第30回 新天地でさらに磨きをかける法医学会のエース
メディア批評&事件検証足利事件で警察庁の科学警察研究所(科警研)が行ったMCT118法でのDNA型鑑定の欠陥をいち早く解明して、冤罪の疑いを発表したあの人は、どうしているのだろうか? 気になってしようがない。
その名は、本田克也。1992年12月だった。東京大学を会場に今の日本DNA多型学会の前身である日本DNA多型研究会の第1回の学術集会で、科警研の鑑定技術に疑問を投げかけて堂々とその未熟さを問うた。
ちょうどその1年前に、科警研の鑑定で足利事件被害者の半袖肌着から検出されたDNAと菅家利和さんのDNAが一致したとして栃木県警が取り調べを行い、暴行などを行って自供させて逮捕していたのだ。
栃木県警を菅家さん逮捕に向かわせたこのMCT118法を、足利事件を審理した裁判官たちの中には、世界でも普及していると思っていた人もいたようだが、実際は違う。本田助手 (当時)の指摘を裏付けるようにMCT118法は、世界で研究が進められてはいても、実際の鑑定実務への適用できるレベルまで至ってなく、全くと言っていいほど使われなかった。
というのもヨーロッパや米国は、MCT118部位だけを見るのではなく、少なくとも複数の部位を検査し、たった1部位違っただけでも目的の人物ではないことが明らかになるVNTR型鑑定(生物のゲノム上に存在する一定のDNA単位が連続して並ぶ領域において繰り返しDNA単位が何個存在するかを調べる)に活路を見出そうとしていたのだ。世界から見たら科警研が導入した鑑定は精度が低く、またPCR(DNAサンプルの特定領域を増幅させる技術)にかかりにくいほど大きな断片で、検出技術も未確定であるため、実用に耐えるものではなかった。
日本の法医学者から見れば、当時の科警研は「自分たちが一番になりたい」との思い込みが激しく、大学とは協調性のない不気味な組織としか見られていなかったようだ。警察庁担当の新聞、テレビの記者たちにちょっと話をするだけで、実情を知らないメディアは何の根拠もないのに、「科学警察研究所」という名前だけで最先端を行っている鑑定機関と過大評価して「科学の力」と「捜査」を結びつける。世界の捜査機関が今どんな鑑定を導入しようとしているのかを待たずに、いわば時代遅れの未熟な鑑定法を科警研は導入、結果として誤鑑定をしでかすことにより世界から取り残されてしまったというわけだ。
ところで、その後の本田助手の研究を見ると、目指す鑑定法導入も世界を見据えていたため国内で抜きん出ており、DNA研究会での発表は、法医学会の若きエースの誕生ともいうべき革新性に富んでいた。
彼は「法医学鑑定」とは何かの一般性を踏まえて、DNA鑑定を位置づけようとした点が大きい。大学の自然科学系研究と法医学的な研究との違いは、実験対象が極めて不完全で、環境によって時間経過とともに変化した試料を扱わなければならないところにある。そういう点で、本田助手が着目したのは、もっとも死後変化に強い、硬組織、つまり歯や骨のDNA鑑定技術の開拓である。ここでの研究をしっかり踏まえれば、精液や血痕、毛髪などの鑑定にも道が開かれるはずだ、と確信。地道な研究を積み重ねていった。
その研究結果が注目を浴びたせいか、望んでもいないのに引き抜きのオファーが舞い込み、転々と大学での活動拠点が移っていくことになる。大学の法医学者たちにDNA型鑑定の研究に対抗意識が芽生え、優秀な人材を確保し、大学の名声を上げようと躍起になった時代でもあったのだ。
しかし、本田助手の異動のルートは極めて珍しい。実力ありきの世界で、鑑定能力が抜群というのもあるが、法医学者として妥協は許さず、古く、また壊れた難しい試料からも最大限に正確な情報を引き出せる、鑑定力への将来性が魅力であったのかもしれない。
一方、科警研の笠井賢太郎技官が米国・ユタ大学のハワード・ヒューズ医学研究所から習得して持ち帰った「MCT118法」でのDNA型鑑定によって、足利事件被害者の半袖肌着と菅家さんがゴミとして捨てたティッシュペーパーが一致したとして逮捕につながった。この鑑定の検出方法には欠陥があり、誤鑑定の疑いが強いと本田助手は警告した。またどこかでこの二人の対決が見られたらと期待しないでもない。
本田助手の母校は筑波大学だ。三澤章吾教授のもとで法医学の手ほどきを受けながら、大学院医学研究科を卒業したのは1991年(平成3年)の3月だった。その後、研究生として10月まで在籍した後、「DNA研究をより進めるために」と当時、信州大学の教授として着任したばかりの福島弘文教授のもとで助手として務めることを勧められ、実は渋々応じた。
そこでMCT118法というDNA型鑑定に欠陥があることを見つけるなど、早くも才能を見せ始めた。「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるが、まさに彼が鑑定をしている時は時間を忘れるくらい鑑定技術の習得に没頭した。
それからわずか2年半後には、再び恩師である筑波大の三澤教授から「大阪大学でDNA研究ができる人材を求めているから、思い切って応募してはどうか」と薦められた。正直、悩んだ。まだ信州大学に来たばかりで、DNA研究もやっと軌道に乗ったところだ。助手を2年半やっただけで、助教授とは?と信じられない思いがあったのも事実だ。
これに対して三澤教授は「若杉(長英)教授は君のDNA研究の実力を高く評価してくれている。ぜひ期待に応えてくれないだろうか?」と説得された。
そのオファーは、1990年に金沢で開催された、第1回ISALM(International Symposium Advances in Legal Medicine)に本田助手がまだ研究生の時に発表した「骨や歯からのDNA 解析」の研究が、当時最先端の研究として特別枠で発表されたことも若杉教授の目に止まったのかもしれない。
というのも、この学会の大会長を務めた金沢大学教授・永野耐造氏(後に科警研所長)と若杉教授は大変、懇意であったからである。2人で「現代の法医学」という本を出版している。
そしてこの学会の日本での次回を開催したのも若杉教授だった。それに加えて科警研が足利事件で使用したMCT118鑑定の誤りを指摘したことも法医学界で話題になっていたこともあったかもしれない。
とはいえ、大阪大学の若杉教授は、厳しい人で法医学の実力もあり、全国の法医学界のドンとも言えるほど牽引力のある人物であったから、果たしてその下でうまくやっていけるか、という不安もあった。しかもポジションは助教授だという。法医学会では遠巻きに仰ぎ見たことはあるが、言葉を交わしたこともない。だから、丁重にお断りしようと思っていた。
だが、三澤教授は「これは次のステップアップになるから、ぜひ挑戦して欲しい」と強く説得された。だから意を決して応募した。
これは法医学の東のトップである三澤教授と西のトップである若杉教授との間で話がすでについていたのであろう。ただ、現職の上司である福島教授は「後継者として育てようとしていたのに私を裏切るつもりか」と激怒した。さらに、とてもつらかったのは、上司と言えど、福島教授がこの人事を陰で妨害しようとしたり、「お前なんか交通事故で死んでしまえ」と耳を疑うような言葉で面前で罵られたりすることもあったことだ。結果としてその罵倒にも耐え、若杉教授の推薦で大阪大学の人事委員会を通り、94年4月から大阪大学・法医学研究室の助教授として、教育・研究・解剖を行うことになった。
大阪大学に着任すると、大阪府科捜研の顧問にも推薦され、当時の科捜研法医部門の科捜研のトップであった篠原忠彦氏らとは常に連絡を取り合い、司法解剖やDNA検査でも常に最先端の情報を共有し、大阪府警ではできないような高度のDNA検査の府警嘱託も多数あった。その一つに義理の父による娘の強姦事件で生まれた胎児のホルマリン臓器からの親子鑑定などがあるが、本田助教授抜きでは困難であったのである。
大阪大学では本田助教授は研究だけに没頭できたわけではなく、法医学としての解剖業務も大変に多かった。司法解剖は年間3百体を超え、毎週月曜日は大阪大学医学部学生の教育も兼ねて、大阪市内の監察医業務にも当たっていた。監察医では毎回、午後から10数体の行政解剖をこなしていた。これだけの数をこなしていながら、若杉教授の解剖は芸術とも見えるほど完璧で、解剖写真として正確に美しく撮影するにはどうしたら良いか、に細心の注意を払っていた。その解剖写真を見て、科捜研は証拠となるものをきちんと残すことの大事さを学び、写真の撮り方の厳密さを学んでいた。
若杉教授には語るべき事は多い。若杉長英は1938年(昭和13)大阪市で生まれ、府立大手前高校を卒業後1957年(昭和32)大阪大学医学部医学科に入学し、当時松倉豊治教授が主宰していた法医学教室の研究と実務に関わりながら、1963年(昭和38)に卒業した。阪大病院で1年間の医師臨床実地修練を受けた後の1964年(昭和39)に大阪大学大学院医学研究科(法医学)に入学し、同年大阪府監察医事務所非常勤監察医となる。1968年(昭和43)大阪大学助手に採用され、1976年(昭和51)大阪大学助教授となるが、1980年(昭和55)和歌山県立医科大学教授となり、阪大を一時離れる。1988年(昭和63)10月に四方一郎教授の後任で、5代目教授として就任。以来1996年(平成8)11月に5年余りの任期を残し急性心筋梗塞で急死されるまで在任した。
教室員の研究テーマは、生命科学の一分野の研究と法医学を結びつけたものが多く、まさに法医学魂が人格化したような偉人であった。本田助教授が若杉教授のもとで学んだことは「技能には奥があり、一生涯、その深奥を極めていくべきである」ということであった。本田助教授は自ら修練してきた武道空手の上達とも重ねて、「司法解剖やDNA鑑定の根底にある、法医学技能の奥義を究めていこう」という決心をさせたのは若杉教授だった。
もう一つ、若杉教授は警察・検察とは一線を引き、解剖室には全く警察官は入れずに研究室のスタッフだけで解剖を行った。法医学者として中立な立場で鑑定するためである。また法医学者は捜査機関に使われるのではなく、「警察・検察を指導する立場であるべき」という立場を崩さず、「法医学者としては鑑定書がすべて。足りないところは法廷で証言すれば良い。鑑定書に書いてないことについて、検察官に調書を取らせるのは愚の骨頂だ。そんな情けないことは法医学者として絶対にやらせてはいけない。法医学は検察の下僕ではない」と繰り返し本田助教授にも語りかけていたので、その教えを生涯、金科玉条のように守った。
しかし他の法医学者にはそのような教育や指導を受けた者はいなかったから、本田助教授一人が孤立したのは当然であった。だからといって、本田助教授が警察と疎遠であったわけではない。警察を指導するため年に一度はホテルの大きな会議室を借りて、大阪府警察本部の幹部と法医研修会を開き、そこで、事例の報告を受け、それらの証拠の扱い方や検査法についての指導を行っていたのである。
こうして本田助教授は大阪大学で若杉教授から法医学の基本について多くのことを学び、その客観的な証拠主義の精神をDNA鑑定にも反映させていった。
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。