【連載】平成・令和政治史(吉田健一)

『平成・令和政治史』 第4回 村山富市内閣(1994年6月~1996年1月)

吉田健一

(1)村山政権の成立過程
短期の羽田孜内閣が退陣した後、自民・社会・さきがけの3党連立による村山富市内閣が誕生しました。いわゆる自社さ政権と呼ばれることとなった村山内閣は誕生した時から国民には大きな驚きをもって迎えられることとなりました。
なぜならば、村山内閣は55年体制時の宿敵であった自民党と社会党が連立を組んだからで、首班指名の当日までこのような枠組みの政権が誕生することは、ほとんどの国民に想像できないことでした。
1994(平成6)年6月、羽田内閣は少数与党となり総辞職します。

政権復帰を目指していた自民党(当時の総裁は河野洋平)は、なりふり構わない連立工作を展開し、かつての宿敵であった社会党委員長の村山を総理大臣に担ぎ、新党さきがけ(代表:武村正義)を加えた3党での連立政権樹立で合意しました。
国会における首班指名選挙では、旧連立政権側(羽田内閣を構成していた当時の与党)は、当日、自民党を離党したばかりの海部俊樹元首相を候補として擁立しましたが、村山が海部を破って内閣総理大臣に指名されました。
社会党の党首が内閣総理大臣に指名されたのは、戦後直後の片山哲以来のことでした。
副総理兼務外相には自民党の河野総裁、蔵相にはさきがけの武村代表が就任し3党の党首は全て閣内に入りました。主たる閣僚は橋本龍太郎(通産相・自民党)、野中広務(自治相・自民党)、五十嵐広三(官房長官・社会党)、亀井静香(運輸相・自民党)、野坂浩賢(建設相・社会党)らでした。

自民党の野中、亀井、社会党の野坂らが要職についたのは、これらの政治家が自社連立政権の誕生に裏で動いたからでした。
この自社さ政権の性格を一言で言い表すと「反小沢政権」でした。
細川政権は非自民非共産の7党8会派による連立政権でしたが、中心的に政権を主導したのは小沢と公明党書記長であった市川雄一でした。
このいわゆる「一・一ライン」による強引な政権運営に対して、社会党は不満を強めて行きました。

(2)自社さ政権の性格とは?
さらに、元々、小沢とは折り合いが悪く、細川ともライバル関係にあった(内心では首相を目指していた)さきがけの武村も小沢への不満を強く持っていました。
羽田政権は首班指名直後から社会党とさきがけが閣内協力に転じたため少数与党となっていましたが、この社会党(村山)とさきがけ(武村)の反小沢感情を巧みについたのが自民党でした。
しかも、この時の自民党の戦略は非常に巧妙なものでした。

水面下で行われた社会党との連立協議にあたっては、自党の河野総裁を総理大臣にすることを主張せずに、まずは政権に復帰するために、長年のライバル関係にあった社会党の党首を総理大臣に担ぐという離れ業に出たのです。
この離れ業は当時、政界では「禁じ手」、「野合」などと厳しく批判されました。

しかし、一方では前述したように、この時期、政界では「小沢・反小沢」軸が形成されており、しかも、この「小沢・反小沢」軸は政治改革論議をもとに自民党内で始まったものでしたが、政権交代を果たした(旧)連立政権内部にも生まれてきていました。
そのため、55年体制の宿敵が手を組んだ自社さ政権ではありましたが、強権的な手法で新自由主義的な改革を進めようとする小沢に対して、むしろ自民党の河野と社会党の村山との連携は、穏当なハト派政権のイメージも一方ではありました。
当時の政治改革をめぐる「守旧派」か「改革派」という軸でみれば「自社さ政権」の55年体制がぶり返したのが自社さ政権だという見方は当時のメディアの大勢でした。

そして、確かに38年間対立して来た自民党と社会党が連立を組み社会党の党首が首相に就任したことは、海外からも理解し難い連立政権ではありました。
しかし、それほどまでに当時、小沢の政治手法の強引さと小沢流の改革論議が広範囲に反発を招いており、小沢に付くのか反小沢でまとまるのかという軸でみれば、それ相応に理解もできる政権でもありました。

(3)村山政権下の日本の状況:阪神・淡路大震災とオウム真理教事件
村山内閣の時代は日本にとって大きな災害・事件が多く起こりました。大きなものを2つ挙げておくならば、1995(平成7)年1月17日に起こった阪神・淡路大震災と、同じ年の3月20日に発生した地下鉄サリン事件を始めとするオウム真理教事件でしょう。
しかも地下鉄サリン事件が起きたのは、阪神・淡路大震災からわずか2か月後でした。

当時は1995年でしたが、いよいよ世紀末が始まったという雰囲気が国民を覆いました。
戦後最大の未曾有の大災害となった阪神・淡路大震災への政府の対応は後手後手にまわりました。これは何も村山政権にのみ責任があった訳ではなかったのですが、当時の日本人がぼんやりと信じていた戦後の安心・安全神話が崩れ去った年でもありました。
95年8月には内閣改造が行われ、この改造内閣が翌96(平成8)年1月まで続きました。

この改造では河野副総理兼外相、武村蔵相、橋本通産相などの骨格は維持されました。
95年10月からは副総理が河野から橋本に交代し、橋本が副総理兼通産相となりました。
これは自民党総裁が河野から橋本に交代したためでした。
ちなみにこの時の自民党総裁選では河野は出馬断念に追い込まれ、後に首相になる可能性まで摘まれてしまうこととなりました。

(4)村山談話について
村山内閣で特筆すべきはやはり、いわゆる「村山談話」でしょう。
正式には「戦後50周年の終戦記念日にあたって」といいます。
閣議決定に基づいて発表された声明であり、以後の内閣にも引き継がれて、日本政府としての公式の歴史的見解とされています。

この談話は大きくは4つの段から成り立っていますが、一番の骨格部分は、過去の一時期に日本が国策を誤り、戦争への道を歩み、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって諸国に多大な損害と苦痛を与えたことを反省し、謝罪を表明する段でしょう。
村山談話が出されるまでには自民党右派の反対などもあり、最終的な文言が決まるまでには紆余曲折がありました。

先の大戦を侵略戦争ではなく聖戦だったと考える右派・保守派、遺族会の反対もあり、社会党の党首であった村山も自民党との折衝では歴史観や戦争観をめぐって、苦労しました。
ですが「政治家橋本龍太郎」編集委員会による『61人が書き残す 政治家 橋本龍太郎』(文藝春秋、2012年)の中で村山は当時の橋本について「私が『談話の原案を見てくれましたか。意見があったら、どうか何でも言ってください』と言ったら、橋本さんは『いや、これでいいと思います。異論はありません』と言う。

橋本さんは閣内で最も頼りになる閣僚で、いろいろな問題で相談させていただいたけれども、日本遺族会会長や『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』の会長という立場もあり、村山談話に同意できないのではないか、と心配していたので、実のところホッとした(中略)橋本さんはそれまで国務大臣としての国会答弁で中国への侵略と朝鮮半島への植民地支配があったことは認めていたが、アジア・太平洋の他の地域への侵略については、『言葉の定義としてなかなか微妙な部分』などと、曖昧な表現をしてきた。

しかし、橋本内閣になってからの総理大臣答弁では第二次世界大戦で植民地支配と侵略があった、と村山談話を踏襲する形で踏み込まれた。(中略)橋本さんのバックアップを得て、村山談話を閣議決定できたことは忘れられない」(政治家橋本龍太郎編集委員会、2012年、16頁)と述懐しています。

村山談話については、村山に近かった側近で左派の野坂官房長官(当時)が外交官の谷野作太郎外政審議室長に命じて左派的な内容にしたという説もあります。自民党の閣僚や右派は、その時点でも納得していなかったというのは事実でしょう。ですが、実際にはその後の自民党政権も村山談話を日本政府の公式見解として、継承し続けています。その後の自民党右派政権でもこれを廃棄することまではできないのは、やはり村山談話が述べる戦前日本の植民地支配と侵略はいかなる右翼イデオロギーの持ち主も正面から否定することはできないからでしょう。

(5)村山政権の評価
村山政権をどう評価するかは今も難しいところです。
村山は総理大臣に就任した直後、自らが党首を務める社会党の基本政策を次々と現実路線に転換しました。
村山は自衛隊を合憲だと認め、国会では「日米安保体制を堅持する」と述べ、非武装中立論は役割を終えたとの認識を示しました。
このことは社会党内で最後の激しい左右対立を再燃させました。
村山自身は社会党内でも中道左派の出身でしたが、左派出身の村山によって55年体制下での社会党の基本政策は全て見直され、現実化しました。

結局のところ、この村山の首相在任時の英断によって現実政党化した社会党議員の半数以上は96年の第1次民主党結成へ参加するという流れにつながって行くことにもなります。
村山退陣後、社会党は党名を「日本社会党」から「社会民主党」と改めます。
しかし、社民党の全てが96年に第1次民主党に移行することはできませんでした。小さくなった社民党が全国政党として残りました。
ですが、その小さくなった社民党は衰退の一途をたどり、今では全国政党として見る影もなくなっています。

この点をみれば、村山は自身が首相の座につくことと引き換えに社会党を崩壊させたと見ることもできるでしょう。
ですが、80年代の終わりから90年代初頭は世界も日本も激動した時期でした。
この時期には冷戦が終結し、反米・親ソ路線は完全に行き詰り、社会主義・共産主義陣営への幻想は日本国内でも完全になくなっていました。

村山の政策転換は社会党内の左派、最左派(社会主義協会)には失望を与えたものの、客観的に見て、この時期まで日本の社会党が西欧型社民政党に脱皮できていなかったことの方が問題であり、私は村山の英断を支持して評価する側の立場です。
さらには、当時の文脈では「改革派」に対して「守旧派」とされた自社さ政権でしたが、被爆者援護法の成立など、社会党の首相だったからこそ成立にこぎ着けることのできた法案もありました。

この「平成・令和政治史」において私(吉田)は村山首相については、その後の野党を、観念的社会主義から現実政党化させるきっかけを作った政治家として評価しておきたいと思います。

また、当時の文脈を思い返しますと、小沢に対して河野自民と村山社会党の連立は、単に55年体制の復活という側面だけではなく、本当の意味での「戦後政治の総決算」を行った政権でもあったとプラスの評価をしておきたいと考えております。

 

【参考文献】
村山富市述・辻元清美インタビュー『そうじゃのう…:村山富市「首相体験」の全てを語る』第三書館、1998年
御厨貴・牧原出編『聞き書 武村正義回顧録』岩波書店、2011年
「政治家橋本龍太郎」編集委員会編『61人が書き残す 政治家 橋本龍太郎』文藝春秋、2012年

 

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吉田健一 吉田健一

1973 年京都市生まれ。2000 年立命館大学大学院政策科学研究科修士課程修了。修士(政策科学)。2004 年財団法人(現・公益財団法人)松下政経塾卒塾(第22 期生)。その後、衆議院議員秘書、シンクタンク研究員等を経て、2008 年鹿児島大学講師に就任。現在鹿児島大学学術研究院総合科学域共同学系准教授。専門は政治学。著作に『「政治改革」の研究』(法律文化社、2018 年)、『立憲民主党を問う』(花伝社、2021 年)。

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