第2回 海部内閣期(1989年8月~91年11月)~宮澤内閣期(91年11月~93年8月)
政治(1)海部内閣期-1989年8月~91年11月―
海部内閣はいわゆる「海部3案」1) と呼ばれる、政治改革関連法案を国会に提出しましたが、審議未了で廃案になり、海部俊樹首相は退陣に追い込まれました。この時期は、東西冷戦が終結した時期であり、国内政治も冷戦終結の影響を受け、イデオロギーの終焉が政界再編につながり、政界再編論議と政治改革論議が密接に絡み合ってきます。
海部内閣は1989年8月10日に発足し、91年11月まで続きました。この間、海部は内政においては殆ど政治改革に専念します。この時期は湾岸危機から湾岸戦争が起こり、国際政治が激動した時期にもあたり、海部は外交課題においては、PKO法案成立を目指しました。
海部は党内最小派閥である河本派(元の三木派)の代表世話人という立場でした 2)。党内基盤は弱く、リクルート事件で党内の実力者が謹慎になったことによる登板でした。経世会には当時、竹下登(元首相)、金丸信(元副総理)、小沢一郎(幹事長)という3人の実力者がいましたが、海部は常に経世会の意向に配慮しながら政権運営を行いました。
海部首相(総裁)は90年2月の総選挙で自民党を勝利に導きます。90年には、第8次選挙制度審議会が、4月に「選挙制度及び政治資金制度の改革について」、6月に「選挙の腐敗行為に対する制裁強化のための新たな措置について」、7月には「参議院議員の選挙制度の改革及び政党に対する公的助成についての答申」を出しました。
政府に対して答申が出されると、自民党は政治改革本部と選挙制度調査会の合同総会で議論を行いました。「政治改革本部」は、89年6月に「政治改革推進本部」として発足しましたが、90年3月には「政治改革本部」と改称されました。本部長は伊東正義が務めました。
この時期、選挙制度改革と政治資金規正の改革を合わせて「政治改革」といっていたのですが、実際に小選挙区(主体の比例代表並立制)の導入に関して強い信念をもっていたのは、伊東正義、後藤田正晴、小沢一郎、羽田孜の4人だけでした。
伊東、後藤田、小沢、羽田の4人の政治家もまた2つの立場に分かれていました。一般的に「改革派」と大きく括られるグループが存在したように言われますが、海部内閣期まではそのようなグループは自民党内には、実態としては存在してはいませんでした。
『政治改革大綱』を積極的に支持するグループがあったのではなく、伊東、後藤田、小沢、羽田の4人が執行部(小沢幹事長)、政治改革本部(伊東、後藤田)、選挙制度調査会(羽田)の要職を押さえ、それぞれを舞台にして、一方的に議論を進めていたのが実際の姿でした。
改革は徐々に進んでいたように見えながら、その実、海部内閣期の前半から、極めて強権的な手法で、選挙制度改革論者が政治改革の錦の御旗のもと、自民党内の議論を封殺していたのが実際の姿でした。
この時期、自民党内に「改革派」という勢力としての実態はなく、伊東、後藤田、小沢、羽田のみが「改革派」であったといえましょう。つまり、これは「体制派の竹下派から、自己犠牲を伴った改革が始まった」という評価は大袈裟で、実際にはそうではなかったということです。
社会党にも90年2月の総選挙における初当選組からいわゆる「改革派」が出てきました。このことは、第8次選挙制度審議会の「答申」に反対するものは「守旧派」だという雰囲気を醸成することにつながって行く兆しでした。また、この動きは「連合」とも連動していきます。
事実上、政治改革関連3法案が審議されたのは91年8月に召集された第121回国会(臨時国会)だけでした。しかも、委員会審議は実際には 2日間行われただけでした。海部が政権を担当した 2年数ヶ月の間に、国会は海部が首班指名を受けた第115回(臨時会)から第121回国会(臨時会)まで 7回開かれていますが、実際に国会で提出された法案が審議されたのは最後の国会の数日間だけでした。
「海部3案」と呼ばれた政治改革関連法案が審議未了で廃案になり、海部は退陣に追い込まれました。海部の退陣後は宮澤喜一が自民党総裁・内閣総理大臣に就任します。
1973 年京都市生まれ。2000 年立命館大学大学院政策科学研究科修士課程修了。修士(政策科学)。2004 年財団法人(現・公益財団法人)松下政経塾卒塾(第22 期生)。その後、衆議院議員秘書、シンクタンク研究員等を経て、2008 年鹿児島大学講師に就任。現在鹿児島大学学術研究院総合科学域共同学系准教授。専門は政治学。著作に『「政治改革」の研究』(法律文化社、2018 年)、『立憲民主党を問う』(花伝社、2021 年)。