第12回 茨城で戦争に抗し、原発事故に抗して歩み続ける小張佐恵子さんに聞く
社会・経済核・原発問題女たちの会発足
――5月20日に「軍拡より生活!女たちの会・茨城」を立ち上げました。
小張――岸田政権の軍拡政策に危機を感じていたので、急に企画したため、準備に時間をかけることができず、スタッフもごく少数で始めたので大変でした。それでもおかげさまで無事に立ち上げることができて、参加者は56名、ZOOM参加者は8名でした。
私はチラシや資料の用意、看板を作ったりの準備に追われ、当日も会場の設営や、会の進行に気を取られていて、写真を撮影する暇もありませんでした。皆さんに報告したいのに、手元に写真がないので、後になって友人たちに「写真を写した人いませんか」と尋ねているような状態です。
――「女たちの会」は各地で取り組みが進んでいます。茨城もそれに呼応したと思いますが、茨城で長年続けてきた女性たちの多様な市民運動があります。
小張――2月8日に「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」の呼びかけが始まり、記者会見が開かれました。これに応じて熊本、大阪、北海道などで「女たちの会」が立ち上がりました。茨城でも「女たちの会」をつくろうと、友人たちと相談しました。地元の大学名誉教授の長田満江さんをはじめ、元県議、内科医、画家、イラストレーター、元教員などが集まりました。水戸市、東海村、土浦市、取手市、古河市、阿見町、牛久市、つくば市など県内各地の女性たちのネットワークです。
――5月20日の集会では、弱者救済とプレカリアート問題に取り組み、格差・貧困問題を取り上げてきた雨宮処凛さん(反貧困ネットワーク世話人、週刊金曜日編集委員)の講演と、沖縄の基地問題を扱ったドキュメンタリーで知られる三上智恵さん(ジャーナリスト、映画監督)の『沖縄、再び戦場へ(仮題)』の上映を行いました。
小張――雨宮さんには「コロナ禍、困窮者支援の現場から、『軍拡より生活』の重要性について語る」という題で講演していただきました。
雨宮さんによると、コロナ禍での「女性不況」=「実質失業者」は103万人です。女性の自殺が増えています。非正規雇用率は56%を超え、女性の8割以上が年収220万円以下です。電話相談を見ると、労働相談が減り、生活苦の相談がますます増えています。家賃、住宅ローン、公共料金、公的保険料、税金の滞納が増えています。
2020年の国税当局の資料では、女性非正規雇用者の年収は153万円です。非正規女性の約4割、560万人は単身やシングルマザーです。ここに対する支援が全くありません。電話相談や相談会に寄せられた声は本当に悲痛です。自分の葬式のために臓器を売りたいので、臓器を売れるところを教えてほしいといった相談さえあるそうです。全国で多数の女性たちがSOSを発しているのに、政治は顧みようとしません。命を軽んじて、軍拡ばかり考えています。
――単に平和が良いねという反戦運動ではなく、女性たちの生活の現場から戦争と平和について考える。
小張――もちろん平和主義の理念はとても大切ですし、憲法第9条の平和主義も守らなくてはなりません。でも、平和主義を支える人々の意識は、生活の中ででき上ります。女性の生活の現実を見るなら、軍拡などしている場合ではないことが即座に理解できます。
コロナ禍の第5波~第7波の中で、支援団体の炊き出し・野外の相談会に発熱者が訪れていましたが、「自宅療養」と言われても自宅のない感染者は対処法がありません。支援もありません。自宅療養者から「所持金も尽き、冷蔵庫も空。このままでは餓死してしまう」というSOSが発せられたと言います。第7波では、所持金数十円の女性が路上でSOSを発していました。
――雨宮さんは長年にわたって貧困問題に取り組んで、「生きさせろ」の言葉でも知られます。
小張――そうですね。参加者の中でも「軍拡反対」という点よりも、雨宮さんの話を聞きたい、三上さんの映像を見たいという方が多かった印象です。
岸田政権は防衛費の倍増を早々に決めて、自衛隊の活動や権限も大幅に増強しようとしています。ところがメディアでも、防衛費倍増の善し悪しの議論はほとんどありません。どのメディアを見ても、防衛費倍増は既定事項で、あとはどこから財源を持ってくるのかという話ばかりです。批判的姿勢がないどころか、事実も十分伝えていない感じがします。
ただ、財源問題になれば、増税するのかそれとも社会保障費を削るのかというのが、これまでの議論の常套です。軍拡に反対することと生活を守ることが同じことなのだと、なかなかわかりにくいかもしれませんが、きちんと伝えていく必要があります。
『ベアテの贈りもの』上映会
――茨城の平和運動、女性たちの取組みにおいて多様なネットワークがつくられてきました。
小張――女たちの会・茨城代表の長田満江さんとは18年前、映画『ベアテの贈りもの』の上映会をやった時に出会って、それ以来ずっと一緒に活動してきました。筑波学院大学に在職中だった長田さんの協力があって、大学の大教室でこの映画の上映会を開くことが出来たのです。
それ以前、私自身はあまり市民活動をしていませんでした。関心のある集会に参加したことはありましたが、自分が中心になって活動することは考えたことがありませんでした。
『ベアテの贈りもの』(2004年)は日本国憲法(1946年)の第14条「法の下の平等」と第24条「家庭生活における両性の平等」を起草したベアテ・シロタ・ゴードンの功績を描いた映画です。監督は藤原智子、企画は赤松良子等です。
全国で上映会が開かれ、多くの女性たちが感動し、女性運動の活性化につながったと思います。
映画はベアテさんの生涯だけでなく、日本女性たちの活動も取り上げています。「ベアテからの贈りもの」を受けた女性たちが、これまで男性支配が強かった社会に、次々と変化を起こしてきた成果も描き出しています。
この映画の上映会を開いたのは、発案・企画された赤松良子先生のお父様がたまたま私の父の恩師で、交流があったからです。
――赤松良子は労働省婦人局長時代に男女雇用機会均等法の制定に関与したことで知られます。その後、文部大臣を経て、日本ユニセフ協会会長になりました。父親の赤松麟作は画家で、西洋絵画で知られます。黒田清輝に師事したそうです。最近の著書に『男女平等への長い列』(日本経済新聞出版)があります。
小張――私の父が大阪生まれで、大阪洋画壇の発展に指導的役割を果たされた赤松麟作先生の薫陶を受けていたのです。
父の個展の時には赤松良子先生は必ず来てくださっていました。それで赤松先生から、こういう映画を作ったとお知らせを頂いたので、これはぜひ茨城でも上映会をやりたいと考えて、長田さんとご一緒させていただいたのです。
長田さんが以前から男女共同参画の運動を進めてらしたので、 いろいろ勉強させていただきました。私は美術学部彫刻科で学んで彫刻をやってきましたが、彫刻の世界もご多分に漏れず男性中心的で、女性がどんなに頑張ってもなかなか認められないと感じてきました。夫も私も彫刻をやってきましたので、それぞれ自分たちでできることをやってきました。ただ、その中で女性がどういう扱いになるかはやはりひしひしと感じざるを得ませんでした。
『ベアテの贈りもの』で長田さんと出会い、男女共同参画の運動に触れたことで、なるほど私個人の問題ではなくて、この社会全体の問題なのだとよく理解できました。それですぐに「常陸24条の会」を立ち上げました。差別の問題に目覚めた訳です。
それで、『憲法24条+9条』という著書を読んだら、憲法学者の中里見博さんが「24条憲法改変論というのは、深刻で巨大な国家的課題と結びついている。平和主義国家や福祉国家の構想を、軍事国家、低福祉国家に変えたい。その基盤としての家族に彼ら(自民党)は注目をして、国家構想の一環として出している」と書いていました。衝撃でした。男女不平等が、戦争したい男性の根強い戦略だったなんて思いもよりませんでした。
――そこから市民運動に積極的にかかわるようになったわけですね。
小張――そうです。原発問題にも出会うことになりました。いろんな活動をする中で、多様な人々との出会いも増えていきました。広島の被爆者の方と知り合い、先住民のホピの人たちが広島に行って鎮魂の祈りをささげるという話を聞いたので、つくばでもその取り組みをしました。「千羽鶴の祈り――豊崎博光講演会 &ホピ・セッション」です。
インドやアメリカなどウラン採掘による被曝問題も知りました。徐々に勉強していた時期に3.11の東日本大震災と福島原発時事故が起きたため、原発問題の取り組みを本格化させることになりました。
原発問題や広島の被爆者のことや、沖縄の基地問題もあって、次々とテーマが増えていきました。母親大会にも参加してきました。
今回の雨宮さんのお話がそうですが、決して別々の問題ではなくて、皆つながっている。「貧困化」は戦争準備なんだということも分かってきました。「女たちの会」を進めていく中で、日本や世界がより広く見えてきた感じがします。
若桑みどり先生の『戦争とジェンダー』が出たときに、講演会に来ていただきました。女性を差別して貶めていることも戦争準備の一環なのだと痛感しました。
――「女たちの会」は単発ではなく、取り組みを続けるのですね。
小張――県内各地の女性たちの取組みですから、それぞれの場、地域で声を挙げていこうという話になっています。集会や講演会も必要に応じて開いていきます。戦争が何故起きるのか、どうやって軍事化が進められているのかを伝えていきたいと思います。
脱原発をあきらめない
――22年11月25日には土浦市で小出裕章さんの講演会を開催しました。
小張――小出さんをお招きしたのは初めてです。政府が改めて原発推進に動き出したので、黙っているわけにはいかないと思いました。脱原発いばらきネットワークと福島応援プロジェクトを立ち上げて、長年取り組んできました。ただ、時間も経過しましたし、新型コロナ禍もあって、取り組みが難しくなってきた印象があります。ところが、政府が原発推進一筋なので、やはりきちんと声を挙げていきたい。
それで福島応援プロジェクト茨城主催で、「原発事故は終わっていない〜放射能から子どもを守ろう」というタイトルにしました。被曝の問題をしっかり学ぶことにしたのです。ですから、チラシには次のように書きました。
「2011年3月11日に『原子力緊急事態宣言』が発令され、今も解除されていませんから、原発事故は終わっていません。緊急事態宣言下だから本来の法令は守らなくてもよいとして、政府は一般人の被ばく限度を1年間に1mSvから20mSvに上げてしまいました。放射能は微量でも危険で、子どもは大人の何倍も強く放射能の影響を受けます。福島では300名もの小児甲状腺癌の発症があって、再発も多く起きており、患者の苦しみは想像を超えるものです。
原発から20kmを超える地域でも放射能汚染が認められていますが、避難対象にならずに支援も打ち切られました。
福島県以外では子どもの甲状腺健康調査も行われていません。国の宝である子どもを守れなければ、日本の未来は暗くなります。 放射性物質の危険性について、一緒に考えたいと思います。」
――チラシには被曝の解説も書いてありました。
小張――みんなで勉強しようということで、集会を準備しながら随分と考えを深めることになりました。
「被ばくとは、放射能の圧倒的な力を受けることです。
放射性物質の粒子は、生物の分子の結合エネルギーの数十万倍から数百万倍もの膨大な力を持っていて、体内で銃弾のようにぶつかるので遺伝子は次々傷つきます。強烈なエネルギーの高さを考えれば、どのような健康被害も生じると考えるのが科学的です。細胞のつながりが壊されますから、『安全な被ばく』というものはありません。その影響は蓄積し、人によって様々な病気を引き起こします。3.11原発事件後、腎臓病、肝臓や心臓の病気、及びガン発病が、顕著に増えました。外からの被ばくを低減するためには、時間と距離を取って、遮蔽しなければなりません。
体に放射能を取り込む危険な内部被ばくは、呼吸や食事、皮膚からの吸収に対して、細心の注意を払う必要があります。原発の敷地境界の線量目標値は、事故前には1年間に0.05mSvと約束されていました。」
――当日参加者に配布されたカラー版の資料集がとても詳しくて、好評でした。
小張――小出先生からいただいたパワーポイントを中心に編集した『小出裕章講演会――原発事故は終わっていない』です。
――ふつうなら講演会終了後に編集して発行する記録集を、講演会前にあらかじめ準備した。
小張――情報を共有して、思いを新たにして、脱原発をあきらめないことが大切だと思いました。
実は1986年のチェルノブイリ事故の時はほとんど関心を持っていませんでした。とにかく生活に追われていて、ろくにテレビも見ていなかったくらいです。1999年の東海村JCO臨界事故の時も、地元茨城県の事故なのに、情報がなくて、よくわからずにいた記憶です。ニュースもきちんと流れてこなかったので。
肥田舜太郎先生が後に東日本で乳がんが有意ある差で上昇したとおっしゃっていました。チェルノブイリの時もJCO事故の時も、食品や牛乳も汚染されたのに、十分な情報が提供されなかったと思います。
――放射能の危険性が隠される。意図的に隠した訳ではないとされていても、正確な情報が流されず、安全性ばかりが強調される。同じことがずっと繰り返されてきた。
小張――だから多くの市民が何も知らない。放射能は見えませんし、危険性に関する基礎的なデータすらきちんと公開されてこなかったと思います。そのために、被ばく状況から逃げ遅れた人々や、汚染地に閉じ込められた人々や子どもが多く出ることになったのです。
――福島応援プロジェクトの活動はどういうものでしたか。
小張――被曝から子どもたちを守るための保養プロジェクトです。何度も「茨城の夏満喫ツアー」をやりました。2011年夏のツアーには19名の子どもたちと1名のお母さんが参加され、筑波ふれあいの里や茨城県中央青年の家に4泊5日しました。寄付やカンパを寄せて下さった方も多く、たくさんの方が、ボランティアとして協力してくださり、子どもたちには良い思い出ができたことと思います。その後2019年まで毎年実施して、のべ138名の子どもたちや保護者を無償で招待しました。
快医学療法のワークショップと手当法実施。小町の館体験館でのそば打ち。よさこい連の迫力ある踊り。津軽三味線の演奏。エキスポセンター見学。プール遊び。
自然生クラブの皆様の田楽舞に続く子どもたちとの共演。ダッシュ村の菊地さんが太い竹を持ってきてくださって器と虫かご作り。
ザリガニ釣りをしての写生。バーベキューとカレー炊飯は火おこしが子どもたちの楽しみ・・・などなど盛りだくさんのメニューでした。
新型コロナによってここ数年保養が実施できていないことが気にかかっています。
――福島応援プロジェクトの活動としては保養のツアーと市民学習会が柱ですね。
小張――「福島被害者からの訴えを聞く会」を何度もやりましたし、映画『日本と原発』上映会や被災地の写真展もやりました。知っているようで知らないことばかりでした。情報が隠されているだけでなく、市民の側も情報を手にするために努力しないといけない。原発の危険性の勉強は繰り返しみんなでやってきました。
生活の場で考える
――戦争、原発という2つの問題を前に、茨城に生きる生活者として、これからの市民の運動をどう考えていますか。
小張――戦争はいらない、原発はいらないというのは、生活者として当たり前のことです。でも、それがわからなくさせられている。都合の悪い情報は隠されます。どうしてこんなことがわからないのかと思うのに、いつの間にか戦争や原発に引きずり込まれる。その都度、立ち止まって考えなくてはなりません。
戦争は人類に組み込まれているもので、仕方がないという誤解も結構見られます。コスタリカのように軍隊のない国家もあるのに、軍隊が当たり前と思い込まされている。人類の歴史には戦争のなかった時期がずっとあったのに、あたかも戦争は人類につきものだと思わされる。
命と暮らしを大切にするのは当たり前なのに、なぜか「命よりもお金」になってしまう。お金がいくらあっても、子どもが病気になったり、自分が死んだら意味がないのに、それがなかなか通じないところがあります。
――茨城の重要産業の一つは農業ですね。
小張――広大な平地が広がる茨城県は農業で暮らしを支えている人が多い。江戸時代から食料や燃料などで都市の生活を支えてきた歴史を忘れてはならないと考えます。食料自給率の低い日本で、農業はますます必要性が高まっています。安全な食をどうやって支えていくかを考えないといけない。生産地の茨城県が放射性物質で汚染されたら大変なことになります。
戦争も原発もそうですが、この社会が全体として暴力に覆われていることが本当に残念です。私の両親も戦争を体験しており、東京大空襲の生き残りだった母は心が傷ついていました。私自身が戦争の2次被害者で、太平洋核実験の被曝被害者ではないかと言う気がしています。戦争は誰も守らなかったし、国家は国民を守らなかった。暴力で社会を守るなんて、ありえないことだと痛感します。戦争と原発、そのために福祉切り捨てだなんて、社会全体が病んでいると言わざるを得ません。暮らしの目線から世の中を見て、考えていきたいです。今現在は本年11月に開催予定の「東海第二原発の再稼働を許さない11.18首都圏大集会」のワーキンググループでチラシ作り等に携わり、「東海第2原発の廃炉を求める署名」や「軍拡より生活!女たちの会・茨城」の次回の勉強会の企画にも取り組んでいます。
福島応援プロジェクト茨城
https://blog.goo.ne.jp/oueniba
軍拡より生活!女たちの会・茨城
https://atcube8.main.jp/13/
原発いらない首都圏ネットワーク
https://atcube8.main.jp/24/
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(一社)独立言論フォーラム・理事。東京造形大学名誉教授、日本民主法律家協会理事、救援連絡センター運営委員。著書『メディアと市民』『旅する平和学』(以上彩流社)『軍隊のない国家』(日本評論社)非国民シリーズ『非国民がやってきた!』『国民を殺す国家』『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(以上耕文社)『ヘイト・スピーチ法研究要綱』『憲法9条再入門』(以上三一書房)『500冊の死刑』(インパクト出版会)等。