた。新マーカーを使うことによって、より正確な繰り返し配列と比較的簡単に型判定ができるということから変更したというふうに聞いている」したがって、「マーカーを変更したことに関連して旧鑑定の信頼性が揺らぐことは少なくともないと思う」と証言した。

続く第5回公判(同年10月6日)には坂井活子技官が証言に立ち、「123塩基ラダーで示されている型が正しい繰り返す回数を表す型ではなかったということが分かった」と旧マーカーが正しい物差しの役目をはたしていないことを認めた。

その時その欠陥に気づかなかったのか、と重ねて尋ねた。坂井技官は123ラダーによって出た数値は「結果としては(アレリックよりも)多少低め(数字が小さい)に出ていますけれど」と数値の誤差を認めたものの、「当時、世界中の人で気がついた人はいなかったんじゃないかと思います」と証言した。しかし92年12月には、当時信州大学法医学教室の本田克也助手が欠陥を発見、日本DNA多型研究会の学術集会で発表していた。坂井技官らはその後何ら検証もしなかったことには触れなかった。

坂井技官の証言は核心に触れた。新しく導入したアレリックラダーは、塩基組成がMCT118部位の対立遺伝子である各アリルのそれぞれに対応するバンドを集めたものだ。この新マーカーは、同部位の塩基組成と同じもので構成されている。しかし、旧マーカーの123ラダーでは、基準である塩基組成が異なっているのに、それによる誤差が生じうることに気づかずに鑑定を行った、と。

弁護団は「つまり、分からない部分があったまま、MCT118部位の分析をされてきたということになるわけでしょう」と鋭く追及した。

「なにごとも基準というものは゜、最初は分からないもので始めまして、それでだんだん分かるものに変わってくると思うんですけども」。質問に坂井技官はこう答えたが、実際にはこの時点でも、旧マーカーの基準となる塩基組成は不明のままだったのである。

 

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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