シリーズ日本の冤罪㉔:帝銀事件、戦後史の闇にいまなお挑む人々

青柳雄介

ところが、である。

この731部隊に関する捜査は、GHQにとって非常に都合が悪かった。当時、GHQは日本に細菌兵器の専門家などの化学技術調査団を派遣していた。アメリカの公文書などによると、人体実験を行ない、実際に中国でペスト菌などの細菌兵器を使った細菌戦を行なっていた731部隊の実情を知ったGHQが、そのデータの提供と引き換えに戦犯訴追を免責するという取引を、極秘裏に行なっていたのである(『731部隊・細菌戦資料集成』近藤昭二編、柏書房)。

GHQにとっては、帝銀事件の捜査で731部隊の実態が表に出ることは、避けなければならなかったのである。

当時、帝銀事件で731部隊を追っていた読売新聞の社会部次長は警視庁に呼ばれ、「今後便宜を図るので、その代わり、731部隊の取材を止めるように」と言われたという。部隊に出入りしていた業者にまでGHQの口止めがされていた。

そんなときに、1枚の名刺によって浮上したのが平沢だった。平沢に疑いの目が向くことは、GHQや旧陸軍関係者にとって都合が良かったのである。

こうした事実が明らかになったころ、すでに平沢は、日々、死刑台の絶望と向き合っていた。平沢は、こう語ったという。
「日本の司法に憤りを感じます。私を獄死させようとしているのでしょうが、死んでも死にませんよ」。

・平沢が所持していた13万円

そんななか、平沢を救出すべく日夜、活動を続けていた山本もまた、想像すらできない出来事に遭遇する。

平沢は事件直前まで、借金を抱え金銭的に困っていたとされたが、事件が起きたときには13万円の大金を所持していた。ただし、平沢によれば、それは新宿の絵画店「世界堂」で売れた絵の売上だという。そこで、森川と山本は、絵画を購入したという野村という人物を数年かけて探し当てた。これで大金の出どころがわかるはずだ。1964年のことだった。

2人はまず、「野村さんは平沢さんの絵を購入されましたか」と尋ねた。

「いや、買っていません。平沢さんに会ったこともありません」と野村。

「では、残念ですが仕方ありませんね」。

そう言って立ち上がろうとしたとき、野村は「ちょっと待ってください」と引き留め、2人を別室に案内し、「もう一度お座りください」と言い、こう口にした。

「さっきは言いませんでしたが、実は平沢さんの絵を買いました」。

「なぜ、さっきは買っていないと言ったんですか」。

「私は闇屋だったんです。もし名乗り出れば逮捕されてしまう。だから言わなかったんです。でも、私が証言すれば、平沢さんという死刑囚が助かるのなら、いいですよ、お手伝いしましょう。証言台に立ちましょう」。

この証言を新証拠に、東京高裁は再審請求を認めた。森川と山本は、野村が話した内容を再審で証言した。つまり、あの大金は強盗したものではなく、絵が売れたお金だったのだ、と。

ところが1週間後の高裁の決定は、「野村は著しく事実を歪曲し虚構の事実を証言していることが明瞭であって、その証言をもって、被告人が無罪たることを証明すべき新たな証拠とはなし得ない」。その翌日、野村は偽証罪により逮捕された。3日後には、森川も偽証を教唆したとして逮捕。

さらに、当時コックをしていた山本のもとに、夜10時過ぎ、東京地検特捜部の検事が2人、訪ねてきた。

「ちょっと話が聞きたいから検察までご同行願いたい」と言う。コック帽をかぶっていたので着替えようとする山本に、「すぐ終わるからそのままでいい」とまで言って急かした。

こうして白衣のまま霞が関の検事室まで連れていかれた山本に対し、最初は穏やかな様子だった検事。しかし、電話でどこかと連絡を取ったあと態度が急変した。

「山本っ、逮捕状が出てるぞ、偽証罪だっ」。

山本はその場で逮捕されて、東京拘置所に勾留されてしまったのだ。

「森川とお前が野村に、平沢の絵を買ったことにしてくれ、と頼んだのではないか」というのが容疑だった。

山本は独房に1カ月間勾留された。しかし、裁判では無罪を勝ち取る。検察側は控訴すらできなかった。

・15人の犠牲者

確定死刑囚である平沢に死の影が忍び寄ったのは、山本が「救う会」に入った62年のことだった。収容されていた東京拘置所から仙台刑務所へ移送されたのである。当時、東京拘置所には死刑台がなく、仙台刑務所に押送されれば、1週間以内に死刑執行となることを意味していた。

しかし、このときは、秘密裏に仙台へ押送したことに気づいた支援団体が嘆願書を提出するなどの世論づくりに成功。すんでのところで執行は阻止されたのだった。

獄中でも平沢は、絵を描き続けていた。それがあるとき、看守と口論になってしまい、絵筆を取り上げられてしまった。そのとき平沢は、「弁護士を呼んでください。本省に問い合わせていただきます。絵を描くことだけが私の生きがいです。私に死ねとおっしゃるのですか」と抗弁し、ことなきを得たという。

平沢はその後、高齢になっても何度も再審請求を繰り返したが、確定死刑囚として無実を訴えたまま、東京の八王子医療刑務所で87年5月10日、95歳の無念の生涯を、勾留されたまま閉じた。逮捕から38年8カ月が過ぎていた。

「平沢は、間違いなく犯人ではありません」。

今もなお、平沢の無実を信じている山本。葬儀のあと、新聞記者に囲まれた際には、「平沢はどんな顔をしていましたか」と問われ、「とても悔しそうな顔をしていましたよ。平沢を逮捕した刑事、起訴した検事、死刑の判決を下した裁判官。この人たちが、平沢がいかに犯人ではないということを知っていますよ。ある意味、平沢も犠牲者ですよ」と答えたというが、どこも記事にしなかったという。

その後、日比谷野外音楽堂で「平沢さんを偲ぶ会」が開かれた。

映画「帝銀事件 死刑囚」(64年)の監督・熊井啓が、平沢を取り調べた高木一元検事が来場していることに気づいた。そのことを聞いた山本が近づいて話しかけた。

「高木さんですね」。
「そうですが」。
「元検事の高木さんですね」。
「そうですが」。
「平沢を取り調べましたね」。
「これ以上、私は何も答えません。守秘義務がありますから」。

「では、僕がしゃべりますから、僕の話だけ聞いてください。帝銀事件の犠牲者は12人、そして、その犯人にされた平沢も13人目の犠牲者です。さらにこの問題を追及して病死した森川哲郎(82年死去)は14人目の犠牲者です。あなたにも検事としてのプライドがあるでしょう。そのプライドがあって、犯人でない者を犯人に仕立て上げ、死刑を求刑したんでしょ。あなたもプライドを傷つけられたんではないでしょうか」。

山本の言葉を聞いた高木元検事は、傍目でもわかるほど、目の色を変えたという。

犠牲者はまだいる。森川の息子・武彦は、平沢の養子になった。もし平沢が亡くなった場合、再審請求を引き継ぐ者がいなくなるからである。武彦もまた事件究明に取り組んだが、19度目の再審請求中の13年12月に自宅で亡くなっているのが見つかった。

武彦から1カ月ほど連絡がないのを不審に思った知人らが自宅で発見。死因は特定できなかったという。15人目の犠牲者である。

平沢に対し、何度か恩赦の話も出てはいたが、そのたびに法務省に却下され続けた。無実の訴えも虚しく、疑いが晴れないままに獄死した平沢の無念さは察するにあまりある。辞世の句は、

ゆるぎなき かたき覚悟や 暴風雨

帝銀事件は今もなお、闇に葬られたままの戦後最大のミステリーである。
(文中・敬称略)

(「紙の爆弾」2022年4月号より)

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青柳雄介 青柳雄介

雑誌記者を経てフリーのジャーナリスト。事件を中心に社会・福祉・司法ほか、さまざまな分野を取材。袴田巖氏の密着取材も続けている。

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