【連載】トルコ航空機の日本人215人に思う。 生きて帰った命、国際貢献へ(沼田凖一)

第1回 予想もしなかった戦争

沼田凖一

ロシアがウクライナに侵攻し、地球上でまた戦争が始まりました。血の通った人間同士が殺しあう戦争で犠牲になるのは市民です。連日、テレビや新聞のトップで報道される戦争の悲劇を目の当たりにするたびに思い出すのは、イラン・イラク戦争のさなかのトルコ航空機による邦人251人救出です。私はその救出された1人です。

戦時下の体験をしているだけに、私たちと同じようにウクライナに滞在している日本人の人々と外国の人々の安否が気になって仕方がないです。1日も早く、戦争が終わることを願わずにはいられません。そしてなぜ、私たちがトルコの人たちに助けられたのか。戦争が起きている今こそ、本当の友好関係と国際貢献というものを多くの人たちに知ってもらいたいと思ってやみません。

それは、ノーベル平和賞が出てもおかしくない世界に誇るべき2つの国際貢献だったのです。ただ、私たち日本人が助けられた救出劇については、2つの国の政府がとった行動が対照的でした。

当時のことを振り返ると、私は1985年、日産自動車のイランでのKD工場サイパ社の増産と品質向上を目的に総合技術指導兼コーディネーターとして5人のチームでイランのテヘランに2月下旬に赴きました。イラン市場の技術指導を担当して7年目、5回目の技術指導で期間は3カ月の予定でした。

この年のイランは、イスラム革命後の混乱も落ち着きを見せ始め、市場として大きな期待を持たれ始めていました。それで世界各国の多くの企業がイランに調査団や新規事業獲得のために協力関係商社や会社・営業部門、市場サービス部門の人たちを送り込んでいたのです。

日本からも我々のような現地KD工場技術指導技術者などをはじめ、多くの日本人が渡航し、テヘランには日本人だけでも500人以上いて、日本人学校もあったのです。

80年から国境で地上戦が行われていたイラン・イラク戦争は、小康状態で穏やかでした。ところが3月に入り、突如急変したのです。私自身が具体的な技術指導をスタートした矢先の3月6日でした。イラクがイランの地方都市アフワズを爆撃したのです。9日に出社したら工場は大騒ぎになっていました。みんなに聞いてみると、「イランは必ず報復する」と戦争を心配していたのです。

日本人の大半が生活をするテヘランのナフト地区。1985年3月9日は道路を走る車に雪が積もって肌寒い日だった。この3日に同地区はイラクの爆撃を受けた。沼田凖一さん提供

 

案の定、イランはイラクのバスラを報復爆撃しました。いわゆる都市空爆の打ち合いが始まりました。10日には、イランの第2の都市イスファハンなどが爆撃をうけ、日本大使館から不要不急の人は国外に出るように、との通告が出されました。ヨッロッパ便に席が取れた人々は次々に脱出しましたが、我々の協力商社のN商社も私たちのためにテヘランに乗り入れているヨーロッパなどの航空会社のオープンチケットを数枚準備し、空席を捜して駆けずり回ってくれました。

しかし、どこの航空会社も自国民優先で空席がなかなか出ませんでした。数人分の空席が出ても、当然子どもや女性を優先に割り当てるので、私たちにはなかなか回ってきませんでした。

そんな中、12日にはとうとう私たちが住むテヘランも爆撃されました。しかも1発は日本人が最も多く居住している、日本人学校のすぐそばに着弾したのです。そのロケット弾は、N商社のオフィスの直ぐ近くに着弾したので、同社の社員が出勤途中に現場を見に行きました。歩いていたら、少し小高くなっていた所がありました。

その上にあがり、ミサイルの着弾した所を探してきょろきょろしていたのです。すると、近くにいた人がミサイルが着弾したのはあなたが乗っている所だと教えてくれたそうです。そう言われてよく見ると、ビルディングが建っていた所で、そのビルディングが跡形もなく崩れ落ちて瓦礫(がれき)となって小高く見えたそうです。これじゃ、人間はひとたまりもないと愕然としていたそうです。

既に工場に行くのは危険だということで、一時N商社社宅で待機。しかし、そこでは部屋数が足りず、全員が一緒に居住することはできないとして、話し合いで空爆の直撃を受けない地下室があるラマテアホテルに行くしかありませんでした。しかし、脱出に欠かせない飛行機の空席をとることができずに時間だけが刻々と進み、悪夢の17日が来てしまいました。

この日夕、イラクのサダム・フセイン大統領は、戦局の硬直状態に苛立ち、「3月19日20時30分(日本時間3月20日午前2時)以降イランの空域を飛ぶいかなる航空機も安全を保障しない」という警告を出しました。

在テヘラン日本大使館からは直ちに在住日本人に知らされました。とはいえ、私たちはどうすることもできません。飛行機の空席が取れるのをを待つしか道はありませんでした。フセイン大統領の警告は、関係のない国の民間旅客機まで撃墜するというもので、これを聞いた私たちはヨーロッパ航空会社がこぞって欠航してしまうのではないかと心配しました。もはや航空便での脱出は不可能かと思い、絶望感にさいなまれました。

イラクのフセイン大統領の警告で、民間航空機の定期便の大半がストップ。英、仏などが特別機で自国民を救出する中、必ず来ると信じていた日本の救援機は来ませんでした。出国を希望する日本人たちはパニックに陥りました。

テヘラン在住の日本人たちは空港に何度も足を運んでは出国する諸外国の人たちに「子どもたちだけでも乗せてほしい」と懇願しましたが、自分たちで精いっぱいと断られました。私も、死を覚悟しました。

トルコは日本人救出に特別機を1機、トルコ国民を救出するため、トルコ航空機をもう1機を派遣しました。その救援機に乗らなかったトルコの人々は、日本人救出を優先し、自ら陸路から脱出をはかったのです。そのご恩を決して忘れてはいけません。

なぜトルコが動いたのか。邦人救出からさかのぼること95年。1890年9月16日、トルコ(オスマン帝国)の使節団を載せた軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県串本町の大島の沖合で台風のために沈没。乗員656人が海に投げ出されました。

岸にたどり着いた生存者69人を地元住民たちが数十㍍の崖を降りて救助し、不眠不休の中で援護したのです。トルコからお礼にと地元の医師らに報奨金の申し出がありましたが、「亡くなられた人たちの遺族のために役立ててほしい」と受け取りませんでした。その献身的な援護と誇り高い志をトルコでは学校の教科書に掲載して語り継がれ、「親日」の土壌を作ったのです。

この和歌山県串本町の名もなき人々の真心こそ、邦人救出の軌跡を起こしたのです。戦争に行く米軍の後方支援などとして国際貢献を掲げて自衛隊派遣がありますが、ほんとうの国際貢献は和歌山県串本町の人命救助、そして戦時下のトルコ航空機の邦人救出こそ真の友好の絆と国際貢献ではないでしょうか。

私が技術指導でテヘランに着いたのは1985年2月25日早朝で、早速現状把握そして具体的な実行計画を策定し、技術指導に入りました。ところが、同月6日突然イラクの都市爆撃が始まり、あんな短期間であれ程までの報復合戦になるとは夢にも思いませんでした。イラン・イラク戦争は1980年から始まっていましたが、これまでは国境での地上戦だったので、まさかたったの22日で逃げ帰ることになるとは想像もつきませんでした。

沼田凖一 沼田凖一

1942年、青森県生まれ。1961年、プリンス社入社(66年に日産自動車と合併し、社名が日産自動車に)。78年にイラン自動車工場の技術指導担当。1985年3月、トルコ航空機でイラン・テヘランから救出された邦人215人の一人。その後93年までイラン自動車工場の技術指導を継続。95年に菊地プレス工業に転属、2002年に定年退職した。現在、串本ふるさと大使、エルトゥルルが世界を救う特別顧問、日本・トルコ協会会員。

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