【連載】平成・令和政治史(吉田健一)

『平成・令和政治史』第5回 橋本龍太郎内閣(1996年1月~1998年7月)

吉田健一

(1)橋本政権の政権枠組み
村山富市が退陣した後、政権与党の枠組みは自社さの枠組みのままでしたが、自民党総裁の橋本龍太郎が第82代総理大臣に任命されました。村山から橋本への禅譲がなされた理由は、村山が与党第一党ではない社会党委員長(党首)である自分が首相を担うことに限界を感じたからでした。
1996(平成8)年1月11日に橋本内閣が発足します。社会党は政権発足直後、社民党と党名を変更しました。96年10月に第41回衆議院選挙が実施されました、この選挙では自民党は議席を伸ばしたものの、連立を組んでいた社民党とさきがけは議席を減らし、社民党とさきが閣外協力に転じ、96年11月に発足した第2次橋本内閣からは自民党の単独政権となりました。自民党の単独政権は宮澤政権以来でした。橋本政権時代の97(平成9)年4月1日からは消費税率が3パーセントから5パーセントに上げられました。

第1次橋本内閣の主要閣僚は副総理兼蔵相に久保亘(社会党)、外相に池田行彦(自民党・旧宮沢派)、厚相に菅直人(新党さきがけ)、内閣官房長官に梶山静六(自民党・旧小渕派)らでした。社会党書記長であった久保が蔵相兼副総理に就任したのは、自社さ連立の象徴としての入閣でした。

(2)橋本政権時代の重大事:住専問題と普天間基地返還合意
橋本政権時代の重大事としては住専問題と普天間返還合意が挙げられます。住専とは住宅金融専門会社のことで、住専は90年代のバブル崩壊によって多額の不良債権が問題化していました。これらの住専には農林系の金融機関なども貸し込んでいたのですが、これらの金融機関が貸し倒れすると金融システム全体に影響が及ぶことが懸念され、6850億円の公的資金を投入する案が浮上しました。しかし、住専に公的資金を投入するという処理案に対しては梶山官房長官も反対をしていました。

結果的には竹下登元首相の意に沿う形で村山内閣が編成していた96(平成8)年度予算案には総額6850億円の支出をする方針を決めました。しかし、自民党の加藤紘一幹事長も住専問題が刑事事件に発展する可能性を匂わすなど、公的資金の投入に対して世論の批判は激しいものがありました。これは、バブル期に住専がいい加減な経営をしていたにも関わらず、バブルが崩壊するや、経営者の責任を一切、問わず、国民の税金で住専を救済することへの批判でした。

このような世論を背景として、野党新進党(党首:海部俊樹、代表幹事:小沢一郎)は国会で激しく抵抗をします。約60人の新進党議員が予算委員会の開かれる第一衆議院委員会室の入り口でピケを張るなどの物理的な抵抗をしました。結果的には、住専処理機構に投入される6850億円は住専関連法案が成立するまで凍結するなど玉虫色の決着となります。しかし、この新進党の座り込みは評判が悪く、小沢の主導した戦術は失敗に終わることになりました。

外交問題で特筆すべきは普天間基地の返還合意でした。96(平成8)年4月12日、橋本首相はモンデール駐日大使と一緒に記者会見に臨みました。そして、日米両国政府の普天間基地返還に関する合意内容を発表します。内容は次の通りでした。

1.米普天間飛行場を5-7年以内に全面返還。
1.普天間飛行場の一部機能を嘉手納飛行場内に移転、統合。嘉手納飛行場を中心とする沖縄県内の米軍基地に、普天間飛行場所属の海兵隊ヘリコプター部隊のヘリポートを新設する。
1.普天間飛行場所属の空中給油機12機を岩国飛行場に移転する。
1.岩国飛行場のハリアー攻撃機を米国内の基地に移転する。
1.緊急の際の米軍による施設利用に関し双方で共同研究する。
橋本首相は4月17日、来日したクリントン米大統領と日米首脳会談を行い両国は日米安全保障共同宣言に署名した。共同宣言は冷戦の終結後に存在が問われることになった日米安保体制の再定義を目指した内容でした。

(3)橋本行革について:6つの改革
橋本首相が進めた大きな政策は6つの改革と呼ばれるものでした。これは第2次橋本内閣になってから進められることとなりました。橋本首相は第2次内閣で、自身の内閣の最重要課題に行財政改革を掲げます。行革担当の総務庁長官には武藤嘉文、蔵相には三塚博が任命されました。ちなみにこの内閣では厚相には菅にかわって小泉純一郎が就任しています。6つの改革とは行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革、教育改革を指します。橋本は96(平成8)年11月29日の第139回国会での施政方針演説で、まず5つの改革を提唱しました。そして、その後、97(平成9)年1月20日の施政方針演説で教育改革も加えました。

6つの改革の中で中心となったものは行政改革でした。橋本首相は行政改革について、各省庁の抵抗に負けることなく「火だるまになってもやり抜く」と述べました。2001(平成13)年4月に大蔵省が財務省になり、厚生省と労働省が合併した厚生労働省、文部省と科学技術庁が合併した文部科学省、建設省と運輸省、国土庁、北海道開発庁、沖縄開発庁などが合併した国土交通省などが発足しましたが、これは橋本内閣の時に決められたものです。

(4) 野党の動き:新進党の解党と民主党の結成と拡大
橋本内閣期には野党でも大きな動きがありました。第1次橋本内閣の発足時には野党第一党は新進党でした。新進党は94(平成6)年に結成されていた。新進党は一言でいえば、細川政権を構成した政党から、社会党(社民党)とさきがけを抜いた政党によって、非自民勢力が野党になった後に結成された党でした。結党時の議員数は214人もいました。構成メンバーとなった勢力は、日本新党(細川)、新生党(羽田・小沢)の他、民社党、公明党などです。

初代党首には自民党時代に首相を務めた海部俊樹が就任しました。海部は94(平成6)年の6月に村山政権が自社さの枠組みで誕生した時の首班指名選挙で、首相候補として非自民勢力に担ぎ出されていました。新進党は結党時からいくつもの内部対立を抱えており、97(平成10)年の12月31日突如解散することとなりました。当初、新進党は自民党に対する「二大政党」の一方の勢力を目指していたのですが、当時は、「第三極」を標榜する、最初の民主党(第1次民主党)が結党されるなど、自民党に対抗しうる勢力には成長しませんでした。

また、新進党に言及する時に、どうしても外せないのは公明党の勢力でした。新進党自体は確かに「新党」ではあったものの、日本新党や当選回数が低かった議員を中心に結成された新党さきがけとは性格を異にする政党でした。徐々に小沢対公明の対立がはっきりするにつれて、分裂から解党への道をたどることとなりました。解党した新進党は、自由党(小沢一郎)、改革クラブ(小沢辰夫)、新党平和(公明勢力)、新党友愛(民社勢力)、黎明クラブ(参議院の公明勢力)、国民の声(保守系・鹿野道彦)の6つに分裂しました。

最初の民主党が結党されたのも橋本内閣の時期でした。最初の民主党は、当時、自社さ政権内で新党さきがけに属していた鳩山由紀夫と菅直人を中心として、96年(平成8年)9月に結成されました。この時期は、自社さ政権ではありましたが、首相が村山から自民党総裁の橋本に交代していました。新党に参加したのは社民党、さきがけを離党した議員と、新進党の一部議員(鳩山邦夫)、社会党を離党していた山花貞夫や日本新党出身の海江田万里の属していた「市民リーグ」の議員らでした。

当時、社民党、さきがけ共に行き詰まりが見えており、全体の合併による新党移行を目指していたのですが、社民党の村山(富市)前首相、さきがけの武村(正義)前蔵相の参加が鳩山により拒否された。これは当時、「排除の論理」と呼ばれ、社民党内にも、「民主党設立委員会」から新党参加の誘いを受けた議員と、参加を拒否された議員がいました。拒否された議員は、引き続き社民党にとどまることいなりました。さきがけも同様でした。直後の96(平成8)年の総選挙で社民・さきがけ両党は惨敗を喫することとなりました。

しかし、民主党もブームを巻き起こすまでには至らず、結党直後の総選挙では選挙前と同じ52議席に留まりました。当初、民主党は2011(平成23)年までの「時限政党」であると表明していました。民主党は「市民が主役」をキャッチフレーズに掲げ、「未来への責任」を訴えました。
98(平成10)年1月には、前年末に解党した新進党から分裂して出来ていた、国民の声(鹿野)、新党友愛(民社)、太陽党(羽田・新進党解党前に結成)、フロムファイブ(細川)、民主改革連合(連合系)と共に民主党は院内会派である「民主友愛太陽国民連合」(民友連)を結成しました。その後、4月に「民友連」を構成する各勢力は合同し、第2次民主党が結成されました。手続き上は民主党以外の党が解党し民主党に合流しました。

民主党は第2期を迎えましたが、民社党系と保守系からの参加者が合流したことによって、96(平成8)年の民主党とはかなり性格が変わることとなりました。55年体制下での社会党系と民社党系の議員が合流し、背後で応援していた労働組合の連合は、民主党と新進党に分かれていた時代の「又裂き」状態を解消することが出来たのでこの合流を歓迎しました。98(平成10)年には参議院選挙があり、第2次民主党は10議席増の27議席を獲得するなど躍進しました。

(5) 橋本時代の外交:北方領土問題とアジア通貨危機
橋本首相は外交にも力を入れました。普天間飛行場の返還を決めるなど、日米関係を改善し、対中関係も通常の状態に戻しました。また、橋本政権下では、ASEAN諸国とも良好であり、ヨーロッパとの関係も全般的に良くなりました。

橋本外交のうち特筆すべきは、ロシアとの関係の歴史的転回でしょう。ロシアは旧ソ連を引き継ぐ国家であったことから、ロシアがG7先進経済国サミットに加わることは、当時、不自然なことだと思われていました。ロシアは西側先進国のような市場経済や民主主義の実体は充分ではありませんでした。ですが、ヨーロッパ諸国はロシアを加えたがっていました。

橋本首相はこの時、発想の切り替えを行いました。97(平成9)年6月のデンバー・サミットで橋本首相は、エリツィン大統領に対して、ロシアからの参加を心から歓迎すると明言しました。そして、ロシアのサミットへの参加を、日ロ関係を劇的に進める機会としようとしました。橋本政権の時期に日ロ間は、平和条約は結ばれていない中ではありましたが、一定の対話・交流・協力が進むようになりました。

97(平成9)年にはタイでバーツが暴落し、アジア金融危機が始まりました。それはインドネシア、韓国を呑み込む東アジア全般の金融危機から、さらにインドネシアでは政治危機まで進んで行くこととなりました。この危機を受けて、橋本内閣は大蔵省の提案により、アジアの金融危機を救うために、IMFに加えてアジア通貨基金(AMF)の創設を提案しました。しかし、米国はAMF案を拒否したことから、日本政府は個別的に二国間で緊急支援を行いました。

(6)橋本内閣の終焉と評価
外交ではかなりの実績を残した橋本内閣でしたが、経済政策については失敗が重なりました。不況の中での「支出削減=不景気政策」を突き進んだことは、不幸な結果を招いたと言われています(例:五百旗頭編『戦後日本外交史』での見解)。実際、橋本自身、後に2001(平成13)年に再度、自民党総裁選に立候補した時には、自身が政権を担当した時の誤りを認めています(この時の総裁選では小泉が当選しました)。国内では金融システムの腐敗と経済不況が救い難い二重苦となっていました。橋本は98(平成10)年7月の参議院選挙に敗れて、総辞職しました。この参議院選挙で橋本は減税について恒久減税をするか、単年度の減税しかしないのかという点で発言がぶれ、結局、これが自民党の敗北を招いたとされています。様々な問題に積極的に取り組んだ橋本政権でしたが、最後はあっけない幕切れとなりました。

橋本政権をどう評価するかは難しいところです。やはり、6つの改革の中の行政改革の部分の省庁再編が成果と言えば成果なのかもしれません。ですが、これは実質的にはある省庁をある省庁を足して再編しただけで、実質性は薄かったとも言われています。省庁再編は、大胆な公務員改革をしたというわけではありませんでした。外交面でいえば、北方領土問題は惜しいところまで行きました。橋本が参院選で敗れて退陣することがなければ、さらにエリツィンロシア大統領との話し合いは進展したかもしれません。ここはとても惜しい気がするところではあります。

【参考文献】
「政治家橋本龍太郎」編集委員会編『61人が書き残す 政治家 橋本龍太郎』文藝春秋、2012年
後藤謙次『ドキュメント 平成政治史1 崩壊する55年体制』第8章「橋本龍太郎内閣:経済危機に散った自民党復活政権」岩波書店、2014年
五百旗頭眞編『戦後日本外交史』(第3版補訂版)有斐閣、2014年
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吉田健一 吉田健一

1973 年京都市生まれ。2000 年立命館大学大学院政策科学研究科修士課程修了。修士(政策科学)。2004 年財団法人(現・公益財団法人)松下政経塾卒塾(第22 期生)。その後、衆議院議員秘書、シンクタンク研究員等を経て、2008 年鹿児島大学講師に就任。現在鹿児島大学学術研究院総合科学域共同学系准教授。専門は政治学。著作に『「政治改革」の研究』(法律文化社、2018 年)、『立憲民主党を問う』(花伝社、2021 年)。

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