【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)
それぞれの筆者の視点で、足利事件を描いた代表的な5冊の本

第37回 遠い無罪、科警研の鑑定のほころびをつく秘策

梶山天

連載「鑑定漂流」は、30回目から法医学者の本田克也氏が母校の筑波大学(茨城県つくば市)を離れて信州大学(長野県松本市)、そして大阪大学と渡り歩き、その間にここぞと思う時にはドイツの専門家らとY-STR共同研究をしたり、開発した鑑定で難問の殺人事件の真犯人を確認したり、恩師の突然の死など、武者修行の日々を描いてきた。

ここらへんで本筋である足利事件裁判に戻りたい。まずは、おさらいをしてみよう。元幼稚園バス運転手の菅家利和さんを栃木県警が逮捕するきっかけにもなったDNA型鑑定「MCT118法」は、1980年代後半に、警察庁の科学警察研究所(科警研)の笠井賢太郎技官が米国・ユタ大学のハワード・ヒューズ医学研究所に派遣され、持ち帰った鑑定法だ。89年から犯罪捜査に活用が開始された。

その鑑定にほころびが出た。菅家さん逮捕から1年後の92年12月に東京大学を会場に開催された日本DNA多型研究会第1回学術集会で、信州大学の本田助手(当時)らのグループがMCT118法には欠陥があり、使用すると誤鑑定の可能性があることを指摘したのだ。

この指摘の10カ月前の同年2月13日から宇都宮地方裁判所(宇都宮地裁・久保眞人裁判長、樋口直裁判官、小林宏司裁判官)で始まった一審裁判では、審理の途中からDNA鑑定のほころびが明らかになったにもかかわらず、法廷に証人として出廷した科警研の技官たちは先の本田助手たちの鑑定欠陥の指摘に見向きもせずにだんまりを続けた。

悲しいかな、当時の梅沢錦治弁護士たちも、菅家さんが初公判から殺害を認め続けていたこともあって、菅家さんが犯人と思い込んでいた節もあったのは事実で、被告と弁護士の間にできた溝は最後まで修復できずじまいだった。93年7月7日の一審判決は、無期懲役の有罪。驚いたのは、DNA型鑑定について何も学んでいない裁判官たちは証拠能力について「DNA鑑定に対する専門的な知識と技術及び経験を持ったものによって、適切な方法により、鑑定が行われたのであれば、鑑定結果が裁判所に対して不当な偏見を与えるおそれはないといってよく、これに証拠能力を認めることができるというべきである」と認めたことだ。そこには専門家が言っているのだから、と何の根拠もなく鑑定内容も確認もしていない現実があった。これが果たして裁判と言えるのか? 裁判官たちの資質を疑いたくなる。

一審判決から1カ月後のことだ。日本DNA多型研究会で足利事件での科警研が行ったDNA鑑定に関する幾つかの問題を指摘されて以来、科警研もMCT118法の欠陥を認めざるを得なくなったのだろう。正義を貫いて事件を解決する捜査機関ともあろうところが、有罪判決を見計らったように、「123塩基ラダーとシータス・アレリックラダーとの比較」(科学警察研究所報告 法科学編)という題でこっそりと修正論文を載せた。正確にバンドを測れるように電気泳動時のDNA断片のバンドパターンの型判定に使った「物差し」を変更したと明らかにしたのだ。

論文はさらに、上段がアレリックラダーマーカー、下段が123ラダーマーカーの型の数値を書いた表をも掲載していた。

 

科警研は「123塩基ラダーとシータス・アレリックラダーとは、ポリアクリルアミドゲル上での移動に規則的な対応が認められることから、従前からの問題を指摘された123塩基ラダーによるMCT118部位DNA型の型番号とシータス・アレリックラダーによる型番号の相互の対応は可能」であると結論付けた。

しかし、上の型番号対照表の写真を見てみよう。ゲルの濃度や泳動条件によって型の位置は変わる。型も1対1で対応していない。例えば、型番号を新旧比較すると、123ラダーで「17型」と判定されているものは、アレリックラダーでは「19型あるいは20型」であるなど、型番号の誤差を許している。

ところが、MCT118部位で一つの型がずれるということは、16塩基もの違いに相当する。他にも、下段の123ラダーによる「18型」「24型」「30型」などにも不確実な対応関係があった。上段のアレリックラダーの側から見ても、「20型」は123ラダーで「17型」「18型」と、二つに対応していた。いずれにしても不規則な対応の仕方であり、科警研の論文は、従来の数値に誤りがあったことを認めたばかりか、大きな誤差をもってしか対応できないという限界をも示すものだったのだ。直接的な表現こそないが、勝手に鑑定に誤りはないとしたのである。これこそ見せかけのインチキと言わざるを得ない。公務員のすることなのか、あきれる。

なおこの論文には足利事件の鑑定には一切触れていないが、元鑑定の16-26型は、18型のいずれか(18-29、30、31)になると読み取れる。ここでは26型は曖昧にも三つの型に対応させている。この頃から科警研は「DNA鑑定」ではなく「DNA型鑑定」だと主張し始めた。つまり型が合っていればそれで十分でそれ以上ではない、ということを流布し始めたのだ。こうして型を誤って判定していたことを認めたにもかかわらず、後に法廷でも証言するように16-26型は18-30型へと何事もなかったように書きかえられてしまったのである。

しかし、MCT118部位の16型と18型とでは意味が違う。A型とB型の血液型が異なるのと同じことだ。誤った判定だ。科警研の主張を分かりやすく例えると、実際の身長は165㎝なのに物差しが狂っていて150㎝と測定した。けれど誤った物差しでは、そうなるのだから判定自体は誤りではない、150㎝を165㎝と表現が異なっただけで誤ったわけではない、とミスを隠蔽しているのだ。しかもこれは殺人事件の裁判での大事な証拠なのだ。子どもでさえ、これがとても大変なことだというのは分かる。

あくまで誤りを認めようとしない。あるいは認めたくてもできない科警研の体質が論文には、にじみ出ている。この誤りを認めない「欠陥」が菅家さんの悲劇を拡大していったのである。

弁護過誤の一審と異なり、94年4月から開廷した控訴審は弁護団が一新し、佐藤博史主任弁護士を中心に日本大学医学部法医学教室の押田茂實教授らのもとでDNA型鑑定の実習を受けた。法廷に実際に鑑定を行った科警研の向山明孝元技官(92年4月、定年を待たずして突然辞職し、JRA競走馬総合研究所に再就職)と坂井活子技官を法廷に呼び、坂井技官からは被害者の肌着から抽出したDNAと菅家さんのDNAが一致したとしたMCT118法での鑑定は、「123塩基ラダーで示されている型が、正しい繰り返し回数を表す型ではなかったことが分かった」と核心部分を引き出したのだ。手ごたえを実感し、無罪の期待が膨らんだのだ。しかし、東京高裁(高木俊夫裁判長、岡村稔裁判官、谷川憲一裁判官)は、科警研の鑑定の結論には疑問を持つことなく、一審判決をほぼそのまま追認し96年5月9日に控訴棄却を言い渡した。想定外の結果に菅家さんと弁護団は翌日にも最高裁に上告した。

弁護団は、ここでひるまなかった。控訴審では、科警研によるDNA鑑定の問題点を浮き彫りにした。それなのに科警研は新しいマーカーを使って検証もせずにDNA型の数字を置き換えただけで「よし」とした。信じがたいことだ。

佐藤弁護士の脳裏には、既に次の手を打とうとしていた。「科警研のDNA鑑定は間違っている。もう一度やり直してください」。法廷で高木裁判長が判決を言い渡す直前に菅家さん自らが叫んだ言葉が心に鳴り響いていた。最高裁での闘いをこの菅家さんの悲痛な思いの言葉に託そうとしたのである。裁判所がしないのなら自分たちが法医学者に頼んで、アレリックラダーマーカーを使い、菅家さんのDNA型をもう一度確かめる必要がある。数字の置き換えが正しければ、科警研の技官が控訴審で証言したように「16-26型」が訂正された「18-30型」が出るだろう。鑑定結果が異なれば、再鑑定の必要性を突きつけることができる。鑑定を頼む相手も直ぐに浮かんだ。足利事件の弁護団に入り、DNA鑑定の研修を受け持ってくれた日大の押田教授だ。

96年秋、押田教授に相談すると、当初は「科警研が鑑定しているのに、再度する必要があるのか」と渋ったが、佐藤主任弁護人が資料を見せ、粘り強く説き伏せて応じてもらった。ただ押田教授が手がける鑑定には一つ問題があった。菅家さんは控訴審で有罪判決を受けて拘置所に収監されているため、直接本人の身体から試料採取できないために菅家さんの血液を採取することが不可能。そのために菅家さんの毛髪を自分で引き抜いてもらい、それをビニール袋に入れてもらう。さらに毛髪が入ったビニール袋を封筒に入れ、拘置所チェックを避けるために手紙など文字で書いたものは一切入れずに郵送してもらう。

翌97年2月、佐藤弁護士経由で菅家さんの毛髪44本が押田教授に届けられた。正確なDNA鑑定には欠かせない細胞核を含む毛根部がはっきりと残っている4本を使い、押田教授と中国人の鉄堅・日本大学講師がアレリックラダーマーカーを使って鑑定をした。結果はいずれも「18-29型」。科警研が数字だけを置き換え控訴審で証言した「18-30型」とは明らかに異なっていた。この結果に押田教授は身震いがするほど驚いた。裁判に大きく影響する重大な結果に再鑑定の可能性を感じた押田教授は、疑いが生じた場合は第三者がこれを検証する必要があると考え、残りの髪の毛を日本大学医学部法医学教室にある零下80度の超低温保管庫に保管した。この素晴らしい気配り。都合のわるい証拠を残そうとしない科警研も少しはその姿勢を見習うべきだ。

しかし、この押田教授らの独自鑑定の結果だけで菅家さんの無実を証明できるわけではない。これは型判定の誤りを指摘したにすぎず、遺留精液との異同はまだ証明されていないからだ。だからこそ、と弁護団は考えた。被害者の肌着の鑑定で異同識別することは絶対に必要だ。もちろん、肌着に付着した精液のDNA型が独自鑑定と同一だったら、事情は全く変わらない。しかし、異なっていれば犯人ではない。

97年10月28日、弁護団は最高裁に押田鑑定書を新証拠とする補充書を提出し、肌着と菅家さんの血液とのDNA再鑑定の請求を行った。ところが、3年後の2000年7月17日、最高裁(亀山継夫裁判長、北川弘治裁判官、河合伸一裁判官、梶谷玄裁判官、福田博裁判官)は上告を棄却した。裁判官5人、全員一致で、菅家さんの無期懲役が確定したのだ。押田鑑定は無視され、科警研の鑑定は証拠として証明力が認められるという「お墨付き」がつき、菅家さんは千葉刑務所に収監された。

弁護団は落胆はしたが、このままで終わるわけにはいかない。上告棄却理由を精査したところ、押田鑑定については、何も言及していなかった。つまり、押田鑑定を新証拠としてもう一度提出し、再鑑定を請求するチャンスがあるということだ。諦めるわけにはいかなかった。

2年5カ月後の2002年12月25日、菅家さんが宇都宮地裁に再審請求を行うと弁護団は押田鑑定書を新証拠として提出した。この再審請求から5年以上もかかった08年2月13日に地裁が出した決定はなんと「請求を棄却する」だった。弁護団の誰もが信じていた無罪の証明がはるか遠くに遠くに消えていくように感じた。そして長すぎた審理の間の05年5月、足利事件の公訴の時効が成立した。

弁護団は、再審請求棄却の当日に東京高裁に即時抗告の申し立てを行った。「棄却」という結果にショックがなかったと言えば嘘になる。それでも佐藤弁護士たちは一筋の光を見出した。棄却理由書に記された「検査対象資料の来歴に関する裏付けのない押田報告書にあっては、その証拠価値は極めて乏しい」との一文だ。

宇都宮地裁の池本壽美子裁判長が指摘したのは、弁護側の鑑定に用いた毛髪が本当に菅家さんのものであることの証明がないので新証拠としての証拠価値がない、ということだ。毛髪が本人のものと証明できれば再鑑定の道が開ける。菅家さんには当時、5歳年上の兄の秀典さんがいた。兄弟鑑定で証明できるのではないか。

菅家利和さんの兄の秀典さん(中央)に血液採取の手順を説明する佐藤博史弁護士(左)と日本大学の押田茂實教授(右)

菅家利和さんの兄の秀典さん(中央)に血液採取の手順を説明する佐藤博史弁護士(左)と日本大学の押田茂實教授(右)

 

方針が決まり、再び押田教授と鉄講師に挑んでもらった。秀典さんは血液を、菅家さんは独自鑑定で使用した残りの毛髪の1本を、最新のSTR法によって鑑定した。常染色体にあるSTR15部位のうち共有するDNA型が比較的多く、性染色体であるY染色体のSTR16部位が全て一致すれば血のつながった兄弟である。

08年11月13日付の押田鑑定書によれば、Y染色体はSTR16部位の全ての型が一致した。この結果から同じ父親を有する兄弟であっても矛盾しないと結論付けられた。毛髪が菅家さんのものであることが、はっきり証明できたのである。

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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