シリーズ日本の冤罪㉔：帝銀事件、戦後史の闇にいまなお挑む人々

・毒物による大量殺人事件

戦後最大の冤罪事件といわれる「帝銀事件」が起きたのは、まだ敗戦の混乱が続く1948（昭和23）年1月26日のことだった。

その日、東京都豊島区にある帝国銀行椎名町支店に一人の男が現れた。男は腕に、「東京都消毒班」と記された腕章をつけた坊主頭で、長靴を履き、黒っぽいコートを着ていたという。男は、支店長代理に次のように話した。

「近くの家で集団赤痢が発生している。その家の人がこの銀行に来たことがわかっています。GHQから予防薬をもらってきているので、すぐに行員に飲ませてほしい」。

予防薬は2種類あり、行員とその家族、計16人の前で、男はその飲み方について、「強い薬なので、舌を歯の前に出して一気に喉の奥に流し込むようにして飲んでください」と実演してみせた。

しかし、予防薬を飲んだ16人は、次々とその場に倒れ始めた。渡された薬は青酸化合物だったのだ。結果、12人が死亡。男は、現金や小切手合わせて18万円余り（現在の貨幣価値に換算すると約100倍とされる）を奪って逃走した。

犯罪史上まれにみる、毒物による大量殺人事件に世間は騒然とした。

実はこの事件の前に、類似事件が都内で2件発生していた。前年の10月14日、品川区にある安田銀行荏原支店に「厚生省技官　松井蔚」の名刺を持って現れた男が、行員21名に予防薬と称する液体を飲ませた。しかし、行員の身体に被害はなかった。

また、帝銀事件の1週間前である1月19日には、椎名町支店にほど近い新宿区の三菱銀行中井支店に現れた男が「厚生省技官医学博士　山口二郎」の名刺を出し、行員に液体を飲ませようとした。しかし、その場にいた高田馬場支店長が「自分はたまたま来合わせただけだから」と言って飲むのを断った。すると男はすぐに立ち去り被害はなかった。

2つの事件を捜査当局は、帝銀事件の犯人が予行演習したものと断定。しかし、捜査は難航した。

事件が動いたのは、事件から7カ月後の8月21日。著名なテンペラ画家・平沢貞通（当時56歳）が北海道・小樽市内で逮捕された。テンペラ画とは、乳化作用を持つ物質を利用するテンペラ絵具を用いて描かれる画のこと。

平沢逮捕の端緒は、犯人が使用した「松井蔚」の名刺だった。松井蔚は実在する厚生省技官で、名刺交換をした相手の中に平沢がいたのである。つまり、平沢が松井と交換した名刺が事件に用いられたということになる。逆に言えば、事件と平沢を結び付ける物証はこの名刺しかなかった。そんな薄弱な根拠によって、平沢は犯人とされてしまったのである。

平沢にとって不利だったのは、逮捕時、名刺が手元になかったことだった。平沢は名刺を財布に入れていたが、電車の中でスリに遭ったと主張した。事実、平沢は1年前に、財布をすられたとして交番に届け出ていた。しかし、捜査側はそれを受け容れず、名刺は事件に使用したとして強引に逮捕した。

平沢の無実を信じ救援活動を続けてきた元プロボクサーの山本晁重朗（85歳）が、こう振り返る。

「このとき、平沢さんが松井の名刺を持っていれば、容疑は晴れるはずだったのですが、失くしていた。でも、このことだけで犯人とするにはかなりの無理がありましたね。ここが大きな分岐点でした」。

逮捕された平沢は、連日の取調べに否認を続けたが、その厳しさに耐えるのは容易なことではなく、自殺未遂を3度も起こしている。

それでも、逮捕から1カ月が経った9月23日、平沢は自白する。そして、3つの事件で平沢は強盗殺人罪と強盗殺人未遂罪で起訴された。

法廷で平沢は「自白は精神的拷問の結果」として無実を訴えたものの、55年5月7日、自白を唯一の証拠として、最高裁で死刑が確定したのである。

なぜ平沢は青酸化合物を持っていたのか。どこから入手したのか。なぜ東京都の腕章を持っていたのか。なぜ近隣で赤痢が発生したことを知っていたのか。遺留物に平沢の指紋がないのはなぜか。数多くの疑問が残ったままの死刑確定だった。

・731部隊の存在

山本が平沢の救援活動を始めたのは、死刑が確定したあとの62年のこと。新宿で、平沢の救援運動をしている作家の森川哲郎と偶然出会い声をかけた。

「今どんな小説を書いているのですか」。

「人権運動をしているのです。人手が足りないので手伝ってくれませんか」。

それが「平沢貞通氏を救う会」だったのである。

以降、山本はさまざまな分野の著名人を訪ねて平沢の無実を訴え、再審請求の署名と無実を訴える原稿依頼などに従事した。

あるとき、森川に、「松本清張さんの家に、依頼してある原稿を取りに行ってください」と言われた。杉並区の浜田山の自宅に赴くと、応接間に通され、松本にこう言われた。

「森川さんはお元気ですか。この事件は奥が深いので、平沢氏の無実を説得するのが大変でしょう」。

これに対し山本は、「先生がお書きになった『帝銀事件』を読んでいますので、大丈夫です」と答えたという。

こうして、松本や森川の調査などもあり、世論は次第に“平沢冤罪説”を訴える声が大きくなっていった。

そうしたなか、事件の背後に新たな事実が浮上してくる。それは、旧陸軍関東軍第731部隊の存在だ。

どういうことか。事件発生から40年が経って発見された捜査資料がある。それによると、犯行の冷静な手口、無味無臭で無色だった青酸化合物の巧みな配合、数分で毒がまわる時間的効果の計算、飲ませ方などから、毒物の専門知識に造詣が深い731部隊の関係者が犯人の適格者であると、捜査機関は見ていたのである。

当時の捜査要綱には、こうある。

〈軍関係薬品取り扱い、特殊学校、研究所又は之に従属した教導隊、或は防疫給水隊、若しくは憲兵特務機関関係の前歴のあるものから容疑者を物色されたい〉。

このように、全国の警察へ指示を出しているのだ。これは平沢とはまったく重なるところのない容疑者像だ。

これにより捜査は731部隊に絞られ、満州・背陰河で秘密裏に行なわれていた青酸カリによる人体実験に手を下していた軍医たちの顔ぶれも次第に浮かび上がっていた。